魅惑のマーメイド()
王都の冒険者ギルドの奥深く。
俺とセレスは、重厚な扉の奥にあるギルドマスターの執務室に呼び出されていた。
理由は明白だった。
昨日、街道で暴れていたAランク魔物『狂暴猿』を瞬殺した功績が、早くもギルド上層部に報告されたからだ。
「単刀直入に聞く。あの狂暴猿を、たった二人で……しかも無傷で討伐したのは事実か?」
筋骨隆々の初老の男、ギルドマスターのガルドが、鋭い眼光で俺たちを睨みつけた。歴戦の戦士特有の威圧感だ。
「ええ、事実よ。彼――リオンの魔法一撃で仕留めたわ」
セレスがソファに深く腰掛けたまま、氷のように冷たく澄んだ声で答えた。
彼女の『氷の聖女』としての外面は完璧だった。昨日の街道で四つん這いになって笑い転げていた姿など微塵も感じさせない。
「一撃だと? 報告によれば、魔法の詠唱すら確認できなかったそうだが……」
「俺のスキル【詠唱破棄】の恩恵だ」
俺は短く答えた。極力クールに、そしてボロが出ないように。
「信じられん。あの闘技場で大恥をかいた元勇者も『詠唱破棄』を自称していたが、あれはただの狂人だった。お前も同じ類ではないという証明ができるか?」
「証明、とは?」
「ここで実際に魔法を見せろ。なに、火を放てとは言わん。そこにあるロウソクの火を、初級の水魔法で消してみせろ」
ガルドが机の上のロウソクを指差した。
俺の背筋に嫌な汗が伝う。
初級魔法。
威力は弱いが、発動条件である『羞恥ポーズ』も上級魔法に比べればマシな部類だ。
だが、この厳格なギルドマスターの目の前でそれをやるという精神的苦痛は計り知れない。
チラリと隣を見ると、セレスが微かに肩を震わせていた。
彼女は口元を扇子で隠しているが、その奥の瞳は「早くやりなさいよ」と期待でキラキラと輝いている。絶対にこの状況を楽しんでいる。
「……分かった」
俺は覚悟を決め、執務室のふかふかの絨毯の上に歩み出た。
そして、ゆっくりと床に横たわった。
「なっ、何をしている!?」
「詠唱の代わりだ。頼むから黙って見ていてくれ」
俺は床に寝そべったまま、片手で頭を支え、腰のラインを不自然なほど強調する『悩殺マーメイドポーズ』をとった。
さらに顔面は、舌を限界までベロベロと出しながら、両目を中央に寄せる『完璧な寄り目』。
名付けて、初級水魔法発動フォーム『浜辺の狂った人魚』だった。
「…………は?」
歴戦のギルドマスターが、完全に理解を拒絶した顔で固まった。凄まじい殺気を放っていた男が、ただの困惑するおじいちゃんと化している。
『ブホォッ……!!』
隣から、破裂音のような吹き出し声が聞こえた。
見ると、セレスが扇子で顔を覆い隠し、ソファの上で小刻みにバウンドしていた。
聖女らしからぬ奇声が漏れているが、必死に咳払いで誤魔化そうとしている。
「ご、ごほっ! げほっ……! え、ええと、これが彼の……ひぐっ……独自の魔法陣形よ……っ! あはっ!」
「こ、これがか!? ただの変態にしか見えんが!」
ガルドが叫ぶと同時、俺の寄り目から魔力が弾けた。
「シュボッ」という間の抜けた音と共に、舌先から小さな水球が発射され、見事に机の上のロウソクの火を消し飛ばした。
「なっ……本当に詠唱なしで……!?」
「……確認できたな。なら、もう起き上がるぞ」
俺は素早く立ち上がり、服の埃を払ってクールな無表情を取り繕った。顔が熱い。今すぐこの場から逃げ出したかった。
「あ、あははははははっ!! なによあの人魚っ! 舌出てるっ! 寄り目でセクシーポーズって……む、無理っ、息がっ……!」
ついに限界を迎えたセレスが、ソファから転げ落ちて絨毯の上で悶絶し始めた。氷の聖女の威厳は、ギルドマスターの目の前で完全に崩壊した。
「せ、聖女殿!? どうされたのだ!?」
「彼女は疲れているんだ。今日はこれで失礼する」
俺は笑いすぎて痙攣しているセレスの首根っこを掴み、呆然とするガルドを残して執務室を足早に後にしたのだった。
一方その頃。
王都の地下下水道では、悪臭にまみれた元勇者が、壁に向かって一人で熱心に『マーメイドポーズ』の練習に励んでいた。
「くそっ……俺の美しさが足りないというのか……! もっと腰をくねらせねば……!」
彼が謎のポーズで腰を振っている背後から、汚水に生息する巨大なスライムが音もなく忍び寄り、その頭からヌルリと丸呑みにしようとしていることなど、彼はまだ気づいていなかった。




