第十話:小悪魔の後悔
荒い息遣いだけが、静かなスタッフルームに響いていた。
僕は、まだ少しぼんやりとした頭で、僕の上でうつ伏せになっている先輩の姿を見た。
僕に身体を預けたまま、顔だけを横に向けて腕にうずめている。
さっきまでの、僕を翻弄した小悪魔のような姿はどこにもなかった。
ただ、その肩が小さく震えているのが、薄暗がりの中でも分かった。
「……あの、先輩?」
僕が声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねる。
しばらく、気まずい沈黙が続いた。
僕が何か言おうと再び口を開きかけた、その時だった。
「……うそ」
か細い声が、先輩の口から漏れた。
彼女はゆっくりと身体を起こすと、信じられないものを見るような目で、僕と乱れた自分たちの服を見た。
そして、その顔が、さあっと青ざめていくのが分かった。
「……私、何やって……」
さっきまでの余裕綽々の態度は、どこかへ消え失せていた。
その瞳が、絶望の色を浮かべて、僕を捉えている。
「新人の子に、バイト初日に、なんてことを……!」
彼女はがっくりと膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
床に手をつき、わなわなと震えている。
その姿は、昨夜の小悪魔とは、あまりにもかけ離れていた。
そして、勢いよく僕の方に向き直ると、土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
「せ、先輩!?」
「さっきのことは、全部忘れてください!あれは研修でも何でもない!ただの私の出来心です!訴えないでください!お願いします!」
必死の形相だった。
その姿は、数日前のアオイ先輩の姿と、奇妙に重なって見えた。
「だ、大丈夫ですから!顔を上げてください!」
「大丈夫なわけないでしょ!私はあんたに、取り返しのつかないことをしたんだよ……!こうなったら、私が責任、取るから……!」
「責任!?」
また、その言葉だ。アオイ先輩にも、同じことを言われた。
「そうだよ!あんた、田舎から出てきたばっかりで、こういうの慣れてないんでしょ?だったら、私がちゃんと面倒見てあげなきゃ……!」
「面倒、ですか?」
「そう!あんたが変な女に引っかからないように、こういうことは私が全部教えてあげる!だから、感謝しなさいよね!」
先輩は、涙目ながらも、なぜか得意げにそう言った。
その発想は、アオイ先輩の「彼女になる」というものとは少し違うけれど、根本的な部分では同じ匂いがした。
この人も、アオイ先輩と同じだ。
強気な態度の裏に、脆い部分を隠している。
そう思うと、なんだか可笑しくなってきて、僕は思わず吹き出してしまった。
「……え?」
僕が笑ったことに、先輩はきょとんとした顔を向ける。
「ごめんなさい。なんだか、先輩も普通の人なんだなって思ったら、安心して」
「普通って……。あんた、自分が何されたか分かってんの……?」
「分かってますよ。でも、嫌じゃなかったですから」
僕がはっきりと言うと、先輩は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせた。
「……あんた、やっぱり、変だよ」
しばらくして、ぽつりと呟かれた言葉。
でも、その声には、もうさっきまでの必死さや敵意はなかった。
僕たちは、しばらくの間、気まずい沈黙の中で見つめ合った。
僕たちの、歪で奇妙な関係が、こうして始まったのだ。




