ルーキーの試練 2
●「前回のあらすじ」
2027年シーズンの戦いに向けて、準備を進めるシェッフェル・エッフェル。
しかし、その裏では「資金不足」と「人材流出」の問題が大きくなり始めていた。
苦しい現状を改めて実感したシャフイザは、気を引き締め直し、王者獲得の決意を新たにした。
山間に建てられた、古びた小さなカート場。
その全景が見渡せる丘に、今、お婆さまは眠っている。
いよいよ来週から、2027シーズンのプレシーズンテストが始まる。
明日渡欧したら、仕事以外では当分日本には帰ってこられない。ここへ来ることも、当分できないだろう。
「お婆さま……出発の挨拶に来ました。新年の挨拶の時はドタバタしていて清掃できませんでしたから。今日はしっかりキレイにしていきますね」
掃除道具の入った桶を持ち上げて微笑むと、夢兎は墓石の周辺を箒で掃き始めた。
100年を越える長大な歴史を持つVelo Trophy史においても、僅か8人しか存在していない――シーズンフル参戦・女性ドライバー。
その9人目になることは、大きな注目を集めるだろうと周りから言われていたし、自分自身でもそうなるだろうと覚悟していた。
けれど、その注目度は予想を遥かに上回るもので……。国内外、世界中のマスコミから取材が殺到し、この冬は自分でも何をしていたのか思い出せないくらい忙しかった。
おかげで、高校生活最後の冬は登校することすらままならず。卒業旅行どころか、卒業式に行くことさえできなかった。
級友たちが、時間ができたら改めてパーティーしようと言ってくれたのが救いだけれど……。我ながら、寂しい学生生活の終わりになってしまったなと思う。
「でも、文句は言えませんよね。これが、自分の選んだ道なんだから」
この冬の出来事を一通りお婆さまに語りかけて苦笑すると、夢兎は箒を雑巾に持ち替え、墓石を丁寧に拭いていく。
――そうだよ。ちょっと結果出したからって、甘えたこと言ってんじゃないよ。
――そんな調子で大丈夫かい? 日本の恥さらしになるようなレースをしたら承知しないよ。
(きっと、お婆さまならそう言うわね……)
なんてことを考えながら、自分の話を続けていくと、なんだか本当にお婆さまと話しているような気分になっていく。
お婆さまを失ったのは、もう10年近く前のことだ。
一緒にいた頃の記憶は、だいぶ薄れてきた。
でも、自分ににとって、お婆さまは「唯一の肉親らしい肉親」といえる存在だ。
だから、何かあると頻繁にここへ来てしまう。きっとお婆さまは呆れ返っているだろうけど、これくらいは許して欲しいと思う。
私にはまだ、お婆さまが必要なのだから。
「これでよしっ、と」
そうして墓石をピカピカに清掃し終えると、墓石の前で佇み。
しばらくすると、墓石の正面に立って目をつむった。
気持ちを落ち着かせ、胸の奥にある覚悟を……夢舞台に挑む覚悟を示すように強気な笑みを浮かべる。
そして。
「いってきます」
一言告げると、清掃道具の入った桶を手に持ち踵を返した。
初春の青空の下、意気揚々と歩いて行く。
その先にあるのは――――欧州。
世界最高峰の自動車レース「Velo Trophy World Championship」にフル参戦する時が、いよいよやってきたのだ。
* * *
意気込みを新たにして渡欧した夢兎は、スポンサーのプロモーション活動や各メディアへの出演といった、不慣れな仕事も新米らしく精力的に取り組み、着々と新シーズンへの準備を進め。
そして、今年初となる合同テストへと乗り込んだ。
「ふぅ、なんとか問題なくできたけど。テストとはいえ、やはり久々の実走は心身共に来るわね。疲労でミスなんてもっての他だし。午後はもっと締めてかからないと……」
不慣れな部分はあったが、午前中にチームが予定していた新型『RS4/28』の開発プログラムを終えると、夢兎はチームのホスピタリティ用の大型キャンピングトレーラー――モーターホームへと向かった。
「いらっしゃい。そろそろ来るだろうと思って奥の席を空けておいたよ。……ランチは予約してあったものだけでいいかい?」
「はい、お願いします」
モーターホームの横に張り出されたテントの中は臨時のカフェテリアになっていて、テスト期間中、シェッフェルの面々はここでランチやティーを摂っている。
「……さてと」
もち麦と緑豆のリゾット、皮なしの胸鶏肉、ドレッシングなしのサラダといった定番のプレート料理をパパッと食べ終えると、モバイルパッドを機動し午前中のデータをチェックする。
