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第三話

 自室で手早く着替え、いつものように身につけていた服や靴をまとめてゴミ袋に入れながら、生は冷蔵庫の中身と今後の予定を脳内で確認していた。

 生はちひろの前で、手袋の一つ、靴下の一つも、脱ぐ気はなかった。

 一つ屋根の下に他人同士である一組の男女という状況ではあるが、いくにとってちひろは妹の友人であり、自分の恩人である。そして、性を匂わせる何かを彼女に見せることは、一切する気は無かった。

 あくまで自分は彼女を保護するためにここにいる、というのが生の認識だった。

 あらかじめ用意していた、新品の女性用下着と自分の予備の部屋着を脱衣所に置き、リビングに戻ってソファに座る。スマホを触りながら待機していれば、ほどなくしてドライヤーの音が聞こえた。

 移動も長かったため、スマホの画面に映し出されている時間はかなり遅い。ただ、明らかに肌がむくみ顔色も悪かった彼女の様子を思い出すと、何か栄養を取らせてから休ませたかった。そんなことを考えていると、静かに廊下を歩く足音を感じ、顔を向けた。

「おかえり。服、大丈夫だった?」

「大丈夫だった」

 幾分血の気が回った顔色のちひろに安心する。

 ちひろはゆっくりとソファに近寄ると、生の前に立った。なにか言いたげなちひろの様子に、生は上げかけた腰をそのまま下ろす。

「いく」

「なぁに」

「ほんとに、いく?」

 いくはちひろの唐突な確認に特に動じず「うん」と頷いて見せる。

 生はちひろのことをずっと見ていたので、存在を疑うべくもなかったが、ちひろにとっての生は、遠い昔に一晩を共に過ごしただけの相手であり、生死も所在も不明だった人間だったのだろう。

 そんな人間が急に自分の前に現れ、自分の手を引いたのだから、冷静になってから疑いを持つのは当然だ。正直、もっと警戒心を持ってもいいのではないかとも思う。ただ、彼女が自分でここにいることを選んでもらうためにも、生が彼女の知る人間であると証明することに心血を注がないわけにはいかなかった。

 生はちひろと目を合わせたまま、黒い色の左目に指をやり、眼球に触れてみせる。

 あの日無くしたものの一つで、自分の本物の左目の所在は、生とちひろと、礼しか知らない。

 ちひろは「あ」と声を漏らし、頬に手を伸ばして、瞳の周りを労わるように、確かめるように撫でた。

 あまりにも自然に触れられ、生は少し驚きつつも、ちひろのしたいままにさせる。

「ほんもの、だ」

 ひとり言のようにぽろ、とこぼされる言葉に、生は静かに「うん」と返答する。

「あいたかった」

「うん」

「ずっと…」

 あいたかった、と擦れた声でちひろは繰り返し、宝物のように生の頬を両手で包んで額を寄せた。

 ちひろにとって、生は全部なくなってしまったと思っていた自分の思い出やつながりの一部だった。

 さっきまでは驚きや戸惑いばかりで、夢なら醒めないように、腕から零れ落ちないようにと祈るのが精いっぱいだったが、こうして手を伸ばせば簡単に届き、言葉を返してくれる。

