詩歌という女の子
それから、人間大のロボットが自室にいる奇妙な生活が始まった。
さすがRC社製というだけあって、シイカは様々な事が出来るようだった。食事の準備、掃除、洗濯。あらかたの家事はインプットされているが、唯一買い物だけは行えないと説明書にも記載されていた。
理由は、横田さんが言っていた「壊れやすい」という点だろう。
万が一転んだり、事故に巻き込まれでもすれば、彼女の体はあっけなく破損する。それはもしかしたら、人間より脆いと言えるのかもしれない。だから僕は、シイカをもっぱら放置していた。
もちろん〝彼女が壊れたら悲しいから〟なんて理由ではない。いずれ会社に返品する以上は、壊したくないからだった。
金もないのに、そんな肝が冷える事など、好きこのんでもしたくない。
シイカがやって来て、一週間が過ぎた。
「オトウチ様、この動物は何ですか?」
今日も彼女は、テレビに夢中だ。画面の中でヒョコヒョコと顔を出すミーアキャットの群れを、興味深げに見つめている。自分の中にある万能辞書で調べれば済むだろうに、何故わざわざ僕に訊いてくるのか。
「カバだよ」
悪戯心が湧いて、コンビニの卵サンドを咀嚼する合間にそう答える。
シイカはまた画面の方を向いた。
「カバ、ですか。可愛いですね」
思わず噴き出しそうになり、噴出しかけた卵を手のひらで抑える。
こいつ、ロボットのくせに嘘だと判断できないのか。
「そうだな」
無難な返答をし、慌てて手近にある緑茶で流し込んでから人心地つく。
どうにも面白くて、訊かれた質問にちぐはぐな回答をしているうちに、彼女は間違った知識ばかり身に付けていた。
さすがにやり過ぎかと思ったが、どうせ僕のもとにいるのは三か月だけだ。会社に戻される頃には、記憶も綺麗さっぱり消されている。だったら、少しばかり遊んでも許されるのではないか。
再びテレビ画面に視線を戻そうとしたところで、ふとシイカが僕の手元に視線をやっている事に気付いた。
「なに?」
「ピーマン、残しています」
近くのスーパーで買ってきた、照りのある豚肉が美味そうな、色とりどりの中華炒め。そのうちの緑色だけを意図的に避けていた事に気付いた彼女は、咎めるような視線を皿から僕に移した。
「ピーマンはビタミン類を多く含んでいる野菜で、特にビタミンCやカロテンが豊富です。苦み成分『クエルシトリン』には、高血圧の抑制や抗うつ作用があります。加えてこの時期はピーマンの旬ですので、美味しく食べられ」
「わかった、わかった」まるで口うるさい母親だ。
「食べるよ、食べれば良いんだろ」
容器の隅に寄せていた緑色をおもむろに箸で掴み、ペットボトルの底に残ったわずかな緑茶と共に、口内へと流し込む。それを見届けてから、シイカはにっこりと微笑んだ。
「健康は食生活から始まります。すべて、オトウチ様を想っての事ですので」
想っているなどと言われても、何ら嬉しくはない。
だって彼女の中に、心など無いのだから。
「……いただきました」
粗雑に手を合わせ、総菜の空パックとカップラーメンの容器を片付けようと立ち上がる。シイカは慌てて口にした。
「わたしがやります」
「いいよ。邪魔だから座ってて」
そう邪険にしたのは、何故だか腹立たしくなったからだ。
なにが悲しくて、ロボットなんぞと同棲生活もどきをしなければならないのか。一か月前には、本物の詩歌が此処にいて、僕の好きなオムライスを作ってくれていたのに。
僕が苦手なのを知っていて、チキンライスの中にグリンピースを入れないでくれる彼女が。
此処に、確かに居たのに。
***
「遊星と一緒に居るとさ。あたし、駄目になる気がするんだ」
詩歌は唐突に口にした。それは僕からしたらの話で、彼女からすれば、もう何日も前から口にする事を決断していたのだろう。そう察せるほど、彼女の両の瞳からは確固たる決意がにじみ出ていた。
「……どういう意味?」
辛うじて自身の口から漏れ出たのは、蚊の鳴くような情けない声。自分でも聞き取れないほどの声量だったが、しかし彼女の耳にはちゃんと届いていた。
「わかんない。でも、なんだろう。いつまでも大人になれない気がするの」
気持ちの齟齬がありながら、言葉だけはしっかりお互いへと染み込んでいた。
それはやがて、僕の心のシミとなった。
詩歌とは中学校からの友人で、幼馴染とでもいうのだろうか、そんな気さくな間柄だった。だから恋や愛への興味が膨れ上がる時期にその言葉を口にしたのも、幼馴染を相手にした、ただの気まぐれに過ぎなかったのだと思う。
「なあ、詩歌。ちょっと付き合ってみない?」
照れ隠しのせいでキザっぽい言い回しになってしまったのは、今からすれば黒歴史の一ページに刻まれるほどの失態だった。けれど、詩歌はとても嬉しそうに頷いてくれた。
心が通い合うとはどういう事なのか、それを人生で初めて実感した瞬間だった。
やがて中学・高校と関係は続き、晴れて卒業を迎えた。
詩歌は絵を描く仕事に就きたいと東京の専門学校へ行く事となり、上京し一人暮らしを始めた。僕はといえば、実家暮らしのフリーター。いくら貧乏で大学に行く資金が無いとはいえ、その差はもはや歴然といえた。
〝いつまでも大人になれない気がするの〟
それは、僕の事を暗に子供と例えているように思えた。
いくら図体がでかくなっても、歳を重ねてみても。僕はまだ、大人というものが分からない。
成人式を済ませ、二年、三年と経過した今でも。
詩歌を真似て、一人暮らしを始めてみても。
大人の定義など分からないまま、僕はまだ、子供の頃の皮を脱げないでいる。