第十八話:嵐のあと、嵐のなかへ
衝立の向こう側、暗い部室で、僕を巡る二人の先輩の戦いが、今、始まろうとしていた。
僕の意思なんて、もうどこにもない。
ただ、この嵐が過ぎ去るのを、なすすべもなく見ていることしかできなかった。
「……離しなさいよ、ミサキ」
アオイ先輩が、地を這うような声で言った。
「やだね。ハルキはあたしのものだもん」
ミサキ先輩は、僕の腰に絡めた足にさらに力を込める。
「ふざけないで!ハルキが好きなのは、私に決まってるでしょ!」
「はあ?あんた、自分が何したか忘れたの?この子を無理やり……」
「それは、あんただって同じでしょ!」
二人の言い争いは、どんどんヒートアップしていく。
僕を間に挟んで、「ハルキはどっちが好きなの」という、悪魔のような質問が飛び交う。
答えられるわけがない。
僕の頭は、もう完全にショートしていた。
その、まさに二人の視線が僕に集中し、僕が何かを答えなければならない、というその時だった。
コン、コン、と。
静かな部室に、不釣り合いなほど丁寧なノックの音が響いた。
僕たち三人の動きが、ぴたりと止まる。
「……失礼します。まだ部室に残っている学生さんはいますか?もう大学は閉門時間ですので、速やかに退去してください」
聞こえてきたのは、年配の女性の声。
警備員さんだ。
まずい。
最悪のタイミングで、最悪の状況。
僕の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
アオイ先輩とミサキ先輩は、一瞬だけ顔を見合わせた。
そして、アイコンタクトだけで何かを理解し合ったように、同時に頷く。
アオイ先輩は、信じられないほどの速さでミサキ先輩を縛っていた紐を解くと、何事もなかったかのように僕たちの服を整え始めた。
ミサキ先輩も、何故かそれに協力している。
敵対していたはずの二人が、共通の危機を前に、一時的に共闘しているようだった。
「はーい、今出まーす!」
アオイ先輩が、明るい声でドアの向こうに返事をする。
僕たちは、数秒で何事もなかったかのような状態を取り繕い、衝立の奥からぞろぞろと出て行った。
ドアの前には、案の定、腕章をつけた警備員さんが立っていた。
「君たちか。もうこんな時間だぞ。早く帰りなさい」
「すみませーん、サークルの準備が長引いちゃって」
アオイ先輩が、完璧な笑顔で言い訳をする。
警備員さんは、僕たちの顔を訝しげに見ていたが、それ以上は何も言わず、僕たちを部室から追い出した。
大学の正門前。
街灯の光が、僕たち三人の気まずい影を地面に映し出していた。
嵐は、まだ終わっていなかった。
「……で、どうすんの、これから」
先に口を開いたのは、ミサキ先輩だった。
「ハルキの返事、まだ聞いてないんだけど」
「あんたは黙ってて。ハルキ、とりあえず、今日はもう帰りな。家まで送るから」
アオイ先輩が、僕の腕を掴む。
でも、それをミサキ先輩が許さなかった。
「はあ?なんであんたが送んのよ。あたしが送る」
「あんたの家、逆方向でしょ」
「あたしの家、ここから歩いて五分だから」
「……は?」
ミサキ先輩の言葉に、アオイ先輩が固まる。
それは、僕にとっても初耳だった。
「一番近いの、あたしの家だし。こんな時間なんだから、それが一番効率的でしょ?」
ミサキ先輩は、さも当然のように言う。
ぐうの音も出ない正論だった。
アオイ先輩は、悔しそうに唇を噛み締めている。
「……じゃあ、決まりだね」
ミサキ先輩は、僕の腕を掴むと、アオイ先輩に見せつけるように、ぐいと引き寄せた。
「行こ、ハルキ」
有無を言わせぬ力強さで、僕はミサキ先輩に連れて行かれそうになる。
「待ちなさいよ」
背後から、静かだが怒りを抑えた声がした。アオイ先輩だ。
「あんたがハルキを連れて行くなら、私も行く」
「はあ?なんであんたが」
「大事な後輩を、あんたみたいなのと二人きりにできるわけないでしょ」
アオイ先輩は僕のもう片方の腕を掴む。
二人の先輩に両腕を引かれ、僕は身動きが取れない。
「……ふーん。まあ、いいや。どっちにしろ、ハルキが選ぶのはあたしだけどね」
ミサキ先輩は挑発的に笑うと、僕の腕を引いて歩き出した。
アオイ先輩も、僕の腕を離さずに、無言で隣を歩く。
こうして僕は、二人の先輩に挟まれる形で、ミサキ先輩の家へと向かうことになった。
僕の意思なんて、もうどこにも、ありはしなかった。