 喜びに胸を詰まらせながらちひろは「ありがとう」と呟く。

 生はどうやって逃げられないようにしようと策を練っていた自分が馬鹿らしくなってきた。

 ちひろが疑っているのは、生ではなくちひろ自身であるようだった。生の言葉や行動に向けられたものは、どこまで行っても、こちらが心配になるほどの信頼だけだ。

「遅くなって、ごめん」

 ちひろは生の言葉に少し笑って顔を離し、痛ましげな表情をする生にふにゃりと微笑んで見せた。

「全然、待ってない。今来たところ、ね?」

 生はその言葉に眉を下げて笑う。

 出しそうになる手を抑えるように膝の間で指を組み、強く握りながら「ありがとう」と呟いた。

 少し強く目を閉じ、ふ、と息を吐いてから、生は「ちひろ、お腹空いてる?」と聞いた。

 ちひろは生の顔から手を離し、自分のお腹に手をやる。

「おなか…」

「何か作ろうか」

 意識すれば確かに胃の中が空っぽなことにちひろは気が付いた。

「いいの?」

 おそるおそる聞けば、「いいよ」と返される。

「食べられそう?」

「ん、食べれそう」

「分かった、ちょっと待ってて」

 生はソファから立ち上がり、自分の座っていた場所にちひろを座らせる。

 ちひろはレトルトのものや調理の要が無いものが出てくるのだろうと思っていたので、キッチンで生が豆腐と思わしきものを切り始めたのを見てびっくりした。

 ちらりと見えた冷蔵庫の中身はそこまでたくさんの備蓄があるわけではなさそうだったが、レンジで温められているタッパのおかずは、明らかに家庭料理のそれだった。

 漂ってくる香りや、調理の音が心地よく、ちひろはてきぱきと食事の用意をする生を嬉しそうに眺める。

 他人が自分のために手料理をふるまってくれる状況は、かなり久しぶりだった。ふと母のことを思い出し、心臓のあたりがぐぐ、と音を立てて痛んで、ちひろはその感覚を紛らわせたくて深呼吸をする。

 ほどなくして「できたよ」と言う生の言葉に、ちひろは待ちきれないというようにソファから立ち上がって食卓へ移った。そして、並べられたご飯を前にして、ちひろは「すごい」と言葉を漏らす。

 豆腐とわかめの味噌汁は鮮やかなネギが散らされて、出汁のなかで味噌がもやもやと膨らんでいる。ご飯は冷凍だったものをわざわざ卵で粥にしてくれたようで、水をたっぷりと含み膨らんだお米が器の中で山を作っている。隣に小皿に添えられた漬物も鮮やかだ。先ほどレンジで温めていたおかずは、ジャガイモと牛肉の煮物だったようだ。しょうゆやお砂糖、みりんの柔らかく甘い香りと、よく味の染み、こってりとしている色合いが食欲を誘う。

 いそいそと席に着き、生も座ったところで、ちひろは手を合わせた。

「いただきます」

「召し上がれ」

 ちひろは湯気の立つ味噌汁の器を手に取って、中をほんの少し口に含み、ほぅ、と息を漏らす。

 器を置いて箸を取り、「おいしい」と顔を緩ませながら口に運ぶ姿に生は目を細め、手を合わせて箸を取った。

 記憶の中のちひろより、今のちひろは周りに薄い膜が張ったように、生には思えた。

 周りに対する反応が鈍く、遠い。こちらを拒絶しているわけではないが、近付くことで自分も感覚が鈍くなるような気持ちにさせられた。

 先に食べ終わり、のんびりと甘いコーヒーを飲みながら生はちひろを観察する。

 ちひろが自分の出した食事にすんなりと手を付けたことに、生は安心していた。この様子なら、ちひろはこのままとどまる可能性が高いだろうと思ったからだ。

 少なくとも、自分はちひろにとって「許可を取らなくとも食欲や我儘を自然と見せられる相手」である確信が持てた。それならあとはちひろが不満を持たずに生活できるように希望をかなえてやるだけでいい。

 食事のあと、「いくもお風呂入って寝る準備できたら、私も寝る」と言い張るちひろに苦笑して、生はちひろが歯を磨き終わるくらいの短い時間で風呂から出てきた。

「からすの洪水だ…」

「こうずい…」

 義眼を外し、左目に眼帯をつけ、髪の水気もそこそこに上がってきた生に、ちひろは不満げな顔をする。

「ちゃんとあったまらないと疲れるよ」

「いつもこのくらいだよ。上せやすいから」

 確かに短時間で出てきた割には、生の肌は赤みを帯びているようにも思えた。

 それにしたって短いだろうと思いながら、ふとちひろは生の顔に手を伸ばして、眼帯の近くに指を滑らせる。

「目、いたいから?」

「…ううん、痛くないよ。ありがとう」

 ちひろの曖昧な記憶には、いまだに血みどろの生の顔は薄まらずに残っている。彼はあれから、どうしていたのだろう。きちんと治療を受けたのだろうか。そういえば、風呂に入ったにもかかわらず、手袋は付けたままだ。もしかするとあの時の火傷が残っているのだろうか。聞きたいことは沢山あった。

 それでも、これが夢ではないのなら、きっと話せるタイミングはこの先たくさんある。ちひろは自分にそう言い聞かせて、生の顔から手を下ろした。


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