ルーキーの試練 7
●「前回のあらすじ」
ジャンとの賭けに勝つ条件、それは――レ・ジュールの後ろでフィニッシュすること。
シェッフェルのマシンの戦闘力ならば、ミスを冒さなければ達成できる。そう考えた夢兎は、慎重かつ確実にレースを進めていく。
だがしかし。その思惑は久湊によっていとも簡単に破壊され、夢兎は苦戦を強いられていた。
「グゥゥッッ!! まだだっ!! まだ、まだ、僕はっ!! ――――ンッ?? ンゴッッ!!!!」
11Lap目。
ターン14のブレーキングポイントに入った久湊のマシンから、突如として白煙が上がった。
(――――フロントをロックアップした!? チャンス!!)
その光景を目にした瞬間、夢兎は反射的にマシンをコーナーの最内へ突っ込ませ、久湊のマシンに並んでいく。
ブレーキングポイントを外した久湊が、急旋回を打って順位を守りに来る。
しかし、動きが強引過ぎたのか。こちらの前に割って入る前に、くるりとマシンが回りハーフスピン。
どうやらそれでエンジンが停止したらしく、久湊との長いバトルはここでようやく終わりとなった。
これで順位を一つ上げて、7位。
しかし、当然喜べることなんて一つもない。
「7Lapもロスしてしまった……情けない……」
自分の不甲斐なさに、怒りが湧く。
久湊の防御は、確かにイベントレースとは思えないほど執念深いものだった。
けれど、マシンの戦闘力はこちらの方が明らかに上だったのだ。それを考えると、この結果は我ながら酷すぎる。
タイムだけでなく、タイヤもかなり消耗した。
これからレ・ジュールの後ろの順位まで挽回することは、もはや不可能に近い。
「こんなはずじゃ、なかったのに……」
思わず口から弱気な言葉がこぼれる。
なんでああしなかった? もっとこうしていれば……。そんな取り留めもない思考が頭に充満し、みるみる集中力が薄らいでいく。
「……ッ!! いや、まだレースは終わってない。上位が崩れる可能性もある。とにかく追うんだ!」
今、泣きごと言ったってどうにもならない。
弱気になった自分の頬を張るようにそう言うと、強引に気持ちを切り替えてペースを上げていく。
しかし、タイムロスを取り戻そうという気持ちが強すぎ、夢兎はミスを連発。
それによって夢兎の胸にある焦燥感は更に膨らみ、ドライビングは更に乱れ、完全に悪循環のスパイラルへと落ちていく。
そして。
「諦めたくない! 負けたくない!」という気持ちとは裏腹に、Lapを重ねる毎にチャンスは遠のいていき……。
Lap15/25。2位との差――18秒。
この時点で、夢兎がジャンとの賭けに勝つ可能性はほぼ絶望的となってしまった。
* * *
「ハンッ! 結局、このザマか。口ほどにもねぇな」
シェッフェルのコマンドポスト――ピットウォールに設置された簡易ピット。レース中にチームの首脳陣が陣取る場所――で、ジャンが意地の悪そうな笑みを浮かべてそう言うと、シャフイザは小さくため息をついた。
「あん? なんだぁ? おめぇの要望どおりのレッスンだぜ。これはよう」
ジャンが、腰掛けている高椅子をこちらに向けて尋ねてくる。
夢兎との賭けの結果がほぼ決まり、ご満悦な様子だ。
そんなジャンに対して、やや不満そうに口元を曲げるとシャフイザは言った。
「ジャンさんに対してじゃなくて、自分にムカムカ来てんですよ。今、夢兎が苦しんでるのは、指導官やってきた俺の責任ですから……」
「ハッ、んなこと考えてたのか? 真面目なこった。ハゲるぞ」
「ドライバーと真面目に向き合い過ぎて、30代前半でほぼハゲ散らかしてたジャンさんには言われたくないッスよ」と思ったが、口には出さなかった。
軽口をたたくような気分じゃないから。
それくらい、今日の夢兎のレースに対する自責の念は強い。
今夢兎が苦戦している問題を、指導官の自分は前々から理解していた。
にもかかわらず、その問題を解決することができなかったのだから。
「ッ……」
「普段はちゃらんぽらんのくせに、あの婆さんが係わることだとクソ真面目になるな、おまえは。言いたいことがあるなら言え」
苦虫を1ダースくらい噛み潰した表情で考えこんでいると、ジャンがぶっきらぼうな口調でそう言ってきた。
