祝福の鐘が鳴る
「約束の、破滅の日」シリーズ番外編です。
「神の裁きは待たない」及び「その希望は、神に届かなかった」とはまったく別の、パスス君とかルド様のいない世界の、リタ嬢のお話です。
この一作だけでも読めます。よろしくお願いします。
約束の、破滅の日。
けれどその日は、突然やってきた。
***
5年前。
私の前でお茶を零すような真似をした侍女の足を、細いヒールで踏み抜き骨折させようとしている最中に、前世らしい此処とは全く違う世界での記憶を取り戻した。
前世の私は普通の高校生だった、と思う。そこまでの記憶しかない。どちらかというと教室に居場所が作れずに少しの時間でも図書室にいるような、友達は物語の中にいるような子だった。
そうして、前世を取り戻すきっかけとなった侍女を骨折させようとした、あの時。
私はたった数滴とはいえ、お茶を掛けられた怒りとぐりぐりと足の裏に感じる侍女の細い骨を探してへし折ろうとする執念に、自らドン引きすると共に、『あ、これあの小説の中に出てくる悪役令嬢とのエピソードと同じだ』と思った。その瞬間、パァッと頭の中で前世での記憶がまるで走馬燈のように頭の中で走り抜けたのだった。
慌てて足を退け、侍女へ謝っても後の祭り。
それまでの暴力的な仕打ちも相まって、私は使用人達から完全に距離を置かれた。
それでも。前世の知識と良識を手に入れた私は、自分が思い出した小説の中に出てくる悪役令嬢リタ・ゾール侯爵令嬢とならないよう、私なりに努めてきた。
でもたった5年でなにができたかといえば、ある意味なにもできなかった。
最初の一年は、できるだけ傍にいる使用人達に優しくするよう心掛けた。
でもそれまでの行いが酷すぎたせいなのか、裏があると思われて絡まれないよう遠巻きにされるようになっただけだった。
無理に交流を持とうとしてもいきなりは無理だったなと反省し、まずは理想の令嬢になる為の勉学に努めることにした。
そんな私に、家庭教師たちはまるで降参させようとムキになっているかのようにより高度な教育を詰め込んでいく。しかし、小説の中のリタが基本ハイスペックだったからだろうか。私はそれを易々とはいかないまでも理解し身に付けることができた。それがまた家庭教師には腹立たしいのか、ぎろりと睨まれながらより高度なものへと勉強の内容はどんどんと高度になっていく。
『隣国の公用語で挨拶ができるようになりましょう』というだけだった筈の講義は、いつの間にか『貿易に関する専門用語を交えた会議に参加できるようになるまで』と変わっていた。隣国の公用語を修めればさらに隣の国、そのまた隣の国と課題はどんどん増えて要求レベルは上がっていく。
気がつけば、私は5か国語を通訳なしで直接意思の疎通が卒なくでき、読み書きだけなら更に3か国語の公文書を作れるまでになっていた。
お陰で、たった一人の兄にまで睨まれるようになった。
小説の中では、最後の最後までリタを改心させようと心を砕いてくれたたった一人の人だったのに。
そうはいっても完全なる味方ではなくて、愛しい男爵令嬢を自分の妹が虐めているという葛藤がスパイスとなって彼の片思いが読者にとって甘くなる、というものでしかなかったのだけれど。
しかも。教師陣から私の成績優秀さが伝わって、王太子殿下の婚約者として指名されることになった時には、大失敗したと心から思った。
それでも、今更頭が悪い振りなどできもせず、求められるまま知識を増やす日々が続く。
王太子妃となるには芸術の素養が必要だと、有名な芸術家についての基礎知識に加えて素養のバックボーンやその作品への造詣まであらゆる知識を詰め込まれた。
知識だけでは駄目だと自分でもできるようになるようにと言われ、楽器はヴァイオリン、作詩と朗読、ダンス、と多種多様の素養について研鑽を求められた。
覚えなさいできるようになりなさいと言われる事はあまりにも多く、その要求レベルは果てしなく高かった。
