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第八話:悪魔の囁きと新しい扉

悪魔のような、しかし魅力的な誘いだった。

時給の高さもさることながら、このまま一人で悩み続けているよりは、何か新しいことを始めた方がいいのかもしれない。

それに、目の前にいるこの鴻上さんと名乗った女の子。

小柄な身体に、気の強そうな瞳。

彼女から目が離せない、不思議な魅力があった。


「……見学だけでも、いいですか?」

僕がそう言うと、彼女は「ふーん」とつまらなそうに鼻を鳴らした。

「まあ、いいけど。ついてきな」

彼女は僕に背を向け、店のドアへと向かう。

僕は、その後ろを慌てて追いかけた。


カラン、とドアベルが軽やかな音を立てる。

店内は、外の喧騒が嘘のように落ち着いた雰囲気だった。

薄暗い照明に、磨き上げられたウッドカウンター。

奥には、ビリヤード台とダーツマシンが一つずつ置かれている。

カウンターの中では、黒いベストを着たショートカットの女性が、黙々とグラスを磨いていた。

客はまだ数人しかいなかったが、その全員が女性だった。

彼女たちは静かにグラスを傾け、時折、楽しそうに言葉を交わしている。


「店長、この子、今日からここで働くことになったから」

「は?」

カウンターに着くやいなや、鴻上さんはとんでもないことを言った。

店長と呼ばれた女性が、訝しげな目を僕に向ける。


「ちょ、ちょっと待ってください!僕、まだ見学って……!」

「あんた、お金に困ってるんでしょ?だったら、ここで働くのが一番手っ取り早い」

鴻上さんは、僕の反論など聞こえないかのように話を続ける。

「大丈夫、この子、見た目は可愛いし、素直そうだから使えるって。ね?」

最後の言葉は、僕に向けられていた。

有無を言わせぬ、強い眼差し。

僕は、またしてもこのパターンか、と心の中でため息をついた。

都会の女性は、どうしてこうも強引なんだろう。


結局、僕はその場で採用が決まり、すぐに着替えてこいとスタッフルームに押し込まれた。

渡されたのは、黒いシャツとベスト、それに長いエプロン。

鏡に映った自分の姿は、なんだか見慣れなくて、少しだけ恥ずかしかった。


僕の最初の仕事は、フロアに出て、お客さんから注文を取ることだった。

「あ、あの、ご注文は……」

緊張で、声が上ずる。

女性客たちは、そんな僕を面白そうに眺めていた。

「新人君?可愛いねー。じゃあ、とりあえず生で」

「あたしはカシスオレンジ。君みたいに甘いやつね」

次々と投げかけられるからかいの言葉に、僕はどう返せばいいか分からず、ただ愛想笑いを浮かべることしかできない。


なんとか注文をこなし、カウンターに戻ると、鴻上さんが僕を手招きした。

「どう?少しは慣れた?」

「いえ、まだ全然……」

「まあ、最初だしね。でも、一つ忠告」

彼女は真剣な表情で、僕の目をまっすぐに見た。

「うちは客層がいい方だけど、それでも変な客はいるから。特に、あんたみたいな可愛い子は、すぐに目をつけられる」

また、可愛い……。

僕は、その言葉に少しだけむっとした。


「あんまりお客さんと話し込みすぎないこと。連絡先とか聞かれても、絶対教えちゃだめ。分かった?」

「は、はい」

その真剣な眼差しは、僕のことを心配してくれているように見えた。

面倒見がいい、という彼女の性格の一端が垣間見えた気がした。


閉店時間が近づき、客足もまばらになってきた頃。

僕は、スタッフルームで一人、休憩を取っていた。

慣れない仕事で、身体はくたくただ。

でも、不思議と嫌な気持ちはなかった。

むしろ、新しい環境に少しだけわくわくしている自分がいた。


「――お疲れ、春樹」


不意に、ドアが開いて鴻上さんが入ってきた。

その手には、グラスが二つ。

一つを僕に差し出しながら、彼女は僕の隣にどかりと腰を下ろした。


「これ、賄い。ノンアルだから、あんたも飲めるでしょ」

渡されたのは、綺麗な青色をした炭酸飲料だった。

一口飲むと、爽やかな柑橘系の香りが口の中に広がる。

美味しい。

「ありがとうございます」

僕が礼を言うと、彼女はふふん、と得意げに鼻を鳴らした。


「それで、さっきの忠告の続きなんだけどさ」

彼女は、自分のグラスを飲み干すと、くい、と僕の顎を掴んだ。

「え……?」

「危ないお客さんっていうのはね、例えば……こういうことをしてくるわけ」

次の瞬間、僕はソファの上に押し倒されていた。

何が起こったのか、理解できない。

目の前には、僕を見下ろす鴻上さんの、小悪魔のような笑顔。


「な、何するんですか……!」

「だから、説明してるんでしょ。こうやって、無理やり……ね?」

彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

僕は抵抗しようとしたけれど、小さな身体のどこにそんな力があるのか、びくともしない。

不意に、昨夜のアオイ先輩の顔が脳裏をよぎった。

あの時の、熱い唇の感触と、甘い匂い。

目の前の状況は、あの時とよく似ていた。

恐怖よりも先に、どうしようもない既視感と、目の前の小悪魔に対する好奇心が僕の心を支配した。


僕が抵抗するどころか、好奇に濡れた瞳でじっと見つめ返していることに気づき、彼女は意外そうに目を丸くした。

「……あれ?怖くないの?むしろ、ちょっと期待してる顔してない?」

くすくすと楽しそうに笑う。

「……こういうのが、危ないお客さん、なんですか?」

僕は、わざと首をこてんと傾けて尋ねてみた。

「……あんた、本当に面白い反応するね」

その瞳は、さっきまでの真剣なものとは違う、獲物を見つけた肉食獣のような色をしていた。

「……ちょっと、からかうだけのつもりだったんだけど」


「――我慢、できなくなっちゃった」


その言葉を最後に、僕の視界は彼女の赤い髪で覆われた。

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