この人は、基本自分の主張ゴリ押しで人の話を聞かないおっさんだ。
だが、重要な場面ではしっかり相手の話を聞く、昔 気質のおっさんでもある。
おっさんの不器用な優しさに甘える……字面だけ見ると「オエーッ」って感じだが、ここはありがたく甘えさせてもらおう。
自分の中にあった重い空気を吐き出すように大きく息を吐くと、シャフイザは考えていたことをそのまま吐露した。
「夢兎は、レース活動に反対する父親……英二さんと、『毎シーズン、トップレベルの成績を収め続ける。それができなかった場合は、レースをやめる』という約束を交わしていました。だから、俺としおりさんは、常に夢兎を王者争いのできるトップチームに所属させてきました。その選択は〝結果を出す〟という意味では正しかったんですが……〝ドライバーを育てる〟という意味では、間違っていたのかもしれません」
「……」
「毎シーズン、最初からパフォーマンスの高いマシンを手にしていた夢兎は、どんなサーキットに行ってもそのパフォーマンスが失われないように、自分のドライビングスタイルをマシンに合わせ込み、〝安定性〟を最優先したスタイルで戦ってきました。しかしその一方で、マシンの〝限界値〟を追求するようなドライビングやセッティングにはほとんど手を出さなかった……。『マシンの安定性と限界値は、比例しない』。マシンの安定性を上げれば、おのずと限界値は遠くなる。それがレーシングマシンの鉄則です。そして、Veloのトップレベルのドライバーには、この限界値の高いマシンを求める能力が必須と言ってもいい。けれど、リスクを冒すことのできない環境でレースを続けてきた夢兎は、その能力を伸ばすことができませんでした。本当なら、指導官である俺がそういう機会を作ってやるべきだったんですが……」
堰を切ったようにそこまで一気に話すと、拳が力み上がりぶるっと震えた。
毎年結果を出す必要があったのだから、目先の結果を優先したのはある意味では致し方のないことだ。
だが、今は後悔しかない。
何故なら……。
「速いマシンに乗り続けた結果、〝マシンが安定してパフォーマンスを発揮する領域〟でしかまともに走れねえ。〝|安定ではなく不安定に近いバランス《ニュートラル》〟なマシンじゃ何もできないドライバー、か……。下ではブイブイ言わせて、Veloでは飛ばず鳴かずに終わるドライバーの典型的な例だな」
ジャンの言うとおり。
今の夢兎では、世界最高峰の舞台、『Velo Trophy World Championship』で戦っていくことはできないからだ。
「ええ。わかってはいたんですけど、目先の結果を出すのが精一杯で……そこまで頭が回りませんでした」
不甲斐ない自分に対する怒りを抑えきれず、言葉に詰まり、最後は絞り出すように言葉を継ぐ。
その語りを真剣な面持ちで聞いていたジャンは、ガシガシと後頭部を掻いて一間置くと、大きく鼻を鳴らして言った。
「『操縦性や安全性よりも、速さ』――それが、千分の一秒を争うVeloチームのエンジニアリング・イズムだ。そういう親から生まれたマシンは、当然ドライブするのが難しいマシンになっちまう。ドライバーの望む乗り味に調整していっても、クルマのDNAまで変えることは不可能だ。だからこそVeloのトップドライバーには、《|安定ではなく不安定に近いバランス《ニュートラル》》なマシンを乗りこなす、頭脳、技術、精神力が求められる」
そこまで淀みなくつらつらと言葉を並べると、ジャンは小さい目を細めてこちらをジロリと見やり。
「ウチみたいに、エースドライバーのヘンタイ的な要求に合わせて、超操縦難なヘンタイマシンを走らせてるようなチームでは、特にな」
最後にぼそりとそう言うと、高椅子の上でふんぞり返った。
「ンぐぅっ!? ……そ、それは、返す言葉がないッスね」
近年のシェッフェルのマシンは、他チームのスタッフから「走る棺桶」と揶揄されるほど操縦難なマシンだ。
その原因は、ジャンの言うとおり自分の極端なリクエストにある。それが、夢兎に悪影響を及ぼしていると言われたら何も言えない。
