最速の世界 10
●「前回のあらすじ」
ついにデビュー戦の日がやってきた。グランプリのスケール感に翻弄される夢兎。
《二冠王者ユイ・キルヒネンが、気さくに声をかけに来てくれたのだが。シャフイザの「夢兎を援護して欲しい」という発言で、友好ムードは台無しに……。
一方、表彰台を争うライバルとなる久湊新司も、夢兎に対して静かに敵意を燃やしていた。
開催日初日、早朝。
「2026 Velo Trophy World Championship Round12 Japan Grand Prix」のオープニング・プログラム――――フリー走行1回目が、いよいよ開始された。
極彩色。色とりどりの車群がピットガレージを離れ、我先にとコースへと向かっていく。
どのチームもファクトリーでベースセッティングを固めてきているが、現場での仕上げは当然重要であり、その動きは精力的だ。
活気づいたチームの熱はグランプリに関わる人々へすぐに伝播し、スズカサーキットは一気にグランプリモードへと入った。
そして。
チームの運命を左右する一戦を迎えたシェッフェル・エッフェルのマシンも、その熱気の中へと飛び出していった。
* * *
「Course condition green……。system check…………各部問題ナシ。続イテ、W.I.M.Sノ新設定ノ動作testヲ行ウ。driver defaultノpositionヲ、指定サレタ位置へ変更セヨ」
エキゾーストノートの多重奏と、目の前を高速で駆け抜けていく鋼鉄の群れに興奮した観客たちが、遠ざかっていくマシンたちに歓声を送る。
その一台を操るシャフイザは、本格走行に入る前の|暖機運転《ウォーミング アップ ラン》を実施していた。
そして、一通りの作業を終えると、シェステナーゼのコミュニケーター画面に複数の六角形が浮かんできた。
「……フム。君ノ|performanceガドウナルカ心配シテイタノダガ、ドウヤラ問題ハナサソウダナ」
「ん? 腰のことか? フリー走行だけなら、なんとかなるって言ったろう。……まあ、ドクターを説得すんのは一苦労だったけどよ」
「ソウデハナイ。今期ノ君ハ、不調ノセイカrace weekニ入ルトカナリnervousニナリ、自分ノ走リガデキナクナッテイタ。シカシ、今ノ君ハソウデハナイヨウニ見エル。夢兎ノ影響カ?」
シェステナーゼが喋るのに合わせて、コミュニケーターに映っている六角形の線に沿って光が走っていく。
言われてみれば確かにそうだ。
こんなにリラックスした気分でマシンを運転するのは、いつ以来だろうか……思い出せない。
「……そうだな」
そう一言返すとややうつむき、シャフイザは意識を内側へと向けた。
シェッフェル・エッフェルは、マシンを速く走らせることしか能のない貧乏人だった俺を、世界最高峰の舞台まで引き上げてくれた。
あの夢兎の祖母とチームの人々がいなければ、俺は絶対にこの世界には来られなかった。
だから俺は、恩返しがしたかった。
エンストーの人々の悲願である「約20年ぶりの世界王者獲得」を、一年目から達成する気でいた。
だが、デビューから二年連続で王者獲得のチャンスを得ながら、共に最終戦で敗れ去り……その後は、怪我で約二年棒に振った。
復帰後。「さあ、今度こそ!」と息巻いて再挑戦したが、「ウォルフガング・エッフェンミュラー+ユイ・キルヒネン」のレ・ジュールコンビに粉砕され、再び二年連続で王座を逃した。
そして、今年。
2020、21、24、25年と四度も王者争いに加わりながら、ライバルたちに敗れた悔しい気持ち。
その雪辱を果たしてやろうと気を入れて開幕戦に臨んだ。臨んだのだったのだが……。
王者獲得どころか、一つ勝つのがやっとの惨敗で終わった……。
マシン性能の差でろくな勝負ができず、表彰台の天辺を見上げる日々が続き。
Velo撤退の話が大きくなり、無力感に押しつぶされた俺は……。
心の何処かで、「もう、恩返しすることはできないんじゃないか……?」と思い始めていた。
…………だが、今は違う。
――――私は絶対にシェッフェル・エッフェルの撤退を阻止したい! 次のレースは、自分のレースキャリアの全てを賭けて勝負しないといけないレースなんです!