おとうさまには、「王太子妃になるとはいえ、今からそれほどの学を女が身につけてどうする」とあまりいい顔をされず、おかあさまには「磨くなら、女性としての美しさにすればいいのに」と呆れられた。
綺麗になる努力も何も、如何にも悪役令嬢然とした私の顔つきは、お父様譲りの昏い水底のような黒にも見える深碧色をしたキツイ吊り目に、おかあさま似の酷薄に見える薄い唇、なにより意地が悪いと有名だったという祖母と同じ色をした、光の加減で碧掛かって見えるまっすぐな黒髪と、手入れをして化粧などを施せば施すほど、きつい気性に見えるのだ。
そのまま何も整えない方がよほどましだと思うのに、今日もおかあさまの指示の下、侍女たちの手によって私は完璧な悪役令嬢にたる外見へと磨かれていくのだった。
鏡の中の私は、挿絵より少し若く見えたけれどそれ以外は記憶の中の挿絵にあった悪役令嬢そのもので、それが頭にあるせいと、思い出した前世の引っ込み思案の性格も相俟って呼ばれたお茶会に出席しても誰かと気安い会話をすることすらできない。
それでも、教え込まれた所作のとおりに理想の軌道からズレることなく動く手足は軽やかで。
顔の表情筋は、未来の王太子妃として嫋やかに見える教えられた通りの笑みを形作る。
それら全てが揃うことで、私は自身の悪役令嬢としてのポジションを確固たるものとしていった。
何人かのご令嬢達が媚びへつらうように私の周りでなにかを囀り始めたけれど、小説の中でリタの手足となって暗躍する令嬢たちであることに気が付いて、取り巻きなど作らないと決めていた私が扇で口元を隠して無視し続けている内に何故か敵対されるようになってしまったのが可笑しかった。
味方は作れないのに、敵はいくらでも簡単に作れる。
取り巻き達の敵対も、おにいさまとの敵対も。
小説にはない展開だというのに、悪役令嬢らしいそれは改変可能なのだということにうすら寒くなり哂いが洩れる。
ならば学園に通うようになる前、王太子殿下がヒロインである少女と心を通わす前に、私を嫌い抜いて婚約を破棄して下さればいいのにと願わずにはいられない。
嘘。
本当は、ふたりでの時間など取ってくれない冷たい婚約者でしかない王太子殿下が、公式の場でだけは優しい視線を向けて下さることに心が揺れて仕方がない。
小説を読んでヒロインに感情移入してた頃、素直に憧れた理想の王子様がすぐ傍で笑っている。
それが贋物の笑顔でしかないとはいえ、悪役令嬢に微笑みかけてくえれる唯ひとりの人。
公式の場だけでも、優しい完璧な婚約者の振りをされるから。
他の誰からも受けられない優しい言葉を掛けられて、絶対に心を寄せては駄目だとどれほど気を引き締めようと思っても、惹かれていく気持ちを止められず心が傾いていく。
破れると判っていて恋する自分の愚かしさに反吐がでる。
虚しい。恋心などを募らせても、どうせあと2、3年後にぽっと現れた平民まがいの男爵令嬢にすべてを奪われて死ぬ運命にあるというのに。
今日もまた、実現することのない王妃教育が詰め込まれていく。
その努力の価値を認めてくれる者など、どこにも誰もいないというのに。
小説の舞台となる学園での生活が始まってすぐに気が付いた。
自分がどんな努力をしようとも、悪役令嬢という役を降りることはできないのだと。
腹立たしいことにたとえどんなに気を付けても私についての情報は捻じ曲がって伝わるらしい。
同じ部屋で誰がどう転んでも私のせいになる。
同じ教室にいたとしても遠くの席に座っているだけの私が、視界に入ってもいないドアから入ってきた生徒をどう転ばせることができるのか。謎だ。
果ては隣のクラスで花瓶が割れても、違う学年の生徒が何かを失くしても、その全てが私のせいだということになるらしい。意味が判らない。
ここまでくると誰かの失敗を押し付けられているだけではないかと思うのだが、誰もそれを口にせず、私の名前を出すと周囲の人間は誰もが諦め交じりの溜息を吐き、それ以上追及することをやめるのだ。
