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最速の世界 11

●「前回のあらすじ」

 フリー走行1回目。夢兎のセッティングを仕上げるために、シャフイザが夢兎のマシンを走らせた。

 夢兎のやる気に触発されたシャフイザは、負傷した古傷の痛みを抱えながらも、今季の不調を吹っ切る走りでその役割を全うする。

 助けてくれるものはもういない。ここから、夢兎の本当の戦いが始まる。


 2026 Velo Trophy World Championship Round12 Japan Grand Prix race day。

 決勝レーススタート、20分前。


 マシンの最終チェックを行う、チームクルー。

 ゲストと談笑する、チーム首脳。

 黙々とシャッターを切る、カメラマン。

 メモ帳にペンを走らす、ジャーナリスト

 カラフルな衣装に身を包んだ、グリッドガール――。


 スズカサーキットのホームストレートには、グランプリレース恒例の景色が広がっている。

 そんなお祭りのように人がごった返しているホームストレートに。


《――――続いて、予選9位ッ!!  シェッフェル・エッフェル! カーナンバー22番! 壬吹ぃぃぃぃ!! ハーグリーブスゥゥゥゥ!! 夢兎ぉぉぉぉっっ!!!!》


 夢兎を紹介する場内放送が流れた。

 すると、グランドスタンドから津波のような大歓声がわき起こり、ホームストレートにいたグランプリ関係者たちはみな、耳を押さえて驚きの表情を浮かべた。


「す、すごい……!」


 声援を受けた夢兎は、目をパチクリしながらグランドスタンドを見上げる。 


「日本人初の女性Veloドライバー」ということもあってか、自分がファンの注目を集めていることは事前の報道で知っていた。

 けれど、ここまで応援してもらえるなんて思いもしていなかった。

 こんな大声援をもらうなんて、もちろんはじめてのことだ。嬉しいというよりも、戸惑ってオロオロしてしまう。


 どうしていいのかわからなかったので、とりあえずお辞儀をして手を振って応える。

 すると、またエアホーンと共に大声援が響いた。


「これが、Velo Trophy……」


 さすが、世界最高峰のグランプリレース。

 スタート前のホームストレートの雰囲気も、ファンの熱気も、これまで走ってきたレースとは段違い。

 今更だけど、緊張で身体が強張ってきた。


 でも。

 

「……集中しないと」


 すぐに気持ちを落ち着かせると、これから始まるレースのことを考え始めた。


 シャフイザが託してくれたセットアップと、エンジニアたちの献身的な分析作業のおかげで、予選は9番手で通過することができた。

 シミュレーターの時からずっと、予選タイムアタックのパフォーマンス不足に苦しんできたので、この結果には満足だ。

 スズカは抜きどころが少ないが、レースペースには自信がある。スタートを上手く切れさえすれば、チャンスは十分にあるはずだ。


 しかし、当然楽観はできない。


(シャフイザさんが託してくれたセットアップは、サスが固めなわりに操縦性ドライバリティが良い。タイヤの性能作動温度領域ウィンドウを使いやすいセットアップだ。このセットアップなら、ルーキーの私でも全くタイヤの性能を引き出せない、なんてことにはならないはず。……でも、サスが固いということは、ミスによって生まれた負荷ストレスがクッションなしで全てタイヤへいくことになる……。大きなミスを犯せば、そこでタイヤは終わる。そうなれば、私のレースは一瞬でご破算わさんだ……――)


 それを考えれば、今日のレースは一瞬足りとも気の抜けないタフなレースになるだろう。

 けれど、臆することはない。

 

(シャフイザさんが、あんなになるまでやってくれたんだから……)


 そう心の中でつぶやくと、夢昨日のフリー走行後にシャフイザと交わした会話を思い出した。  


 * * *


 フリー走行1回目終了後。

 全開フルフラットのドライビングを続けたシャフイザは、自力でマシンから降りられないほど腰を痛めてしまい、メカニックたちの力を借りて、なんとかマシンから這い出てきた。


 シャフイザがゆっくりと立ち上がり、バインダーに挟まったセッティングシートを修正する。

 ペンを持つその手は、傍目でもわかるくらい震えている。呼吸も乱れたままだ。

 ヘルメットを被ったままなので表情は覗えないが、古傷の痛みは相当なものに違いない。


「シャフイザさん……。ごめんなさい、私のせいで……」


 こうなることはわかっていた。だから覚悟は決めていたつもりだった。

 でも、実際に痛んだシャフイザを見ると心が揺れて。


(私にもっと力あれば、こんな無茶をさせることなんてなかったのに……)


 などと、今考えても詮ないことが脳裏を過ぎり。


(もし、ここまでしてもらって「また」結果が出せなかったら……)


 大一番で結果を出せない自分の勝負弱さを思い出し、気持ちがネガティブな方向へと傾きはじめた。


「ッ! 私……絶対に勝ちます! 勝って見せますから……!!」


 馬鹿なことは考えるな。

 やるしかないんだ。

 弱気になった自分を叱ると、気持ちを吹っ切るつもりでシャフイザにそう言った。

 