すると、データを見る前に着信が来た。
「ヤァ、夢兎。初ノtestダガ、調子ハドウダ?」
「シェステナーゼ。おかげさまで、無事に午前中のセッションは終えられたわ。でも、まだ午後があるし。気は抜けないはね」
シェッフェル・エッフェルが誇る対話型・ドライバー支援インターフェイス――――「シェステナーゼ」
去年の最終戦で共に戦ったパートナーである彼とはもうすっかり打ち解けていて、ヒマさえあればこうしてレースのことからレース以外のことまで何でも話している。
年長者ばかりの職場なので、気を使わずに話せるシェステナーゼの存在は本当にありがたい。
リラックスした調子で二、三話すと、シェステナーゼが気遣うように訊いてきた。
「Shefferuノmachineハ、シャフイザspecialノmachineデアリ、操縦性ノ低イ新車ノ状態デノtestハ、苦労ガ大キイ。君モ苦労シテイルノデハナイカ?」
「ええ。40Lap程度の走行でここまで疲労を感じたのは初めてだわ。今朝、最初にコースに出て行った時も挙動がピーキー過ぎて……。無線で『どこかエアロパーツ壊れてませんか?』って聞いちゃったわ。チームがマシンを理解していけばエアロバランスも整ってきて、操縦性も上がってくるとは思うけど……今は『こんなマシンでレースするのはごめんだ』っていうが正直になところね」
「フッ、ナルホド。今ハ我慢ノシドコロダナ」
去年の最終戦で駆った「RS4/27」は開発し尽くされた最終バージョンであり、チームがマシンのことを熟知していて、操縦性もほぼ完璧だった。
けれど、新型はそうはいかない。
遅ればせながら、地上最速のマシン――――Velo Voitureを操る難しさ、当代屈指のVeloドライバーのチームメイトを務める難しさを痛感した気分だ。
でも。
新型の初走行という大きな課題に対して、つまずくことなくしっかりとこなせていることは大きな自信になる。
代理で担当エンジニアを務めてくれたTDからも、「初日のプログラムは、滞りなく終了できた」と言ってもらえたし。この流れで仕事を進めていけば、きっといい形でシーズンインできるはずだ。
けれど。当然不安がないわけではない。
「ン? 何カ問題デモアルノカ、夢兎」
カメラ通話で夢兎の表情をセンサーしたシェステナーゼが、心配そうに訊いてくる。
ふと過ぎった不安が顔に出てしまったようだ。一瞬どう答えようか迷ったが、隠してもしょうがないので素直に答える。
「心配しないで、何かトラブルが起きてるとかじゃないの。ただ……」
「タダ?」
「去年の最終戦みたいにあなたと一緒に走れたら、もっといいパフォーマンスが見せられるだろうし、シーズンに対しても前向きになれるのになって思って」
「ンン……。ソウカ、ダガソレハ……」
「うん、わかってる。ごめんなさい、困らせてしまって」
以前と同じように会話しているけれど、シェステナーゼはもう自分のパートナーではない。
資金面で苦境に喘いでいる現在のシェッフェルでは、ランニングコストのかかるシェステナーゼを搭載したマシンを二台用意することができない。
長年コンビを組んできたエースから、シェステナーゼを奪うことなんて当然できないし。
残念だけれど、これは致し方がない事だ。
けれど。そう理屈ではわかっていても、去年の最終戦で大きく成長し「これならVeloでも戦っていける!」という手応えを感じていただけに、簡単には割り切れなくて……。
新シーズンをシェステナーゼと一緒に走ることができないという事実を、まだ消化しきれいないでいる。
「私ハteamノ下シタ決定ニ従ワナケレバナラナイ。ダガ、私モ君ト一緒ニ走レナイノハ残念ダト感ジテイル。気分良クraceガデキルノハ、断然君ノ方ナノダカラナ」
こちらの胸中を察したシェステナーゼが慰めを言う。
でも、これはお世辞だ。気持ちは嬉しいけれど、シャフイザと自分の実力差を考えればそれは絶対にない。
苦笑を交えてそう返す。
だけど、シェステナーゼはどうやら本気のようで。
「イイヤ、コレハオ世辞デハナイ。我ガteamノモウ一人ノdriverハ、ソレホド酷イノダ……。私ノ助言ニハ耳ヲ貸サズ、事前ノ相談モナシニ急ニover driveヲハジメ、失敗シタラ私ニ責任ヲ押シツケヨウトスル……。『課金ガチャ』トイウ悪質ナgambleニハマッテイルセイカ、ソモソモ基本的ナ性根ガ腐ッテイルノダ。彼ト比ベタラ、君ハ本当ニ善良ナpartnerダッタ」
(……また始まった)
恒例となったシェステナーゼの「現パートナー」に対する愚痴が始まり、つい頬が緩む。
