第七話:日常と新たな一歩
自分の部屋に帰り着いた僕は、鍵をかけるのも忘れて、そのままベッドに倒れ込んだ。
しんと静まり返った、がらんとしたワンルーム。
昨日の朝までは、この静けさが当たり前だったのに。
今は、その静寂がやけに重く感じられた。
『私と、付き合ってください』
『君の初めてを奪ったんだよ?だったら、私がちゃんと君のこと、守ってあげなきゃ』
『付き合うって話も、本気だから』
先輩の言葉が、頭の中で何度も再生される。
守る?付き合う?責任?
僕の知っている言葉なのに、その意味がここでは全く違うものになっているようだった。
この世界は、一体どうなっているんだ。
僕が電車で感じた、あの奇妙な浮遊感。
あれが、すべての始まりだったんだろうか。
考えても、答えなんて出るはずもなかった。
重い身体を引きずって大学に向かう。
講義の内容なんて、全く頭に入ってこない。
僕はただ、ぼんやりと教壇を眺めながら、自分の身に起きたことの意味を考えていた。
時々、ショートカットの女子学生が視界に入るだけで、心臓が大きく跳ねる。
アオイ先輩じゃないかと、無意識に探してしまう自分がいた。
会いたいのか、会いたくないのか。
それすら、自分でもよく分からなかった。
昼休み、僕はサークルの勧誘で賑わう中庭を避け、少し離れたベンチに座った。
コンビニで買ったパンを、味も分からないまま口に運ぶ。
これからどうしよう。
アオイ先輩とは、どういう顔で会えばいいんだろう。
「……あ、あの……ハルキ、くん?」
不意に、背後からか細い声がした。
振り返ると、そこに立っていたのはナツさんだった。
大きな瞳を不安そうに揺らしながら、僕のことを見ている。
「ナツさん。どうしたの?」
「ううん……ハルキくんが、一人でいるから……その、元気、ないのかなって」
おどおどと話す彼女の姿に、僕は少しだけ心が和んだ。
この人は、僕が昨日まで知っていた世界の人間と同じだ。
そう思うと、無性に安心した。
「大丈夫だよ。ちょっと、考え事してただけだから」
僕が笑いかけると、ナツさんはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「そっか……よかった」
「ナツさんこそ、もう友達できた?」
「……ううん、まだ……」
しょんぼりと俯く彼女に、僕は自分のことを棚に上げて、少しだけ親近感を覚える。
「そうだ。昨日の話だけど、ゲームのフレンドコード、交換しない?」
「えっ……い、いの……?」
「もちろん。僕も、こっちにはゲーム仲間いないからさ」
僕の言葉に、ナツさんの顔がぱっと明るくなった。
僕たちはスマートフォンを取り出し、連絡先とゲームのIDを交換する。
画面に表示された彼女のアバターは、屈強な鎧に身を包んだ、いかつい女戦士だった。
……見た目とのギャップがすごい。
「じゃあ、今夜あたり、一緒にひと狩り行こうか」
「……うん!」
力強く頷く彼女の姿は、大学でできた、僕にとって唯一の癒やしだった。
ナツさんと別れた後、僕はそろそろバイトを探さないとな、と考えながら大学の周辺を歩いていた。
一人暮らしには、何かとお金がかかる。
大学の掲示板にも募集はあったけど、せっかくなら自分の目で見て、良さそうな店を探したい。
そんなことを考えながら、慣れない街をあてもなく散策していたのが、間違いだったのかもしれない。
気づけば、僕は自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
「……あれ?ここ、どこだ?」
スマートフォンの地図アプリを開くが、似たような路地ばかりで現在地がうまく掴めない。
太陽は傾き始め、周囲は少しずつオレンジ色に染まっていく。
まずいな。
誰かに道を聞こうにも、人通りはまばらだった。
途方に暮れて、その場に立ち尽くしていると。
「――ねえ、君。もしかして、迷子?」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには一人の女の子が立っていた。
背は、僕よりずっと低い。
腰まで届きそうな、暗い赤色の髪をツインテールにしている。
気の強そうな瞳が、僕を面白そうに見つめていた。
「え、あ、はい。大学に戻ろうと思ってたんですけど……」
僕が正直に言うと、彼女は呆れたようにため息をついた。
「ふーん。あんた、新入生でしょ。この辺は入り組んでるから、慣れないうちは迷うんだよね」
彼女はそう言うと、顎でくい、とある方向を指差す。
「大学なら、そこの角を右に曲がって、まっすぐだよ」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
助かった。
僕が深々と頭を下げると、彼女は僕の顔をじろじろと値踏みするように見た。
「あんた、名前は?」
「え?あ、高木春樹です」
「春樹ね。ふーん……。バイトとか、探してないわけ?」
唐突な質問に、僕はきょとんとする。
「え、探してますけど……なんでそれを?」
「顔に書いてある。暇と金欠だって」
……そんなことまで分かるのか。
彼女はにやりと笑うと、自分の着ている制服の胸元を指差した。
そこには、『鴻上』という名札がついていた。
「私、そこのバーで働いてるんだけどさ。ちょうど人手、足りてないんだよね」
彼女が指差した先には、ガラス張りの洒落た外観の店があった。
『HOUND』と書かれた看板が、夕日に照で輝いている。
「時給いいし、賄いも出るよ。どう?興味ない?」
悪魔のような、しかし魅力的な誘いだった。
僕の新たな日常が、また動き出そうとしていた。