 しかし、それが虚勢なのは明らかで。

 自覚できるくらい声は上ずり、顔も強張っていた。


「おまえ……言葉と表情が全然一致してねえぞ」


 だから、呆れたようにそう言われても言葉を返せず。

 情けないことに、ここまでしてくれた人の前で弱気をさらけ出してしまった。


「ったく、吠えたかと思ったらしゅんとしやがって……。どうせ『私はこういう場面で結果を出せていないし……、今回もダメだったらどうしよう……』とか、つまんねえこと考えてんだろう?」

「……」

「はあー。まあ、ここ数年こういう状況でしくじり続けてるわけかだら。不安になるなって、言われても無理か」


 こちらの情けない心内を察して盛大にため息をつくと、シャフイザはヘルメットの奥にある瞳を少し微笑ます。

 

「でもな、大一番で勝つのは簡単なことじゃない。おまえだけじゃなくて、みんなも一緒だ。だから、『自分にできるのか?』なんて考えるのはやめろ。そんなんじゃいい結果なんて、絶対に出せねえからな」


 そして、少しよろけながらこちらに歩み寄ると。

 お互いの右肩と右肩を、コツンと当てた。


「え、えっ? んっ……」


 シャフイザが使っているデオドラントの匂いが、鼻の奥に広がっていく。

 人前で抱きしめられたと思い、頬がぽーっと朱に染まる。


 ……でも、それは完全に勘違い。


「シャ、シャフイザさんッ? その、あの…………ン゛ウ゛ッッ!!」


 シャフイザは抱きしめる……と見せかけて、夢兎の背中を左手でバチンッ!と思いっ切り叩いた。

 これは……ハグはハグでも、欧米文化圏の男性同士が、挨拶や喜びを表わす時に交わす「男ハグ」というやつだ。


 男女で交わすハグでは決してない。

「どういうつもり?」と抗議するようにシャフイザの顔を見上げると、シャフイザはおどけたように肩をすくめた。


 そうして、こちらの目を真っ直ぐに見据え。


「俺は、オマエに賭ける。オマエを信じる……」


 ささやくように、でも強い言葉でそう言うと。

 シャフイザは肩を離し、こちらの肩を右拳で軽く押すように突いた。


スピードさと一緒に、俺の度胸も貸してやる。だから、そんな情けないツラはここで捨てちまえ。……自信持っていけ、夢兎」

「――――ッ!!」


 急に真剣になるから……。

 動揺して、胸の奥がぎゅーっとなった。顔が熱い。


 でも、おかげで吹っ切れた。


(この人は、お婆さまがいなくなってからずっと。いつもこうして、私を励まし続けてくれた。

 ヘンタイで、不真面目で、適当で、ゲームばっかりしていて、マズイことがあるとすぐに誤魔化そうとする……全然年上とは思えないヘンタイだけど……。


 今の私があるのはこの人のおかげなんだ。


 だから、私はこの人の夢を叶えたい。

 この人に、世界一の王様になってもらいたい。

 その夢を成し遂げるために、少しでも力になれるのなら。

 私は……私は……ッ!!)


「……はい。私……私、絶対に表彰台に登ってみせます!」


 ぎゅっと胸を押さえていた手を離すと、少し潤んだ、でも力のこもった瞳でシャフイザを見返す。

 もう揺るがない。託された思いに応えたい。心の中に芽生えたその確たる意志を示すように、シャフイザと長く視線を交えた。


 すると、シャフイザは思いを受け止めるように小さく頷いた。

 が、会話ができたのはそこまでだった。


「ッ!! つつ……ッ!!」

「シャフイザさん!?」

「だ、大丈夫だ……。んじゃあ、後は任せたぞ……」


 我慢していた腰の痛みが限界に達したのだろう。

 苦痛に顔を歪めたシャフイザは、チームクルーに目配せするとメディカルルームへと移動した。


 遠ざかっていくその背中は、《現役最速》と呼ばれる男とは到底思いえないほど弱々しい。

 けれど、自分には……。その背中が眩しいくらい気高く、尊いものに見えた。


(この託された力を、私は無駄にしない! 絶対に……絶対に……!!)


 * * *


 ホームストレートの喧噪が耳に戻ってくる。

 静かに回想を終えると、夢兎は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。


 あの時のシャフイザの背中を思い出すと、身体の奥底から力が湧いてくる。

 もう過去がどうとか、確率がどうとかはどうでもいい。


「自分が持ちうる最高のパフォーマンスをレースにぶつける」――今は、ただその一心。その一心だけでいい。


(……よし、行こう!)