「シェステナーゼ、あなたもだいぶ苦労しているみたいね」
「アア。サッキノtestモ酷イモノダッタ。driverノsupportヲスルタメニ作ラレタ私ガコンナコトヲ言ウノハ問題ダガ……ヨクアンナdriverトcombヲ組ミ続ケテイラレルモノダト、我ナガラ感心シテイル」
「そ、そうね……」
他の物事に対しては人工知能らしく冷静に対処するのに。この話題に関してだけは、シェステナーゼは感情的になって怒りに怒りまくる。
そのギャップが面白くて、本人には悪いけれど可笑しくなってしまう。
でも、真剣な悩みだし笑うのは失礼なので、頬をぷくっと膨らませてなんとか耐える。
が、その時。
「――――プッハッハッハッッ!!!! 今日の〝シャフイザ・クライのおバカを罵る会〟の会場はここかな? 面白いねえ! 私も混ぜてよぉ!」
突然、背後から遠慮なしの笑い声が飛んできた。
「オッ!」
「ユ、ユイさん!? どうしてここに?」
驚いて振り返ると、そこには絵に描いたような金髪碧眼の美人――レ・ジュールのユイ・キルヒネンが、人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。
「ヤッホ~~! 夢兎ちゃん&シェステナーゼちゃん!」
「こ、こんにちは、ユイさん。……あ、シャフイザさん」
手を挙げて上機嫌に挨拶すると、ユイは「ここ、もうらうよー」と言って夢兎の隣の席へ腰掛ける。
ユイの後ろにいた夢兎のチームメイト、シェッフェル・エッフェルのエースドライバー、シャフイザ・クライも同じように向かいへ座る。
さっきの話を聞いていたのか。こちらは下唇を突きだして、すっごく不機嫌そうな顔をしている。
「人をおまけのように呼ぶな。……あ、俺頼んでおいたやつで」
「私もー!」
二人も電話で先に注文しておいたのか、そう告げるとスタッフは水を置いて「OK」と言って下がっていく。
この二人はいつの間にか仲直りしていたようで、今回のテストが始まってからはもう普通にしている。
二人の関係性というか、距離感は本当に分からない……。これが男の友情ってやつのだろうか?
そんなことを考えながら二人を交互に見やっていると、シャフイザが頬杖をついて夢兎のPCにイヤそうな顔を向けた。
「シェステ、おまえま~~だ午前のテストのこと気にしてんのかよ……。調子良かったから、ちょっとプッシュしただけじゃん」
と、夢兎のパッド画面――シェステナーゼに向けて、さも面倒くさそうな口調でそう言った。
すると、パッドの左上にあるライブ画面が真っ赤に染まり、シェステはゴホンと咳払いし、即反撃。
「新型ノ初メテノtestデ、pushスル愚カ者ガドコニイル」
「……ここにいるぜ」
シャフイザのそのバカな返しで、二人は完全にバトル状態へ。
「ソレガace driverノ言葉カ。clashシタラ、君ハドウスルツモリダッタノダ?」
「クラッシュって……そこまで攻めてねえだろうが。第一印象が良好だったから、イニシャルセットアップの状態でどこまでいけるかちっと試しただけじゃねぇか。俺たちが担当した午前中の開発プログラムはちゃんと終わらせたんだから、そんなに文句つけることないだろう?」
「ソレハ関係ナイ。君ノ短所ハ、調子ニ乗ッテ失敗スルコトダ。ソレヲ改メテクレト、私ハ言ッテイルノダ」
「わかってるけど……ちょっとぐらいいいじゃん」
「語尾ニ『じゃん』ヲツケルナ。私ハ真面目ニ話ヲシテイルノダ」
二人のバトルは言葉を重ねれば重ねるほどヒートアップしていき、レースとは全く関係ないところまで広がり出した。
Veloを代表する名コンビとは思えない口喧嘩っぷりだが、このコンビはいつもこんな感じなのでもう気にしない。この程度は日常茶飯事。さすがにもう慣れた。
でも……。
用意してあったのか、二人の料理はすぐに配膳されてきた。
目の前に並ぶ和食を目で楽しみ、女子高生みたいに手を合わせて喜んでいるユイを見る。
相変わらずキレイでいい匂いがする人だ。
話し方は砕けているけれど、基本的な振る舞いがスマートで普通にしていてもキラキラしている。
(本当に魅力的な人だ。……いや、そうじゃない)
ユイ・キルヒネン。
この人は、チームタイトル9連覇中の王者『レ・ジュール』の〝ジョイント・ナンバー1〟の一角の担う〝二冠王者〟であり。
シェッフェル・エッフェルとシャフイザの前に立ちはだかる、最大のライバルの一人だ。
そんな人を、仮設のカフェテリアとはいえ、チームの施設の中に入れてもいいのだろうか?
