第三十話:静かな呼び出し
地獄のような週末が終わり、悪夢のような月曜日がやってきた。
大学へ向かう足取りは、鉛のように重い。
僕の頭の中では、三人の先輩たちの顔がぐるぐると回っていた。
アオイ先輩とミサキ先輩との『共有ルール』。
そして、それを打破するために結んだ、ほむら先輩との『偽りの恋人』契約。
僕の大学生活は、一体どうなってしまったんだろう。
講義が始まってっも、内容は全く頭に入ってこない。
僕はただ、ぼんやりと教壇を眺めていた。
ふと、隣に座るナツさんに視線を移す。
彼女は、真剣な表情でノートを取っていた。
その姿は、僕が今いる混沌とした現実とはかけ離れた、平穏な日常そのものだった。
彼女と話している時だけが、僕の唯一の癒やしだ。
「……高木君?」
僕の視線に気づいたのか、ナツさんが不思議そうに顔を上げた。
「あ、いや、ごめん。なんでもない」
「……ううん。でも、なんだか、元気、ないみたいだけど……」
心配そうに僕の顔を覗き込む彼女に、僕は曖昧に笑い返すことしかできなかった。
その日の、最後の講義が終わった後。
僕は、一人、教室で荷物をまとめていた。
今日の出来事で、精神的に、ひどく疲れてしまった。
早く帰って、ゲームでもして、心を癒やしたい。
そう思った、その時だった。
「……高木君」
声をかけられ、顔を上げる。
そこに立っていたのは、ナツさんだった。
彼女は、何かを決心したように、僕の目をまっすぐに見つめていた。
「あのね、放課後、少しだけ、話、できないかな……?」
その声は、震えていたけれど、断ることを許さない、強い意志が感じられた。
僕は、彼女の申し出を、断ることができなかった。
チャイムが鳴り終わり、教授が退室していく。
周りの学生たちも、それぞれにサークルへ向かったり、友人たちと連れ立って帰路についたりと、教室はあっという間に閑散としていった。
放課後の喧騒が、遠くに聞こえる。
ナツさんは、僕を連れて、普段は行かないような、古い校舎の方へと歩いていく。
そして、一つの部室の前で足を止めた。
ドアに掛けられたプレートには、『漫画研究会』と書かれている。
「ここが、ナツさんの……?」
「……うん。私の、居場所」
彼女は、少しだけ照れたようにそう言うと、鍵を開けて、僕を中に招き入れた。
部室の中は、インクと紙の匂いがした。
壁一面の本棚には、びっしりと漫画が並べられている。
中央の大きなテーブルの上には、描きかけの原稿や、画材が散らばっていた。
そこは、彼女の世界そのものだった。
僕が部屋の中をきょろきょろと見回していると、背後で、カチャリ、と小さな音がした。
振り返ると、ナツさんが、部室のドアに鍵をかけていた。
その表情は、僕が今まで見たことのない、冷たい色をしていた。
僕の平穏は、どうやら、まだ遠いらしい。