 

 心の中で勢いをつけるようにそう言うと、今抱いている強い気持ちを忘れないように拳をぎゅっと握りしめた。

 そして、マシンに乗り込む準備に入ろうとしたのだが……。


 その時。


「その顔……。どうやらまだ、己の無力さを自覚することができず、夢物語にうつつを抜かしているようだな。我が娘ながら、哀れなものだ」


 最悪なことに、〝あの男〟が現われた。


 耳慣れたくぐもった声に振り返ると。声の主が、こちらをバカにするように顎を上げて立っている姿が目に入ってきた。

 詰め襟型のスーツに、白いタイトグローブ。そして頭部には猛禽類のような目と、鋭く尖った顎が特徴的な西洋風の仮面兜。

 こんな頓痴気とんちきな格好で往来に出ている人間など、一人しかいない。


「ッ! あなた……」

「古傷が感知していないシャフイザ・クライに捨て身を強要し、自分に合ったマシンを無理矢理用意させたようだが……とんだ徒労をさせたものだな」


 父・英二えいじが、挨拶がわりと言わんばかりに口から毒矢を放ってきた。

 そして、言うに事欠いて。


「おまえのような惰弱だじゃくなドライバーに、チームの未来を託すとはな……シャフイザ・クライもチームの連中も、見下げ果てたものだ。お前のお婆さまが育てた人間らしい愚鈍ぐどんさとも言えるが……これほどのナンセンスを、私は見たことがない」

「なっ……!」


 自分を支えてくれた人たちのことを、口汚く愚弄してきた。


 頭の天辺から血が噴き出しそうなくらい、カーッと来た。

 今の言葉は絶対に許せない。噛みついてでも今すぐ訂正させてやりたい。


 けれど、この状態でまた言い合ってレースに臨んだら、テストの時と同じ轍を踏むことになる。

 あの時はシェステナーゼが窘めてくれたおかげでなんとかなったが、今日のレースはそれではいけない。

 表彰台に登るためには、今、自分が持っている100%の力を……いや、自分の限界を超えた力を発揮しなくてはいけないのだから。


(そうだ。ここで噛みつき返したら、この男の思う壺だ。落ち着け、落ち着け、落ち着け私……)


 心の中で何度もそう唱えると、マグマのように煮立った感情が、なんとか落ち着いてきた。


「……一言だけ、いっておきます」


 そうして、きっぱりとした口調で言うと。

 

「以前、あなたが指摘したとおり、私はまだ未熟なドライバーです。……でも! このレースだけは何がなんでも結果を出します! そして、今の言葉が間違いだったことを証明してみせます」


 シャフイザとお婆さまを先頭に、自分のレースキャリアを支えてきてくれた人たちの顔を思い浮かべながらそう言うと、力のこもった瞳で英二を見据えた。

 言いたいことは言えた。

 しかし、英二はこの程度のことで気圧される人間ではない。視線を外さずに応じてくる。


 少しの間、退けぬ退かぬと、英二と張り合うように睨み合う。

 しかし、こんな不毛な睨み合いを続ける気はさらさらなく。自分の意志を伝え終えると、意地を張らずに先に視線を外し踵を返した。


 この人に背中は見せたくない。けれど、今はこれでいい。

 この人は言葉でわかってくれる人ではない。だから、あとは……。


「腹は据えたようだな。だが、レースは意志の強さだけで決まるものではない。覚悟を決めた程度で物事が好転しうるのであれば、誰も苦労はせんのだ。おまえの覚悟は、レースの結果で見せてもらうとしよう」 


(望むところだ!)


 心の中でそう切り返すと、夢兎は英二に向けて肩越しに鋭い視線を送る。

 すると英二は、夢兎の闘志を嘲笑うかのように肩をすくめ、そのままこの場から去っていった。


 去り際に一煽りしていくところが、なんとも憎らしい。

 でも、もうそんなことはどうでもいい。


 固く結んでいた唇を解くと、身体の中にある空気を総入れ替えするように大きく息をついた。

 そして、頬を両手で張ると。


「…………行こう」

 

 心の奥にある原動機エンジンに火を入れ、白銀のマシンへと乗り込んだ。


 * * *


 決戦に向けて、気を入れた夢兎。

 しかし、このレースに対して並々ならぬ思いを抱いて臨むドライバーが、夢兎以外にもう一人いた。


「……」


 幼い顔立ちをした細身の青年は、指通りのいい黒髪を掻き上げると不快感に満ちた表情を浮かべた。


「あんな奴に……あんな奴に……僕は劣りはしない。しないんだ……!!」


 マシンに乗り込もうとしている夢兎に向けて、遠くから呪詛めいた響きの言葉を撃つと。

 青年はヘの字に唇を結び、メタリックイエローのマシンが止まっている場所――――「7番グリッド」へと向かっていく。

 

(壬吹・ハーグリーブス・夢兎……僕は、おまえには負けない! 僕は、〝この場所に全てを捧げてきた、報われるべき人間〟なんだっ! だから……!!)


 下位チーム・ロスメンズMGEに所属する日本人ドライバー、久湊ひさみな新司しんじ


「トップチーム、シェッフェル・エッフェルへの昇格」という人生最大のチャンスを夢兎に潰された彼は、「打倒夢兎」の気を迸らせながら、マシンへと乗り込んでいった。


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