昔から知ってる妹分だった夢兎が、俺でも諦めそうなくらい厳しい状況に対して、真っ向から勝負を挑んでいっている。
精一杯、状況を変えようと抗って。本当はビビってるくせに、シェッフェルのために、死んだ婆さんのために、必死でもがいてる。
そんな夢兎を見てたら、「翻って俺のこのザマは何だ? 情けねえにもほどがあんだろう……?」って、自分にキレた。
マシン性能の差なんて、言い訳になるわけがねえ! 何回王者争いで敗れたかなんて関係ねえ! ここにいる以上、俺は馬車馬のように走って走って走り続けて、「デビュー戦でフェノーメノ使わせろ!」って言った夢兎と同じくらいの気概でレースに臨まなくちゃいけなかったんだ。
それなのに俺は、気持ちが先に砕けて…………本当にバカだった!
そう気づいてからは、もう前を向くしかねえって吹っ切れられた。
可能性がうんたら、数字がかんたらは後から考えればいい。とにかく、今自分ができる最大限のことをやる。そんな風に考えられるようになった。
小っ恥ずかしくて言葉にはできねえが、夢兎は腐りかけていた俺を後ろから全力で蹴り飛ばして、〝俺が、Veloに来た時の気持ち〟を思い出させてくれた。
婆さんが生きていた時と同じように、いいヤキを入れてくれた。
だから俺は、今度こそ……ここで――
「――シャフイザ? ドウカシタノカ?」
「…………あ? ああ、わりぃ。少し考え事してた」
「ン……何カ懸念ガアルノナラバ聞コウ。私ガ対応デキル問題デアレバ、対処スル」
コミュニケーターに再び光が走り、画面の上部には「?」マークがふわふわと浮いている。
シェステナーゼの反応が意外なほど真剣なものだったので、少し驚く。
だが、「まあ、こういう反応されてもしょうがないわな」とすぐに思い直した。
(今季は、こいつにも心配かけっぱなしでデッケェ借りを作っちまった。そいつも返さないとな……ここでよっ!)
胸の内で自分を叱咤すると、シャフイザはヘルメットをコツンと叩いて気を入れ直した。
そして、コミュニケーター画面に凛とした眼差しを向けると、改まった口調で言った。
「ああ、大丈夫だ。今期はみっともねえところばっかりでチームの足を引っ張って、おまえにも気苦労かけちまったが……もう心配ねえ」
「シャフイザ……」
「体たらく続きで、このチャンスでも何もできませんでしたじゃ、もう誰も俺のことをエースとは認めてくれねぇ。だから、このレースだけは絶対に取る。夢兎に取らせて見せる……!」
ここまで言うと、シャフイザは目に力を込め、身体の中にある気を全てぶつけるような気迫と覚悟で言葉を継いだ。
「そして来年は必ず、必ず王者を獲る! 五度目の正直だ、もう次はねえって覚悟で行く。だから……頼むぜ、相棒っ!」
すると、相棒と呼ばれた人工AIは。
「言ワレルマデモナイ。君ノ戦イハ、私ノ戦イデモアリ、君ノ求メル栄光ハ、私ガ求メル栄光デモアル。君ハ何モ言ワズニ前ダケヲ見テ進メ。私ハ常ニ、君ト共ニ戦ウ。私ハ君ノ、partnerナノダカラナ」
こちらの魂を熱するような、最高の答えを返してくれた。
「ああ……」
シェステナーゼの言葉を感じとるように、シャフイザはステアリングを強く握り締めた。
すると、身体の中で火花が飛び散り、火は至るところに燃え移り、たちまち燃え上がって炎となった。
身体全身が焼けているように熱い。
だが、頭の中はこれ以上ないというほどクリアで、冴えていて……。久々に感じる全能感に、シャフイザは静かに打ち震えた。
そしてここでタイミング良く、チームからboxのサインが来た。
暖気運転《ウォーミング アップ ラン》は、これで終わり。ここからが本番というわけだ。
「うっし! んじゃあく一丁ブチかましに行くか! シェステ、moving surface control hard 8。低速ターンでのマシンバランスと、エネルギー回生マネージメントの調整はおまえにまかせる」
車体セッティングの変更を告げると、シャフイザは歯を見せて喉を鳴らした。
男の決意を響かせ合った後だ。シャエステナーゼは当然、さきほどと同じように即答で応じてくれるだろうと確信していた。
……いたのだが、しかし。
「ソノ変更ニハ、賛成デキナイ」
まさかの「拒否」。
シャフイザはずっこけるように首をぽてっと落とした。
「ちょ、おまえっ!? この流れでそりゃないだろうが……」
「ン? ドウイウ意味ダ? 私ハ何モオカシイコトハ言ッテイナイ」