「フンッ、別に責めるつもりはねぇよ。ただ、おめぇ専用機になっちまってるウチのマシンに、実力不足のあの小娘をフィットさせるのは並大抵のことじゃねぇ。……ほら、また遅いマシンに引っかかり始めたぞ」
そう言われて、コマンドポストの上部に設置してあるモニターの一つを見上げると、前車の尻を猛然と追う夢兎のマシンが目に映った。
明確なオーバーテイクポイントがない第二区間を行っているが、ペースは完全に夢兎の方が上で、前車につかえるような格好になっている。
しかし。
「約1キロあるバックストレートでスリップを使っているのに、やはり近づけない……」
通常あれだけのペース差があれば、ストレートで前車のスリップストリーム――高速走行中のマシンの後ろにできる、空気抵抗の小さい領域――を使って車速を伸ばし、ブレーキングを開始する前に余裕を持ってオーバーテイクすることができるはずだ。
しかし。
夢兎には……いや、今日夢兎が選んだセッティングではそれができない。
「あの小娘は、自分が超操縦難なRS4/28でレースをするには、標準的なセッティングじゃダメだ、と踏んだんだろうな。だから、下でやってきたとおり、ダウンフォースを目一杯 増けて安定性を確保し、そこからなんとかしようと考えたんだろうが……あれじゃ話にならねえ。ダウンフォースの増けすぎで、クルマが空気抵抗の塊になっちまってるから、直線や高速ターンで全くスピードが乗ってねぇ。あれじゃ単独ではともかく、バトルはできねえ。ブレーキングの突っ込み勝負でなんとかしようにも、あの小娘のヘボブレーキングじゃ……」
ターン14のブレーキングポイント。
夢兎がアウト側からブレーキングを遅らせて前を狙っていくが――マシンを上手く止めきれず、行き過ぎる。
コーナーの外側を大回りし、チャンスを失った。
「あれが関の山だ」
「……」
厳しい現実を目の当たりにし、身体を仰け反らせて息をつく。
夢兎には、できる範囲で最高のサポートをしてきたつもりだった。
しかし。
(俺は目先の結果を求めすぎて、将来を見据えた指導ができていなかった。婆さんにドヤされそうなネタが、また一つ増えちまったよ……クソが)
「オイ」
後悔の渦に飲まれ、「今までの俺は何をやってたんだ」と自分に対して怒っていると。
「王者目指そうって人間が、他人事でそんな顔してんじゃねぇよ。バカ」
ジャンが「今のおまえこそ何やってんだ!」という調子で叱りつけてきた。
「現役のVeloドライバーが、片手間で他のドライバーの面倒をきっちり見てやろうなんて土台無理な話なんだよ。それにどっちみち、こっから先はドライバーが教えきれる領分じゃねぇ。それに気づいたからこそ、おめぇは俺を引っ張り出したんだろうが?」
「……そ、そうッスけど」
ジャン特有の、巻き舌の荒っぽい早口に気圧されてそう答えると、ジャンは間髪入れず。
「だったら夢兎のことは気にしねぇで、おめぇはVeloの天下獲りすることだけに集中しろ! わかったか?」
眉をつり上げてそう言い切った。
「夢兎のことは任せて、おまえはおまえのことに集中しろ」――口調は荒っぽいが、ジャンはそう言っているのだ。
「……」
「…………んだ? 何か言いてぇことでもあんのか?」
「いや。夢兎のこと、頼みます」
ジャンの叱咤に応えるように改まった口調で返すと、ジャンは腕を組み鼻から大きく息を吐き出した。
職人の貫禄。安心感。
その佇まいを見ているだけで、胸にあった不安が消えていく。
さすが、グランプリで年輪を重ねてきたオヤジは頼りになる。
ここ数年、ジャンは病気療養を続けていたので、現場復帰をお願いしに行くのはかなり気が引けたし迷いもした。
けれど、今はジャンに来てもらって正解だったと確信している。まだ何も結果は出ていないけれど、それだけの信頼感をこの人は持っているのだ。
「……だが、一つだけ先に言っておくぞ」
「え?」
しかし。
ジャンは、シャフイザの緩んだ心を見透かしたようにそう前置きすると。
「俺は五人のドライバーと世界王者を獲ったが、当然、面倒見たドライバー全員と成功を掴めたわけじゃねぇ。エンジニアができるのは、ドライバーが上に行くための〝きっかけ〟を与えてやることだけだ。だから、そこまではやってやる。しかし……シーズン半ばで、あの小娘が何もできないままならその時は諦めろ。おめえが婆さんの孫娘であるあの小娘に肩入れしてるのはわかってるが、今のウチに必要なのは即戦力だ。それだけはわかっておけよ」