そんな風に、ありとあらゆる悪い事が私のせいになるから気が付かなかった。
すでにヒロインが、王太子と出会っていることに。
小説にあるような最上級生となる3年生になってからの転入ではなく、同学年の新入生として下位貴族家のクラスにいることに。
気付かなかったのは、なにも転入時期がずれているからだけではない。
名前が違っていたからだ。家名も違う。爵位も、男爵家ではなく子爵家だった。
髪の色も違う、瞳の色も違う。見た目はまったくの別人だった。
けれど、髪形や言動はそのままだったのに。
クラスメイトとの交流を最低限にしていた私には、王太子と私の知らないヒロインが、すっかり恋仲になるまで気が付けなかったのだ。
憎かった。本来なら、直接口を利くことすら憚られる低位の貴族位にありながら、殿下と気安く肩を並べる姿が。
憎かった。私に比べて碌に勉強の出来ないヒロインが、「彼女は努力家なんだ」と目を眇めて愛しそうに見つめられ、褒められる姿が。
私は、あれほど頑張っても誰にも褒めて貰えないというのに。
私の婚約者ですら、褒めてくれないというのに。
だから。
もういいか、と思ったの。
今生を生きている価値が、悪役令嬢である私という存在の価値が見出せない。
だから。
***
「リタ・ゾール侯爵令嬢。お前との婚約は破棄する。この学園で最も嫌われる存在が、この国の未来の国母となることを許す訳にはいかない!」
約束された破滅の日、私を断罪するショーが、2年も早く突然はじまった事にも、それほど驚かなかった。
「なにかの間違いです。私は、自らに恥じるような事は何もしておりません」
「あれだけ忌み嫌われておりながら、それを自覚することすらできないのか」
「私は、未来の王妃となるべく勉学に努めてきただけでございます」
「未来の王妃たるべく、周囲に毒を吐き散らし、意味もなく傷つけ、独裁者のようにふるまっていたというのか。馬鹿な。そんな王妃を戴く国は亡びる。冗談も休み休み言え!」
やはり、無駄のようだ。
この学園に碌にいない私が一体何をしたというのだろうか。何ができたというのだろうか。
『未来の王妃として研鑽を積むがいい』
そんな国王陛下のお言葉により、遠い国との国交を開く、貿易に関する取り決めを結ぶような場には、未来の王族として場を華やかせるといわれては必ず呼び出され、時には国境付近まで出向いていたというのに。
その場での会話に齟齬が出ぬようにと、時には夜を徹して外交文書の草稿まで作らされていたのに。
肝心の婚約者である王太子殿下は、その場に呼ばれていないだけでなく私が通訳として参加していたことすら知らないようだ。
虚しさが心に募る。
もう、いい。やっぱり、もういい。
「殿下は、私の言葉を何ひとつ信じては下さらないのですね」
偽者でしかないヒロインの言葉は簡単に信じたというのに。
名前も爵位も髪も瞳の色も。なにもかもが違うというのに、言動やちょっとした仕草まで小説の中のヒロインそのものだなんて。疑うなという方が無理だ。
調べてみれば、あっさりと某国と内通していることが分かって、こちらが拍子抜けした位だった。
貴方が背負って立つことになる、この国の未来を思って努力を重ねてきた私よりも、そんなあからさまに怪しい令嬢の手を取るというのなら。
もういい。もう、たくさんだ。
私のその言葉を、「とぼけたことを。そんな台詞に騙される私だと思うのか」と吐き捨てた王太子殿下に向けて最後の言葉を告げる。
「アルフェルト・ゲイル王太子殿下。ずっとお慕いしておりました。あなたさまにだけは、私を信じて戴きたかった」
最後にどうしても伝えたかったその言葉は、呪いだ。
無実の令嬢を冤罪で貶め、この国を乗っ取ろうとでもしている他国の間者の手を取った売国奴となったと知った時、私が最後の一瞬まで恋した貴方へ、夜毎苦しむ未来がやってくる事をこそ、希う。
そうして。
自身の手で全てに終わりを告げるべく窓に向かって走りだした私は、真後ろから聴こえた派手な打擲音と罵声に驚いて足を止めた。
