第一話
その日、生の帰りが遅く、ちひろは玄関で生の帰りを待っていた。
薄い毛布を肩にかけ、白湯を飲み、スマートフォンの通知を眺める。
そのままうとうとと船を漕いでいると、ガチャリと鍵が開き、扉が開かれた。
は、と顔を上げて、いつものように口を開こうとするが、いつもより勢いよく家に入り、ちひろと目を合わせず、土足のままで横を通り過ぎる生に、おかえりなさいよりも先に、ちひろは困惑の声を上げた。
「え?…い、いく」
慌てて立ち上がり、追いかける。
早足で風呂場に入っていく生の手を取ろうとするが、間に合わない。
ちひろの指の先で扉は閉じ、そのまま鍵もかけられる。
次いで、勢いよく咳き込む生の声にちひろは息を詰まらせた。
「い、いく!いく?大丈夫?どうしたの?」
何か大きいものがぶつかるような音がして、扉が揺れる。
「いく、どっか怪我したの、痛いの?」
「ぅ、あ、ゲホッ」
かすかに鼻をつく酸味のある匂いと、勢いよく息を吸う鋭い音。
ザアッとシャワーの栓が開けられ、扉からゆるく湯気が漏れる。
「ちひろ、」
「いる、ここにいるよ」
水か、着替えか、それとも薬か。何を頼まれるのか、とちひろは身構える。
「し、寝室に」
「うん」
「かぎ、閉めて、…出ないで、絶対」
「そ、そんなの」
できるわけない、と言いかけて、ちひろは口をつぐむ。
シャワーの水音と、荒い息に合わせて揺れる影。
もしちひろの予想が正しいなら、きっと今の生は、ちひろを傷つけないために閉じこもっている。
もし自分が強引に中に入ったとして、ちひろは安心できても、生が苦しむなら意味が無い。
こんな状態でもきちんと帰ってきてくれた生の優しさを無下にはできなかった。
ちひろは不安で引きつりそうな息を必死に整える。
「いく、し、死なない?」
「…ん」
「明日には、普通?」
必死そうな生の声が、少し笑うように震えた。
「…ん、そう、だから、安心して、おやすみ」
「わ、かった。だめなら、えっと、扉ばんばんするとかして、教えてね」
「ン」
ちひろは小走りで自室に戻り、言われた通り鍵をかけようとして、少し考えてからそのままベッドにもぐりこんだ。
何もできない自分の、ほんの少しの抵抗だった。
***
遠ざかる足音に、生は深く息を吐く。
ぐらぐらと揺れる視界に眉を寄せながら、服を脱いで浴槽にかけていく。
冷水にしたシャワーの感触すら辛い。
震える手ではうまくボタンも外れず、なんとか脱いだ靴と靴下、そしてスマートフォンを浴槽に投げ込み、声を上げようとする口は手で蓋をする。
ぎりぎりと嚙みちぎる勢いで手を噛み、痛みで覚める脳でなんとか理性の手綱を引く。
もう認めてしまってもいいじゃないか。
自分はちひろに対して愛情以上の、汚い欲を抱いている。
あのまま彼女を中に引き込んで押さえつけて暴けばよかったじゃないか。
きっと許してくれるし、自分もこの行き場のない疼きをどうにかできる。
「そんなわけ、ないだろ」
浴室の鍵に伸ばしかけた手を握りこみ、浴槽に叩きつける。
そんなものは猿と一緒だ。
確かにちひろは許すだろう。
いつものように柔らかく微笑んで、受け入れてくれるだろう。
それでも、生は知っている。
人は、相手が大切な人間であればあるほど、いくらでも虚言を重ねて体を委ねることができるのだ。
ちひろにそんなことはさせられない。させないために自分はこの家に彼女を閉じ込めたのだ。
だから、こんなくだらない一時の衝動で、ちひろを傷つけるくらいなら死んだほうがましだった。
今の自分の全てを排水溝に流すように、生はシャワーの水勢を強める。
熱と胃液と汗でぐちゃぐちゃになりながら、意識を強制的に沈ませる。
夢を見た。
白昼夢でも見るほど馴染みのある夢だ。
窓の外の雨は強く、遠雷の音が聞こえていた。
不快な人肌の臭いと、素肌にあたる布の居心地の悪い感触。
