第二十九話:勝者と、新たな呼び名
濃厚なキスが終わっても、鴻上先輩は僕を離さなかった。
僕たちは、二人の先輩に見せつけるように、しばらくの間、ゼロ距離で見つめ合う。
その視線に耐えられなくなったのは、アオイ先輩が先だった。
「……っ」
彼女は、何かを言おうとして、でも言葉にならず、ただ悔しそうに唇を噛み締めた。
そして、僕と鴻上先輩の顔を一度だけ強く睨みつけると、踵を返し、逃げるようにバーから出て行ってしまった。
カラン、とドアベルが、やけに悲しく響く。
残されたミサキ先輩は、そんなアオイ先輩の後ろ姿と、僕たちを交互に見比べた後、面白そうに、ふっと息を吐いた。
「……へえ。あんたの勝ち、みたいだね」
その言葉は、鴻上先輩に向けられていた。
でも、その視線は、僕から逸らされない。
「まあ、今日のところは、退いてあげる。……でも、これで終わりだなんて思わないでよね、ハルキ君」
捨て台詞を残し、ミサキ先輩もアオイ先輩の後を追うように、店から出て行った。
嵐は、過ぎ去った。
後に残されたのは、僕と鴻上先輩。
そして、さっきまでの喧騒が嘘のような、静寂だった。
「……ふぅ」
鴻上先輩は、僕からゆっくりと身体を離すと、満足そうに一つ、息を吐いた。
「ま、こんなもんでしょ」
その顔には、勝利の女神のような、不敵な笑みが浮かんでいた。
僕は、まだ心臓が大きく音を立てているのを感じながら、呆然と立ち尽くす。
「……あんた、なかなかやるじゃん」
「え?」
「さっきのキス。悪くなかった」
先輩は、僕の唇を、自分の指でそっとなぞる。
その仕草に、僕の顔が熱くなるのが分かった。
「……ご褒美、あげなきゃね」
その言葉に、僕はびくりと身体を震わせる。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇った。
先輩は、そんな僕の反応を見て、くすくすと楽しそうに笑う。
「……その前にさ」
彼女は、僕の目をじっと見つめて、言った。
「恋人のふり、するんでしょ?だったら、いつまでも名字で呼ぶの、おかしくない?」
「あ……」
確かに、そうだ。
「あたしは、あんたのこと、『ハル』って呼ぶから」
「ハル……」
「あんたは?あたしのこと、なんて呼ぶ?」
その問いかけに、僕は少しだけ、迷った。
そして、意を決して、その名前を口にする。
「……ほむら、先輩」
「んー、まあ、及Dai点かな。本当は、呼び捨てにしてほしいけど」
先輩は、少しだけ不満そうに、でも、嬉しそうに目を細めた。
僕たちの間に、新しい空気が流れる。
それは、昨日までの、ただのバイト仲間としての空気とは、全く違う、甘くて、少しだけ危険な空気だった。
「……ねえ、ハル」
「は、はい、ほむら先輩」
「さっきのキス、あたし、全然満足してないんだけど」
先輩は、僕のネクタイをくい、と引いた。
僕の身体が、カウンターに引き寄せられる。
「……もう一回、しよっか。今度は、誰にも邪魔されないように、ね」
その瞳は、僕が今まで見た中で、一番、甘く、そして妖艶な色をしていた。
僕は、もう、彼女に逆らうことなんてできなかった。
先輩は、ひらりと身軽にカウンターに腰掛けると、僕の腕を強く引いた。
そして、自分もカウンターに乗り上げると、僕の上に、ゆっくりと覆いかぶさった。