胸の内でそう思いながら、向かいの席を見ていると……ふとユイと目が合った。
「ん? その目はもしかして……敵のおまえがな~~んでウチでランチ食っとるんだぁっ! て感じ?」
「えっ? あ、いや、それは……」
「おう、言ったれ言ったれ。なんだったら力尽くで追い出していいぞ」
「ッ! ちょっと、シャフイザさん」
心を読まれて狼狽えていると、シャフイザが横からいらない口を出してくる。
「うっ、ヒドイ! ……確かに私は敵だけど、去年の最終戦で夢兎ちゃんを応援してあげたわけだから、このくらいはいいかなーって思ってんだけど……うん、わかったよ。じゃあ帰るよ……」
「え? いや、そこまでは。大丈夫ですから! 一緒に食べましょう!」
「……本当?」
「ええ、もちろん」
「ワーイ! ヤッター! じゃあ、遠慮なくー」
(えぇ……)
落ち込みそうな流れだったからいいって言ったんだけど……どうやら遊ばれただけのようだ。
シャフイザやスタッフたちの反応を見て、ユイのことはそんなに気にしなくてもいいのかも、と思う。
そうして、緊張感を解いて二人の話を聞いていると。
「う~~ん、美味しい! いやぁー本当、パドックでこんなちゃんとした和食が食べられるなんて幸せだぁー! 日本チームのくせにAOIは全然和食やってないし。本当、シェッフェル・エッフェル様様だね!」
「チッ、調子のいいこと言いやがって。逆に俺がレ・ジュールのランチ食いに行ったら門算払いされちまったってのによ……ズル過ぎだろう、おまえ?」
シャフイザがそんなことを言った。
「当たり前じゃないですか……何で行ったんですか」
「だって、コイツばっかりいつも食いに来てっからさ~……なんか悔しいじゃん」
「子供カ君ハ……」
幼稚なことを言う我がチームのエースに、シェステナーゼと一緒に呆れる。
「ふーん、そうだったんだ。じゃあ、これはお詫びの半分こね」
全然申し訳なさそうじゃない口調でそう言ったユイが、納豆の入った小皿を手に取り――シャフイザの野菜カレーにじゃば~とかけた。
「ファァァァッッーーーー!!!!」
「大げさしちゃって! 見てくれはグロテスクで食べられたもんじゃないけど、納豆とカレーは意外と合うんだよ? 食べてみそ」
突然目の前で起こった奇行に対して、シャフイザが悲鳴を上げて頭を抱える。
しかし、ユイは全く悪びれた様子もなく。逆にキラッキラッの笑顔で自慢げに胸を張り、自分のやったことを全肯定。
「ナニが食べてみそだよ、テメェッッ!! オマエ、俺のカレー……もうこれ死んでるじゃねえかよ……」
「大げさしちゃって! これが美味しいんだから! 騙されたと思って食べてみなよ。ほら、あ~んしてあげるから。はい、あ~~ん」
「ふざけんなっ!! オッサンのあ~~んなんて死んでも食えるかっ!」
差し出されたスプーンから逃れるように顔を引いたシャフイザが、抗議の声を上げる。
でも、ユイはイタズラが成功した子供みたいに上機嫌で。本当に楽しそうにシャフイザを転がしていく。
「しょうがないなぁ。こういうので食事を残すのは最低だし。じゃあ、ここは責任とって私が食べるよ」
「バカ野郎っ!! そしたら、俺のランチがなくなるじゃねえか」
「私の和食セットあげるよ」
「オッサンの食いかけなんて食えるかよっ!! 作り直してもらってたら時間なくなるし……。ちくしょう。せっかくのランチタイムなのに、なんなんだよこの拷問は……」
ユイからスプーンを荒っぽく奪うと、シャフイザは顔をくちゃくちゃにしながら渋々と納豆カレーを咀嚼していく。
それを見てケラケラと笑うと、ユイも上機嫌に箸を進め再び料理に舌鼓を打った。
ユイは、『冠王者』ウォルフガング・エッフェンミュラーと並ぶ、シェッフェルの最大のライバル。
だから、本来ならこういう馴れ合いは良くないと思う。
でも……。
