第三十七話:崩壊の序曲
僕は目の前の小悪魔を決心した。僕の与える快感なしではいられないように、ゆっくりと、しかし確実に、その心を支配していくと。
その日を境に、僕とほむら先輩の奇妙な「練習」は僕の日常になった。
『ほむら先輩、今日の放課後、お時間ありますか?練習、しませんか』
『……へえ。あんたから誘ってくるなんて、珍しいじゃん。いいよ、行ってあげる』
ナツとの作戦会議通り、僕は毎日のように先輩を自分の部屋に呼び出した。
最初はまだ余裕があった。
僕が彼女を焦らし寸でのところで寸止めすると、彼女は悔しそうに僕を睨みつけながらも「……あんた、いい性格してるわね」と悪態をつくだけだった。
でもその瞳の奥には、満たされない熱が燻っているのが僕には分かっていた。
三日目になると変化は明らかだった。
僕が彼女の首筋にキスを落とすだけで、その身体はびくりと震え甘い声が漏れるようになった。
僕の指が肌をなぞるたびに、懇願するような瞳で僕を見つめてくる。
でも僕は決して、それ以上はしなかった。
彼女が求める一線を、決して越えはしない。
そしていつも同じタイミングで、僕は彼女から離れるのだ。
「練習ですよ。……今日は、もう終わりです」
その言葉を聞くたびに彼女の顔が絶望に染まっていくのが、たまらなく快感だった。
僕に完全に支配されている。
その事実が僕の心を静かに満たしていった。
そして一週間が経った、ある日のことだった。
その日、僕は大学の講義が終わった後、ナツと部室で次の作戦を練っていた。
『もうそろそろ、限界だと思う。今日の夜、バイトの後が勝負じゃないかな』
ナツの的確な分析に僕は頷く。
そんな話をしていると僕のスマートフォンが、狂ったように震え始めた。
画面に表示された名前は、『ほむら先輩』。
何度も、何度も、着信が繰り返される。
『……出てあげなよ。きっと、もう我慢できないんだよ』
ナツはくすくすと楽しそうに笑っている。
僕は意を決して、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『ハル……!どこにいるのよ!』
聞こえてきたのは切羽詰まった、今にも泣き出しそうな声だった。
「大学ですけど……」
『嘘!あんたの部屋、行ったのに!いなかったじゃない!』
その言葉に僕は少しだけ驚いた。
呼んでもいないのに部屋まで来ていたのか。
もう完全に、僕に依存しきっている。
『お願い、ハル……!会って……!もう、あたし、限界なの……!』
電話の向こうから嗚咽が聞こえてくる。
僕はナツと顔を見合わせた。
彼女は静かに頷いている。
計画通りだ。
「……分かりました。どこへ行けばいいですか」
『……あたしたちの、店に来て。バイト先……。開店前なら、誰もいないから……』
「分かりました。すぐ行きます」
その声は救いを求める、迷子の子供のようだった。
僕は電話を切ると、大きく息を吐いた。
最後の戦いが始まろうとしていた。
バイト先のバー『HOUND』に着くと、店の前には既にほむら先輩の姿があった。
その姿を見て僕は息を呑んだ。
髪は乱れ、目は泣き腫らしている。
僕が知っているあの気の強い小悪魔の姿は、どこにもなかった。
僕の姿を見るなり彼女は駆け寄ってきて、僕の胸に勢いよく顔をうずめた。
「……ハル……!」
その身体は小刻みに震えている。
僕は何も言わずに、その背中を優しく撫でた。
「……もう、やだ……こんなの……」
か細い、掠れた声だった。
「……あんたがいないと、あたし、もう、どうにかなっちゃいそうだよ……」
僕のシャツをぎゅっと掴む指に力がこもる。
「お願いだから……」
彼女は僕の顔を、潤んだ瞳で見上げた。
その瞳にはもう駆け引きの色はない。
ただ純粋な、僕への渇望だけが浮かんでいた。
「――あたしを、めちゃくちゃにして……」
その言葉は僕の完全な勝利宣言のように聞こえた。
僕は目の前の、完全に壊れてしまった小悪魔の、甘い降伏を静かに受け入れることにした。