「いやいやいやいやっ……ここは、熱いノリのままガンガン攻めの姿勢で行っちゃうところだろう! 四の五の言わずに、『了解だ! 君を信じる! 奇跡を起こそう!』みたいな感じでさ」
「…………理解不能。今、君ガ要求シタsetting変更ハ、想定サレタsettingノ範囲ヲ大キク逸脱シテイル。フリー走行デ君ガ走ルノハ、夢兎ヲsupportスルタメダ。ソレヲ忘レルナ」
「いや、そうだけどさぁ……。でも、今ひらめいたんだよ! 夢兎ならこんくらいやれるって! だから、やってみようぜ? なぁ? なぁ?」
「予定シテイルsettingモ、debut raceノ夢兎ニトッテハ十分ニ急進的ナモノダ。コレ以上ノriskヲ背負ウコトハ、許容デキナイ。……シャフイザ、予定ニ従エ」
「表彰台もぎ取るには、もっとスピードが必要だろうが! ってかおまえ、さっき決め決めのセリフで『君に着いて行くぞ……!』みたいなこと言ってたじゃん。あの言葉は嘘だったのかよ?」
「ワカッタ。ナラバ訂正シヨウ。コノraceデハ、私ハ夢兎ノpartnerダ。〝sub driver〟ノ君ニハ、夢兎ノタメニナルdataヲ収集スルコトヲ強ク求メル」
(かぁ~~言いやがった、このヘッポコAIっ! ……まあでも、正直ちょっとノリで大きく出ちゃったし。やめとくか……)
シェステナーゼの正論にぶーたれ顔になったが、さすがにこのアホなやり取りを続けるわけにはいかない。
一言いい返してやりたい気持ちもあるが、もうスイッチを入れる時間だ。
「わーったよ! んじゃ、moving surface control hard 7で」
「予定デハ、hard 6カラダ」
「あいあいあい、じゃあそれで! タイヤ変えたら集中し直すから、もう余計なこと言うなよ……いいな?」
「余計ナコトヲ言ッテイルノハ君ノ方ダ」
「…………こん畜生が」
本当、一言多い野郎だ!
だが……。
(最近の俺には、これが足りなかったんだよな。無駄口叩いた俺を、シェステが真面目一本槍でブッ刺す。それで気持ちを入れ替えて、「さあ、やってやりましょう!」って気になる。そうだ、俺たちのやり方はこうだったんだ。……なのに、最近のレースじゃ、無駄口叩く余裕さえなくして、「もう、俺はどうしたらいいんだ……」ってずっと陰気になってた。そんな状態で自分の走りなんてできるわけねえのに……。最終戦でやっとこさ気づくなんて、本当にバカだな……俺は)
ヘルメットの中で自嘲するように舌打ちすると、シャフイザはマシンをピットロードへと向けた。
シェッフェル・エッフェルのピット前で、陣形を組んでマシンを待ち受けるチームクルー。
その中央にマシンを滑り込ませると、チームクルーは熟練の早業でタイヤ交換。停止時間三秒以下で白銀のマシンを再びコースへと送り返す。
(みんなにも、本当に迷惑かけた。……だが、それもここで終いだ!)
「シェステ、前は?」
「sector1……all clear」
「っし! んじゃ、行くか!」
久しぶりに感じる、「どこまでも前向きな気持ち」。
その気持ちを膨らませるように声を出すと、シャフイザは目の前に広がるスピードの大宇宙に全神経を集中させ、己が持つ限界領域へ意識を飛ばした。
「――――――ッッ!!」
頭の中で風のさかばく音が大きく響くと、焦点が目の前から遥か遠くへ移り、世界が急速に狭まっていくような感覚がやってきた。
今まで存在していた日常世界があっという間に遠ざかり……消えていく。
自分という存在が希薄になり、孤独と不安が胸を衝く。
だが同時に、自分とマシンを隔てていた境界線が薄くなり、マシンとの一体感が強まっていく。
そして。
その現象が進むと、ふいに普段は絶対に触れられない力。
自分の中に潜む、もっとも原始的な力が浮かび上がってきた。
「――――――グウッッ!!」
浮かび上がってきた力が全身を飲み込むと、コースが陰影に沈み――――〝星景〟が広がりはじめた。
まるで銀河に浮かぶハイウェイを、一人で走っているような感覚。
その内なる変化を認識すると、シャフイザは瞳の焦点を眼前――――迫り来る次のターンへ定め、全知全能全精神力を収斂させ、マシンをターンへ飛び込ませた。
そうして、ターンを立ち上がると。
星景の奥からターンで起こった運動エネルギーを数値化したデータが、無数に流れ始めた。
その文章、数字、グラフらからなる情報群は、瞬く間に流れる速度を上げ、目視不可能な色と線となり。
次のターンが迫る頃には色と線さえ失い、それぞれが個別の情報を持つ、幾千万の〝輝点〟となった。
その「宇宙規模の情報群」が、次々とシャフイザの脳を貫いていく。