「ばっかじゃないの! リタ・ゾール嬢に、糞くだらない虐めとかする暇なんてある訳がないでしょ。この国の、禄に外交相手の言語を話すことも書くこともできない駄目ダメ外交官共に代わって、日夜諸外国との文書を製作したり、通訳をやらされてるんだから。今日、登校してきたのだって、ひと月振りじゃないのよ」
まるで、下町っ子のような口調で派手に追及しているのは、あろうことかつい先ほどまでアルフェルト殿下のすぐ横で笑っていた、偽ヒロインだった。
「ピア・ポラス嬢」
思わず名前を呟けば、その令嬢は満面の笑みを讃えてリタに向き直り最上級の礼を以て挨拶した。
「この国の叡智たるリタ・ゾール侯爵令嬢に名前を知って戴けていたとは。光栄にございます。ポラス子爵家が一女ピアと申します」
指先まで神経の行き届いた美しいカーテシーの動きに合わせて、やわらかな胡桃色の髪がさらりと流れた。
きらきらと輝く瞳にみつめられて、リタは自分の足が勝手に一歩後ろへと引き下がった事に気が付いた。
たかが子爵令嬢とはいえ、相手は異国の間者だ。
力もそれを揮う技術も体力もすべて、頭脳こそ誇るリタには抗うことは敵う訳がない。身体が勝手に怯み負けを認めているようで、悔しさに頬が染まった。
そうしてそれは正しい推測であったようで、リタが下がった分以上に素早く大股で近寄って来たピアに、あっという間に手を取られた。
「リタ・ゾール様、ついにこの国とアルフェルト殿下に見切りをつけられることができたというなら。どうか、私のこの手を取って頂けませんか」
「え?」
「ピア嬢、なにを言っているんだ! 君はその女に虐められていたのだろう? 報復を恐れているなら、この俺が守る。約束しよう。安心してくれ」
アルフェルト殿下の言葉を、けれどもピアは鼻で哂った。
「まぁ。この国の王太子殿下ともあろう御方が、先ほどの言葉が理解できなかったのですね。私は、リタ様から嫌がらせなど一切受けたことはございません。というか、私以外の誰もがそうです。さぁ、皆様。リタ・ゾール様から嫌がらせを受けたという人がいるなら今すぐ申し立てを!」
ピア・ポラスが、芝居じみた仕草で食堂に会していた生徒一同へ声を張り上げ呼び掛けた。
けれど。意外にも、誰も手を挙げようとしない。当然といえば当然だ。私は嫌がらせなど何もしたことが無いのだから。
「さぁ? アルフェルト王太子殿下。これでお分かりでしょう。嫌がらせを受けた生徒など存在しないと」
「ま、待て。そんな筈はない。そうだろう、なぁ!」
ぐるり。
アルフェルトが周囲を取り巻く自分の味方である筈の生徒たちを見回すと、そのすべての視線が不自然に逸らされた。
「リタに、……リタ・ゾールから、花瓶を投げつけられて水浸しになったという令嬢はどこだ! 父親が手に入れた優れた美術品を皆の前で偽物呼ばわりされて名誉を傷つけられた者は? それに、それに……」
おろおろと、アルフェルトは思いつくままこれまで聞かされてきたリタ・ゾールの悪行を上げていくが、誰も手を挙げぬばかりか目を逸らす者ばかりだ。
アルフェルトは、自分の視界がぐにゃりと曲がるような、確固たる地面を踏みしめていた筈の足元がぐずぐずと崩れ落ちていくような錯覚を覚えて、思わず尻もちを着いた。
しかし、栄えあるゲイル王国の次代の国王たる王太子アルフェルト殿下がそれほどの異変に襲われているというのに、周囲にいる誰ひとりとして手を差し伸べる者はいなかった。
皆、真っ青な顔をして目を逸らし、頑なに口を閉ざしている。
「これでお分かりですか? 彼等は皆、尊き王太子殿下へデタラメを吹聴していたということですよ」
まるで鬼の首でも獲ったかのように。自慢げな様子であげつらうのは、アルフェルトが唯一として慈しんでいくことを心に決めた筈の令嬢だった。
小説のヒロインとそっくりな言行動をしていたならば、彼女は誰よりも可憐で、控えめで、けれども芯の強さがあって。
