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第三話

 自分は、息子で、兄で、夫だった。

 いつからそうなってしまったのか、もう正確には思い出せないけれど、中学生に上がろうか、というときには、既に母から呼ばれる名前は自分の名前では無くなっていた。

 もうやめよう、大人に相談しようと涙ながらに訴える妹の言葉にうなずけなかったのは、自分の犯してきた過ちが他の人間に知られたくなかったことと、母の平穏を奪いたくなかったこと。…そして、愛されなくなることが、恐ろしかったためだ。たとえそれが息子としてではなくても。

 そんな中でかろうじて自分を見失わずにいられたのは、片割れである妹のおかげだった。

 彼女だけが母の息子として、一人の兄として存在した自分を思い出させてくれた。

 ある日、見知らぬ大人たちが自分たちを迎えに来て、自分と妹はついに学校すら行けなくなった。

 見知らぬ大人たちは、最近母が通い詰めていた宗教団体の組員だった。

 母は自分のことを完全に夫と認識しており、まるで恋人のように自分に触れた。

 その頃になると俺はまるでスイッチが切り替わるように彼女に応えられるようになっていた。

 ただ、妹の元に帰されるたびに現実を思い出し、どう見ても酷い扱いをされた彼女がこちらをねぎらうように「おかえり」と言う姿にどうしようもない罪悪感とやるせなさを感じた。

 昼は離され、夜には二人で身を寄せ合う生活を数日のあいだ過ごした。

 そんなある日、いつものように帰ると、ゆきは嬉しそうに「いく、聞いて!」と駆け寄ってきた。

「あのね、もしかしたらここから出られるかもしれないの」

「どういうこと?」

「私に会いに来てくれる子がいてね、その子と一緒に出る方法を考えてるの」

「ここから、出る」

 そんなこと、考えたこともなかった。

 話を聞くに、その子はこのあたりに住む子どものようだった。

 自分たちの詳しい事情は話せなかったものの、少女は自分たちの現状を察して、ここから出ようと言ってくれたらしい。

 正直に言うと、その「ちひろ」という名前の少女が、自分たちの話を変に大人に広めてしまうのではないかとか、ただの遊び感覚で言ったのではないかとか、とにかく信用できないという感想しか抱けなかった。

 けれど、珍しく明るい表情をしている礼を悲しませるようなことは言えなかった。

「だから、それまで、頑張ろう」と言う礼に、俺は曖昧あいまいに頷いた。

 その後も、少女は礼の元に足しげく通い、着々と構想を練っているようだった。

 しかし、日を追うごとに自分と礼は疲弊していく。お互いに、あまり時間が無いことは感じていた。

 ごと、礼に自分の名前を呼ばれないと、僕は自分が分からなくなっていた。

 すず、…いや、母は、もう僕のことはおぼえていない。

 自分が世界から居なくなる感覚は、恐ろしかった。

 けれど、礼が俺のことを覚えてくれている。

 三人家族だった時の鈴と、娘と、俺と…娘?

 違う、礼は妹だ、そして俺は弟だ。いや、鈴の夫だった。

 彼女が泣いているから、彼女って誰だ。泣きたいのは僕だ。

 弱い子供が、娘が、妹が泣いている。父親である自分は妹を守らないといけない。

 僕だって助けてほしい。でも鈴は俺を頼ってくれるから、僕じゃだめだ。

 頭が割れるように痛い。

 自分は、は、は、あ、

「生!」

 肩を揺すられて目を瞬かせる。

「生、こっち見て」

 ぼんやりと目の前の青い瞳を見る。

 自分とよく似た顔の、その瞳に、うつろな表情をした少年…自分が映っていた。

「大丈夫、大丈夫だよ…。ここにいる、私も、生も、ちゃんとここにいるよ」

 ゆっくりと抱きしめられると、礼の匂いがした。

 ほっとして目を閉じる。

 ありがとうと擦れた声で言うと、「いいよ」と背を撫でられた。

「あのね、ちひろちゃんが、明日の夜に、迎えに来てくれるんだって」

 体を離し、俺を安心させるように肩を撫でながら礼は微笑んだ。

「あした」

「そう、明日。もう少しだよ。もう少しだから、頑張ろうね」

 明日、本当に出られるかどうかなんて、どっちでも良かった。

 どうせ出たとしても、もう俺はいないのだ。

 けれど礼は違う。彼女には迎えに来る友人がいて、ここから出て解放されれば、きっと幸せになれる。

 そうでないとおかしい。

 いないはずの夫を探す鈴も、傷つけられる礼も、明日には無くなるのだ。

 ここに来て初めて、俺は明日が早く来てほしいと願った。

 その明日が、どんなに残酷になるかも知らずに。


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