第三十一話:癒やしの裏切り
僕の平穏は、どうやら、まだ遠いらしい。
カチャリ、という無機質な音を立てて、僕とナツさんだけの空間が完成した。
その冷たい表情に、僕の心臓がどきりと音を立てる。
僕が知っている、あの大人しくて、少し怯えたようなナツさんじゃない。
「ナツさん……?どうして、鍵なんて……」
「……邪魔されたくないから」
ぽつりと、呟かれた言葉。
その声は、いつもより少しだけ低く、硬い。
彼女は、ゆっくりと僕の方に向き直ると、手に持っていたスマートフォンを、僕の目の前に突きつけた。
画面に表示されていたのは、一枚の写真だった。
薄暗い部室の中、パイプ椅子に縛り付けられたミサキ先輩に、僕がキスをしている決定的瞬間。
……いつの間に、こんなものを。
「こ、これ……どうして……」
「……たまたま、見ちゃっただけだから」
ナツさんは、淡々と答える。
でも、その目は、僕から逸らされない。
「高木君が、先輩たちと部室に入っていくのが見えて……なんだか、胸騒ぎがして、追いかけたら……こんなこと、してたんだね」
その声には、感情がなかった。
それが、逆に僕の罪悪感を煽った。
「ご、ごめん……!これは、その……!」
僕がしどろもどろに言い訳をしようとすると、ナツさんはふっと、自嘲するように笑った。
その笑顔は、僕が今まで見た中で、一番、悲しそうに見えた。
「……そっか。高木君って、そういう人だったんだ」
「え……?」
「いつも優しくて、誰にでもいい顔して……。でも、裏では、あんなことしてるんだね。……意外と、ビッチだったんだ」
その言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。
ビッチ……?僕が?
違う。僕は、流されて……。
でも、その言い訳は、もう通用しないのかもしれない。
「……あたし、ずっと、見てたよ」
ナツさんは、スマートフォンの画面をスワイプする。
次々と表示されるのは、僕がアオイ先輩に、ミサキ先輩に翻弄されている写真の数々だった。
いつから?どこから?
僕の知らないところで、僕の日常は、すべて彼女に監視されていたのだ。
背筋が、ぞくりと凍りつく。
「……ねえ、高木君」
ナツさんは、僕の前に、一歩、近づいてくる。
その瞳には、僕が今まで見たことのない、昏い光が宿っていた。
「先輩たちの相手ができるなら……」
彼女の指が、僕のシャツのボタンに、そっとかけられる。
「――あたしの相手も、できるよね?」
その言葉は、懇願でも、問いかけでもなかった。
断ることを許さない、絶対的な命令。
僕の唯一の癒やしだと思っていた存在は、僕が今まで出会った誰よりも、深く、そして歪んだ欲望を、その内に隠し持っていたのだ。
僕は、鍵のかかった部室の中で、ただ、なすすべもなく、その絶望的な事実を突きつけられることしかできなかった。