彼女と一緒ならば、この国を率いる未来も強くあれると信じられたに違いない。
そうして今日という日を迎えた筈だったのだろう。
それなのに。
「誰ひとりとして、リタ・ゾール侯爵令嬢から虐めを受けた生徒などいないのです。当たり前です。リタ様は近隣諸国にも知られたこの国随一の叡智。貴方が呼ばれた事のない外交の席で、一番真ん中で活躍されている御方。そんな彼女を妬み、嫉んだ彼等は、己がしでかした失敗を、悪役に仕立て上げたリタ・ゾール侯爵令嬢へと擦り付けていただけなのですから」
謳うように。踊っているように。
絶望に顔を染めて立つ生徒たちを見回しながら、ピア・ポラスが断罪していくのを、どこか別の世界で起きた出来事のように、見守る。
「ねぇ、そうでしょう? その最たる、元婚約者様。私達は手に手を取って、この国より去ります。どうぞ、二度とリタ様の叡智の恩恵を賜れると思われませぬよう。お前たちは誰ひとりとして、二度とこの御方の視界へ入ることすら、赦されない事と知れ」
その最後の言葉に籠められた圧に、そこかしこで令嬢たちが震えて泣き出した。
令息ですら言葉を失くしてへたり込む者もいる。
そうして。
私たちふたり以外の時間が止まったような学園を、手を取られて抜け出した。
***
ポラス家の馬車の中で、ようやく落ち着いて会話ができるというのに、私は何をどう訊けばいいのか分らずに固まっていた。
愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて見つめられても、これまでありとあらゆる人達から、避けられ、悪意をもって睨みつけられたことしかなかったから、どう反応していいのか分からない。
パクパクと口を何度も開け閉めしている私に、ピアが笑って話し掛けた。
「さぁ、リタ様。どの国がいいです? どこにしましょうか。内々に打診をしたすべての国から、よろこんで亡命を受け入れると快諾されてますよ。聖王国でも東の沿岸国家でも、ちょっと遠いですけど西方諸島でも、選び放題です」
ニコニコと、恐ろしい提案を受けて顔が貼りついた。
「いきなり選ぶのは難しいかもしれませんね。では全部の国を廻ってみて、気に入った国に亡命しましょうか。旅行してるみたいできっと楽しいですよ」
「え、あの。どういうことかしら。貴女は、東の沿岸国家の間者、なのでしょう?」
なのに、なぜ 他の、国力のつよい諸国の名前まで挙げていくのか。
「あれ、やっぱり調べちゃってました? ちゃんと隠せてるつもりだったのに。漏れちゃいましたかー。さすがリタ様」
ニコニコ、ニコニコ。
「……ねぇ、あなた。何者なの?」
「ピア・ポラス。といっても、それだけでは納得して貰えないですよねぇ。いいでしょう。この名前を知っているなら、リタ・ゾール侯爵令嬢がお知りになりたいということは全部教えて差し上げます」
そういうが早いか、ぐいと抱き寄せられて、耳元でその名前が囁かれた。
「?!! さ、作者なの、貴女!!!!」
「あっはっは。やっぱり転生者だったんだ。しかも小説を読んで下さっていたのですね。光栄です。道理で、リタ・ゾールが私の考えた哀れな存在から遠く離れている筈だね」
「わ、私以上に哀れな存在なんて、いないわよ! 努力しても、全部、悪意をもって受け止められてぇ」
小説の中のリタ・ゾールより、味方である筈の取り巻きや、血を分けた実の兄ですら、完全に敵でしかない今のリタ・ゾールが哀れはでないなんて、ありえない。
「わたしには、誰も、なにも手に入らなかった。あんなに、あんなに努力、したのにぃ」
堪えきれなかった涙と共に、思いの丈を叫ぶ。
自分の、何が駄目だったのか。
悪い事には興味がないと取り巻きを無視した事か。
押し付けられる勉強を、熟し続けた事か。
努力すればするほど、敵ばかりが増えていく怖さと辛さ。
努力すればするほど課される役割が増えていく恐怖。
どこかで諦めて悪役に徹すればいいのかと頭を過ぎったこともある。