それは、常人であれば即座に発狂するほどのものだ。
しかし、この感覚。この領域こそ、シャフイザが求めた世界。
勝つために追い求めてきた、究極の世界なのだ。
だからこそ、狂うことなど決してない。
シャフイザは、次々と己の脳に流れ込んでくる幾千万の輝点――――幾千万の情報を一瞬で全て比較 衡量し、〝最速〟に通ずる可能性を秘めた情報を収集すると。
その情報群を元に予知した『事象』を脳裏に走らせ、その未来のイメージをそのまま一寸の狂いもなく続くターンに描いていく。
すると、星景を流れる幾千万の輝点は、その結果を基に情報を更新し、シャフイザに対して、新たなる情報を走って伝えていく。
幾千万の情報を瞬時に捌き、未来を形成し、更に高度な情報を引き出す。
この「神との対話」とも言うべき作業を連続して行うことにより、シャフイザは全ての無駄を実際に目にする前に省き、最短距離でベストなマシンセッティングを見い出していく。
この「未来の時間を作っていく予知計算力」と、それを「光速で形成する知力、技術力」によって、シャフイザは齢25にしてVelo Trophy史上歴代4位の記録となる60回のPPを獲得してきたである。
……しかし。その人外じみた能力を持ってしても、他のドライバーのベストセッティングを探し出すことは簡単なことではない。
「シェステ! ブレーキング時のリヤの安定性がもっと欲しい。夢兎はここがダメだと、パフォーマンスが極端に落ちる。アイデアはあるか?」
「BMIGノ設定値ヲ変更スルコトハ推奨デキナイ。tireエヘ摩耗ガ気ニナルガ、ココハaero settingデ対応スルノガ賢明ダロウ」
「わかった。無線でエンジニアに伝え……ッ!? ングッッ!!」
「ンンッ!? ドウシタ、シャフイザ?」
「だっ……大事ねえ……」
しかも古傷である腰の調子は、万全にはほど遠く。
腰痛はLapを重ねる毎に痛みを増し、セッションの半分を過ぎた辺りからは、腰を掻きむしりたくなるような激痛に変わった。
しかしそれでも。シャフイザは成功だけを信じ、持ちうる能力の全てを行使し続けた。
黒と灰青色の瞳に浮かぶ決然とした強い意志は、セッション終了まで輝き続け……。
シャフイザは、「夢兎専用のベストセッティング」を見事見出し。奇跡を起こすための最初の難関を突破したのだった。
* * *
「また無茶をして……まあでも、今日は怒れないわね。ハンス、お願いできるかしら?」
フリー走行1回目、終了。
コマンドポストー――ピットウォールに設置された簡易ピット。レース中にチームの首脳陣が陣取る場所――の高椅子に腰掛けていたしおりは、シャフイザが降車したらすぐに人壁で隠し、そのままメディカルルームへ連れて行くようにスタッフへ指示を出した。
フリー走行中。無線で腰の具合を訊いても、シャフイザは「大事ない」と返していたが、声には苦痛に耐える色がはっきりと出ていた。
レース中は弱みを見せない彼が隠しきれなかったのだから、腰の痛みは相当なものに違いない。
致し方ないことだとはいえ、やはりドライバーに無理を強いるのは胸が痛む。
今は、事前にチェックしてもらった医師の「痛みが出るだろうが、フリー走行一回だけであれば大丈夫でしょう」という言葉を信じる他ない。
(プレスへの対応はすでに打ってある。シャフイザがメディカルルームに直行しても、大騒ぎはならないはずだ。……とりあえず、これで『エースドライバーの鬱屈を晴らす』という、一つ目の目標はクリアできたわね)
しかし、安堵はできない。
こちらの問題は、最初からどうにかなると踏んでいた。
難題なのは、もう一つの問題の方だ。
「……」
しおりは椅子を回転させてピットガレージに目を向けると、天井からぶら下がっているモニターをじっと見つめている、ミルクティーベージュの髪の少女を見た。
シャフイザが無理をしていることは、当然夢兎も知っている。
夢兎の性格を考えれば、この状況で熱くならないわけがない。
こちらからは窺えないが、おそらく彼女の手は心の決意と共に固く握り締められているはずだ。
「……もう考えたって何もできないんだから。あとは、腹を括って信じるしかないわね」
そう言って表情を崩すと、しおりは高椅子の背にもたれかかり息をついた。
シャフイザの献身的なドライブによって、夢兎は望み得る最高のマシンセッティングを手にすることができた。
しかし、これで「表彰台登壇」が確実になったわけではない。
目標達成の成否は、夢兎のドライビングにかかっている。