現状を冷静に捉えている自分と、彼女が起きるのを恐ろしがる自分が同時に存在して、まるで脳が二つになったようだった。
ああ、もうすぐ朝だ。彼女が起きる。
しかしその夢は、こんこんと扉を叩く軽い音で終わりを迎えた。
生はぼんやり目を覚ます。
ゆっくりと身体を起こすと、少しだけ体の奥が痺れる感覚は残っているが、大分マシだった。
浴槽の床に転がっているスマートフォンを拾い、時間を確認して、息を吐く。
「いく…おはよ…大丈夫?」
扉の先から控えめなちひろの声が聞こえる。
「おはよ、大丈夫だよ」
明らかに大丈夫ではない自分のひび割れた声に自嘲する。
「生、お帰り、おつかれさま」
「ただいま、ありがと」
「寝る?」
「んーん…」
「ごはん?」
「いや。ちょっと、また出てくる」
「えっ!」
そういえば、いつも帰宅時にしている会話さえしていなかったなと思いながら、生はちひろの問いかけに答える。
帰ってはきたものの、後処理が済んでいないため、もう一仕事してこないとキリが悪い。
ちひろが起こしてくれて助かった。
「夜までには帰ってこれるから」
「だ、だ、だめだよ!」
「大丈夫、心配かけてごめん」
頭が冴えてくると、今更のように体が寒さを訴えはじめ、手袋を外して吐息で温める。
うわ、と手袋の下の惨状に顔をしかめながら、シャワーの水を減らしてお湯を増やし、張り付いた服を脱ぐ。
「いく」
「なぁに」
「か、かえって、くる?ちゃんと」
「うん、帰るよ」
「おやすみも、取る?」
「うん、まあ、休めるときはね」
「す、すぐだよ!今日お仕事行って、また…また、明日も、すぐに、行っちゃう、の…?」
「うーん、明日の朝までは、ゆっくりできるかな」
「ちゃんと寝る?」
「寝るよ」
「ご飯食べる?」
「食べる食べる」
これは包帯も取り替えないと外に出られないな、とげんなりしながら、ふと生は思い出す。
そういえば昨日はすぐちひろを寝室に行かせてしまったし、ちひろのことだから、自分と合わせるために朝食もまだなのではないだろうか。
「ちひろは、ご飯食べた?俺はいいから、きちんと、ね」
「…っ、ばか!」
「ん…?」
バタバタと足音が遠ざかっていく。
ちひろの怒りに理解が追い付かず、生は動きを止めて呆ける。
一拍遅れて我に返り、水気のふき取りもそこそこに、最低限の服を着てちひろを追う。
鍵をかけられたちひろの部屋の前に立てば、中からすすり泣く声が聞こえてくる。
控えめにノックをすれば、「いないです!」と返答があった。
生は困惑する。
ちひろを怒らせたポイントが何だったのか分からないのだ。
このままちひろを放置するのも心残りだが、時間もない。
生は数秒考えてから、ちひろの寝室の前から離れ、仕事の準備を始めた。
***
生はどうしてあんな風に自分のことに対して無頓着なんだろう。
あんな風に言われるなら、やっぱり無理にでも押し入ればよかっただろうか。
ちひろはベッドで毛布にくるまりながらグズグズと鼻を鳴らす。
結局昨夜は微かに聞こえる水音と苦しむ生の声に耳をすませ、ほとんど眠れなかった。
ちひろを傷つけないための選択だったのは分かるし、辛いのは生であってちひろではない。
だからこそ、俺はいいからなんて、自分を蔑ろにするようなことは言ってほしくなかったのだ。
だからといって、疲れている生に感情をぶつけていい理由にはならないけれど。
勝手に怒ってへそを曲げる自分の子どもっぽさに腹が立つが、すぐに謝りにいけるほど落ち着くにはもう少し時間がかかりそうだった。
「行ってきます」
寝室の外からかけられた生の声に、ちひろは肩を揺らす。
返事をしようと口を開くが、今は生を引きとめる言葉しか出てこない気がして、何も言えない。
生の足音が遠ざかるのを確認してから、ちひろは部屋の扉を少し開け、様子を見た。
生が振り返らずに扉の向こうへ行く姿に、じわりと涙が滲む。
「いく」
ちひろの小さな言葉は、涙と一緒にポロリと床に落ちた。