楽観を牽制するように低い声でそう言うと、覚悟を問うような眼差しを向けてきた。
ジャンは、「シーズンの途中で、夢兎をマシンから降ろす可能性もある」と言っているのだ。
里子から夢兎を託された自分にとっては、重い言葉だ。
けれど、ジャンに頭を下げに行った時から覚悟は決まっている。
「夢兎がVeloでやっていくためには、この選択肢以外ないと俺は思ってます。もしこれでダメなら……その時は、チームの指示に従います」
ジャンの問う視線を、強い意志を込めた視線で押し返す。
すると、ジャンは数秒視線を交え。
「……フンッ。わかってりゃそれでいい」
鼻をならしてそう言うと、ジャンは視線をモニターに移しレースに意識を戻した。
ジャンはああ言ったが、夢兎のドライビングを追いかけるその横顔からは、「絶対に、このドライバーをなんとかしてやるんだ」という強い気を感じる。
歳は取ったが、この姿勢は自分とコンビを組んでいた時と何も変わっていない。
(もう、夢兎のことは大丈夫だな)
そう思えると、だいぶ気が楽になった。
……で、この流れなら大丈夫かな~~と思い、思い切ってもう一つお願いをしてみた。
「あー、ジャンさん一つだけいいッスか?」
「ん? まだ何かあんのか?」
「技術面の指導に関しては何も文句ないんですけど、コミュニケーションのとり方はもう少しその……どうにかならないッスかね? あいつ一応女の子だし、優しくっていうか。日本だともうトップレベルに人気のあるアスリートなんで、あんまりスパルタ指導し過ぎるとメディアやファンの目もあるし……いろいろマズイかな~ってのがありまして」
というのは完璧建前。本音は夢兎から八つ当たりされたくないから。
ってか、不機嫌だと変わりにガチャ引いてくれなくなるから、ある意味俺にとっちゃ死活問題だ。
だから、お願いしぁす! 話の流れでOKしてくれ! と内心祈りながら言ってみたんだけど。
「ア゛ア゛ッっ!?!? ふざけんなっ!! レースの話しすんのに、いちいちんな気なんか遣ってられるかっ!!」
「ひぃぃ」
「日本人はダイレクトなコミュニケーションをしてこねぇから、ただでさえ物事を進めるのが遅えし、意思疎通のズレも起きやすくてイライラすることが多いんだ! そう上で気を遣えだ? ふざけんなっ!!」
(ウッハ! 全然ダメだこりゃ~~)
「日本のメディアのことなんか、俺の知ったことかっ! 日本人と一緒に仕事する時ぁ、本音を話させるために喧嘩腰でいくくらいがちょうどいいんだ。あの小娘の機嫌取りもメディアの対応も、気になるならおめぇがやりやがれ!!」
「んな……さっき、おめぇは王者獲りに集中しろって言ってたじゃないッスか……?」
「ア゛ア゛ッッ!? 文句あんのか?」
「ないッス! 全然ないッス! それは自分がやるッス! ウッス!」
半分予想はしてたけど、取りつく島もねぇ……。
ってか、すでに夢兎に「何なんですかあの人は?」、「この人事って、もしかして私に対する嫌がらせですか?」、「代わりにガチャ引く気分じゃないです……」とかメチャクチャ言われまくってるのに……。
本当に今シーズンやっていけるのか? 俺、途中でメンタル崩壊すんじゃねぇの、これ?
「……おう、後は頼むぞ。レース終わったら戻ってくる」
先ほどとは違う意味でシャフイザが頭を抱えていると。ジャンはサブエンジニアに後を任せ、ピットへと歩き出した。
「最後まで見ていかないんですか?」
「画面見ろ。タイヤが終わった。もう何があろうと、レ・ジュールの後ろは取れねぇよ」
そう説明すると、ジャンはこちらに背中を向けたまま。
「さあ、あの小娘。どうしてやろうか……」
意地の悪そうなトーンでそうつぶやき、ピットの奥へと消えていった。
その言葉を聞いたシャフイザは、表情を引き締め直しモニターに映る夢兎のマシンを見やると、目を細めた。
夢兎にとって、試練の時がはじまろうとしている。
しかし、厳しい時間を迎えようとしているのは夢兎だけではなかった。




