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第二話


 ちひろは約束をした日から、脳内シュミレーションを重ねた。

 もしかしたら自分と同じような、夜のお仕事の時は、はだけたスーツの隙間にキスマークを付けて帰ってくるのかもしれない。それとも、実は漁船に乗っていて、潮風をまといながら磯をひっつけて帰ってくる日があるのかもしれない。あるいは、遺品整理の現場から幽霊を連れて帰ってくるかもしれない。そうだ、それからお清めに滝行をして、天狗みたいな恰好で帰ってくるのかもしれない。

 なにせ、生はなんでも屋さんなのだ。

 どんな状態で帰ってきても、まずは動じずに笑顔でおかえりなさいと言えないと。

 ちひろと指切りをした日からしばらくの間、生は日が落ち切らないうちに帰ってきてくれた。

 ただいまと言う生におかえりと微笑み、一緒に食事を取る。

 朝は相変わらず早くから仕事に行ってしまうこともあったが、ちひろはできる限り「いってらっしゃい」と送り出すようにした。

 そんなある日、いつもの時間に生は帰って来なかった。

 短針が真上を向き、少しずつ冷えてくる玄関で、ちひろは薄い毛布を体に巻き付け、念仏のように「おかえりなさい」と唱える。

 そうして、ちひろが船を漕ぎ始めたころ、玄関先からなじみのあるバイクの音が聞こえて、バッと立ち上がる。

 おかえりなさい、おかえりなさい、よし、と最後に数回練習をして、万全の状態だったちひろの口は、扉から入ってきた生の姿を見て、「お」の形をして止まった。

 生は、怪我をしていた。

 汗で張り付いた髪の隙間からは、拭ったように滲んだ血の跡。そして破けたジーンズから見える大きな擦り傷。嗅いだことのない煙や鉄の香りと、服と同じようにくたびれた表情。

 ぽかんと口を開けたまま固まるちひろに、生は「ただいま」と微笑み、横を通り抜けて脱衣所に入っていった。

 ちひろが我に返ったのは、ぱたんと脱衣所の扉が閉まる頃だった。

 ちひろは、そのままぽろりと涙を流す。

 驚きばかり先行して追い付かなかった感情の波が、怒涛のように自分の体に打ち付けれられる。

 どうして彼は怪我をしているのかという疑問。彼が帰って来なかった日は、あの状態を自分に見せたくなかったからなのかという納得。自分の知らない間の、彼の生活や仕事への不安。約束通り帰ってきてくれた彼に「おかえり」が言えなかった不甲斐なさ。

 悔しくて、悲しくて、怖くて、自分の服の端を握る。

 けれど、ここで泣いてるだけでは、いままでのように生に慰められるだけだ。

 ちひろはごしごしと顔を拭う。

 いつもは短時間の生のシャワーも、さすがに今日は時間がかかりそうだった。

 ちひろはキッチンに戻り、仕上げ段階で手を止めていたおかずに火を通す。

 二人分のスープが湯気を立て始めるころに、廊下から足音が聞こえ、部屋着の生がゆっくりリビングに来た。

「いい匂い」

「中華スープだよ。卵ときのこと、チンゲン菜」

「おいしそう」

「ご飯食べれそう?」

「うん、ありがと」

 ゆるく微笑む生は、いつもの彼だった。

 頭の傷は髪に隠れて見えず、足の傷も部屋着の布の下だろう。

 この、いつもと変わらない姿に、ちひろは何も気が付かないまま、今まで過ごしてきたのだ。

「生、あのね」

「うん?」

「びっくりした、怪我とか」

「ああ…ごめん」

「ううん、帰ってきてくれて、嬉しい。ありがとう」

「うん、待っててくれてありがとう。玄関、寒くなかった?」

「大丈夫。帰ってきたらすぐわかるから、あそこがいいの」

「…風邪、ひかないようにね」

「うん。生は、あんまり怪我しないようにね」

「ふふ、うん。大変だ」

 思えば生が半袖になるところを見たことが無いし、手袋でさえ今も外さない。

「生、怪我、見せて」

「…泣かない?」

「な、泣かないよ、我慢する」

「ちひろが我慢するの、嫌だな」

「私は生の内緒ごとが増えるのが、嫌だよ」

「俺のは、企業秘密だから。手だけでいい?」

「だめ、全部。あ、全部はすっぽんぽんだからダメだ…えっと、脱げるところ、まで?」

「靴下とか」

「…そんなに?」

「うん」

 どうやら、彼はかなり危険を伴う仕事をこなしているらしい。

 もしかしたらマフィアと殴り合ったり、高層ビルの側面を走ったりしているのかもしれない。

 いや、それは流石になんでも屋さんじゃなくて、えーじぇんとなんちゃら、みたいな職業だから、さすがにないか。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせる生の言葉に、ちひろは膨らみ始めた想像から引き戻される。

「あ、い、生」

「なぁに」

「全部じゃなくていいの。だから、手とか、足、手当したい」

「ちひろが?」

「私が」

 ちゃんと練習するし、泣かないから、と言い添える。

「…いいよ」

 生は少し考えた後に、頷いた。

「いいの?」

「それでちひろが、安心できるなら」

 生は眉を下げて、笑った。





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