けれど、それこそ怖くてできなかった。なにしろその行き着く先は、ヒロインを毒の刃で害そうとして、無様にも自分を刺してしまい最後の最後まで痛みに喘いで苦しみ抜いて死ぬ最後なのだ。そんな最後だけは嫌だった。
けれど、今のこの状態がマシだと思った事もない。
「リタ様を取り巻く周囲は、小説に引っ張られていたから。けれど、その外。それこそこの国と外交をもっている国で、リタ・ゾール様の叡智に疑問を差し込む者などいないし、その努力も献身も、皆理解しているよ。勿論、わたしも。あなたを尊敬する」
ピアの言葉が、ゆっくりとリタの胸の中へと落ちていき、リタの頬を濡らす涙が、苦しみの冷たい涙から、温かな涙へと変わる。
ポロポロ、ポロポロ。
「ほ、んと?」
「本当です。嘘なんかつかないよ。最初は、リタ様が転生者だって知らなかったからさ。私が、悪意を一身に集める存在として創り上げてしまったリタ様へ、なにか償えないかと思ってさ。コンタクトを取ろうとしたんだ。でも、ちょっと調べただけでも分かるほど、中身がまったく違うんだもん」
焦ったよ、とニカッと笑う。
その笑顔は、憎しみを込めて見つめていたピア・ポラス子爵令嬢の可憐な微笑みとは全く違っていた。どこかカラッとした笑い。
「それで、調べれば調べるほど、この世界のリタ・ゾールは私が書いた悪役令嬢とは違う存在で。どんどん惹き込まれた。知ってる? 王都の下町で、あなたは聖女だと言われているんだ。外交を次々成功させてこの国を豊かにしたと。皆知ってるんだ」
ずっとずっと誰かに認めて欲しかった。
頑張りを、褒めて欲しいと希っていた。
憎しみや蔑みの視線以外が欲しいと。
それを、まさかあれほど憎んでいた令嬢から捧げられるなんて。
「だから。リタ様の力になりたかったんだけど、モブの子爵令嬢のままでは、まったく近付けなくって。直接話し掛けることは当然だけど無理だったし、手紙を書いても返事は来ないし」
「ピア・ポラス嬢から、手紙が届いたことなんて、なかったわ」
「だろうねぇ」
どこか諦めの入ったような、当然だよねという笑いを浮かべているピアが不思議で首を傾げた。
「だってさ、この国の外交を実質的に担っていたのはリタ様じゃん。忙しいリタ様へ、交流が一切なかったたかが子爵令嬢がさぁ、そんな凄い相手に手紙を書いてもさ、それを届けて貰える訳が無かったんだよねぇ。でも学園に入学したら会えるかと思ったんだけど、そもそも登校してこないんだもん」
「ごめんなさい」
説明が続くにつれ、肩がどんどん落ちていって小さくなる。
そんなに努力してくれていたなんて、知らなかった。
「でね、接点がないなら強引に作るしかないかなーって思って。ヒロインの振りして婚約者に近付く事にして。ようやく会わせて貰えるっていうからウッキウキで食堂についていったのに。何アレ。私が書いたヒーローはあんなに阿呆でも捻じれた性格でもなかった筈なんだけど!」
ギリギリと拳から音がしそうなほど手を握りしめて怒る姿が、過去の可憐に微笑む姿とまったく重ならなくて目を瞬く。
「だから、ねぇ。リタ・ゾール様。こんな国、捨てちゃいましょうよ。そうして、ちゃんと認めてくれる国で、笑って暮らしましょう」
「その国には、あなたもいる?」
頭で考えるより先に、言葉が口から洩れた。
その、恥ずかしい言葉にまるで太陽のように明るく笑ったその人が、私の意志を確かめるべく差し出していた筈の手で私の手を取り、自分の唇へと引き寄せた。
柔らかな感触に、頬が染まる。
「まったく。どの国でも、素敵な王子様があなたを待ってくれているというのに。そんな事を言って、後悔しても知りませんよ? まずは貴女の、本当のお名前を一番最初に教えて戴ける栄誉を、私に与えて下さいませんか」
見上げる瞳は、まるで獲物を狙う猛禽のように光っていて、身体の内が震えた。
そういえば、あの小説の作者は──
リタ嬢の幸せを祈って下さった優しい読者様へ、感謝を込めて。
お付き合いありがとうございました。