(ユイさんは社交的でぐいぐい来る人だけど、爽やかで嫌味がないから……なんか許せちゃうのよね)
きっと、人徳なのだろう。
シャフイザも半ば諦めて受け入れているみたいだし。この人に関してはあまり敵だ、味方だと気にしない方がいいのかもしれないと夢兎は思った。
* * *
そのあとも、三人+シェステナーゼで弄り合いツッコミ合いの会話を楽しむと、あっという間にランチタイムは終了。
ピットへ戻る時間がやってきた。
「んじゃ、またねー」
「はい、またお話しましょう」
「二度と俺のカレーに近づくんじゃねえぞ、このバカチンがっ!!」
「ヤダー」
そう言って子供みたいに笑うと、ユイは背中越しに手を振ってそのまま自陣のピットへと戻っていった。
午後のセッションも、当然仕事は山のようにある。こちらも早足でピットへ移動する。
歩きながらふと空を仰ぐと、サーキットの上空に停滞していた雲が減っていることに気づいた。
陽差しも強くなってきてるし、この分だと午後は路面温度が上がってタイヤテストが捗りそうだ。
「夢兎」
そんなことを思いながら歩いていると、前を行く広い背中からやや硬い声が飛んできた。
こういう時はだいたいレースの話だ。
横に並んでシャフイザの傷顔を見上げると、一呼吸置いて返事をした。
「はい」
「お邪魔虫がいたから言い出せなかったんだが……おまえの新しい担当エンジニア、決まったみたいだぞ」
「ッ!! ホントですか!?」
驚きと嬉しさが入り混じった声が自然と出た。
担当エンジニアとは、ドライバーと一緒にマシンセットアップの方向性を決める役職であり、ドライバーのパフォーマンスを左右する重要なパートナーだ。
ドライバーによっては家族ぐるみの付き合いをしたり、チームを移籍する際に担当エンジニアの移籍も条件に加えたりするほど、ドライバーにとって担当エンジニアの存在は大きい。
デビューシーズンである自分にとっては尚更大事。
なかなか担当を決めてもらえなくて、やきもきしていたのだが。これで一安心だ。
「で、どんな人なんですか? 名前は? もしかしてチーム外の人とか?」
去年はシャフイザとシェステナーゼが全面的に協力してくれたおかげで、「自分の好みに嵌まった」のマシンセッティングでレースができたけれど、これからはそうはいかない。
自分に合ったセッティングを、担当エンジニアと一緒に考えていかなくてはいけないのだ。
だからこそ、どんな人なのかすごく気になる。
しかし。
「あー、まあなんだ……そうだな……」
シャフイザの反応は悪く。
腰に手をつくと、どう説明したものかと言わんばかりの表情で視線を泳がせた。
「……え? そんな説明しづらいような方なんですか?」
どういうことなんだろう?
胸の内にあった期待が萎み、替って不安が一気に膨らんでいく。
「違う違う、違うぞ! 腕は間違いない! 間違いなく、おまえの力を更に引き延ばしてくれるはずだ。ただ、どんな人かと訊かれると……説明するのがちと難しくてな」
「不安にさせないで下さい……本当にどんな人なんですか?」
「あー、何言っても後で文句つけられる気しかしねえな……。まあとりあえず、しおりさんがテスト後のデブリーフィングで顔合わせしたいって言ってたから、自分の目で確かめてみろ。……不満は後で聞くからよ」
「チョット、それどういう意味ですか……!」
……何かわからないけれど、これは相当酷いことがあるに違いない。
そう踏んで脇腹をつねったりして白状させようとしたけれど、「しおりさんからも余計なこと言って、おまえを混乱させるなって言われてるんだよ。だから、テスト後まで待てって。な?」とか言い逃れされて、結局聞けず終いで別れてしまった。
「何なのよ……もうっ」
ずっとおあずけにされていた分、どんな人が担当エンジニアになってくれるのか楽しみにしていた。
けれど、今のシャフイザの口振りを考えると、どうやら甘い期待は捨てた方が良さそうだ。




