第九話:小悪魔の誘惑
その言葉を最後に、僕の視界は彼女の赤い髪で覆われた。
甘い、ベリーのような香りが鼻腔をくすぐる。
アオイ先輩の時とは、全く違う匂いだった。
唇に触れたのは、驚くほど柔らかくて、熱い感触。
それは、アオイ先輩の不器用なキスとは全く違っていた。
僕の唇をなぞるように、角度を変え、そして、こじ開けるように、彼女の舌が侵入してくる。
「……ん……っ!」
思わず漏れた声は、彼女の唇に吸い込まれた。
頭が真っ白になる。
抵抗しようにも、身体に力が入らない。
いや、違う。
僕の身体は、抵抗することを忘れて、目の前の快感に溺れようとしていた。
アオイ先輩との経験が、僕の身体のどこかに、まだ燻っていた熱を呼び覚ましたようだった。
長い、長いキス。
僕の思考が完全に溶けてしまうんじゃないかと思った頃、唇がゆっくりと離れた。
目の前には、満足そうに僕を見下ろす鴻上先輩の顔。
その瞳は、熱っぽく潤んでいて、僕の心を射抜くようだった。
「……どう?これが危ないお客さんのやり方。ちゃんと、勉強になった?」
いたずらっぽく笑いながら、彼女は僕の耳元で囁く。
その吐息が、僕の理性をさらに麻痺させていく。
僕は、浅い呼吸を繰り返すだけで、何も答えることができない。
「返事がないってことは、もっと実習が必要ってことかな?」
彼女の手が、僕の着ているベストのボタンにかけられる。
一つ、また一つと、ボタンが外されていく感触が、やけに生々しい。
やめろ、と言わなければ。
でも、声が出なかった。
それどころか、僕の身体は、彼女の次の行動を期待しているかのように、熱を帯びていく。
まずい。
これは、本当にまずい。
バイト初日に、会ったばかりの先輩と、こんなことになるなんて。
でも、どうしてだろう。
アオイ先輩の時のような混乱や恐怖は、不思議と感じなかった。
ただ、目の前の小悪魔が、僕をどうしてしまうのか。
その好奇心が、僕のすべてを支配していた。
アオイ先輩は、強引だったけれど、どこかに弱さが見えた。
でも、この人は違う。
僕をからかい、反応を楽しみ、まるでゲームのように、この状況を支配している。
それが、悔しいはずなのに、心のどこかでスリルを感じている自分がいた。
僕も、少しずつ、この都会の空気に、この世界の常識に、染まり始めているのかもしれない。
「……あんた、本当に面白い。もっと、いろんな顔、見てみたくなっちゃった」
彼女の唇が、僕の首筋に寄せられる。
ぞくりとした感触に、僕の背筋が震えた。
もう、だめだ。
僕は、この悪魔の誘惑に、抗うことができない。
「大丈夫。先輩が、全部教えてあげるから」
その言葉は、僕を安心させるためのものなのか、それとも、絶望の淵に突き落とすためのものなのか。
僕には、もう分からなかった。
ただ、その甘い囁きに、僕は静かに身を委ねることにした。




