楽な仕事
青い瞳が、ゆっくりと赤色に変わっていく。
それは、合図だった。彼女が「シイカ」でなく、まっさらな、何者でもないモノへと戻っていく合図。
そう、時間が戻るだけなのだ。彼女にとってあの時間は、無かったものになる。
元から分かっていた。
僕も承諾して、引き受けたはずだった。だというのに。
どうして、彼女の肩を掴んでいるのだろう。
どうして名を、呼び続けているのだろう。
赤い瞳がやがて何も映さない黒へと変わり、薄いまぶたが落ちていく。
数秒と経たない間、彼女との出逢いが、今の曇天とは比べ物にならないほど鮮やかに、蘇っていた。
***
「乙内。お前今、彼女いないんだっけ?」
不躾な問い掛けをした野島は、おもむろにライターを取り出すと咥えた煙草に火を点けようとした。
返事などする気も起きず、無言で壁際に貼られたポスターを指し示す。控えめに書かれた「全席禁煙」の文字を見た彼は、少しだけ嫌そうな顔をし、しぶしぶ煙草とライターを片付け始めた。ざまあみろだ。
「一か月前に東城と別れたばかりだよ。伝えたはずだけど」
コイツでも理解しやすいよう一言一言を噛み締めて口にすると、野島はさも今聞きましたといった風に、口元をだらしなく緩めた。
「あれ、そうだっけ? ごめんごめん」
まったく心のこもってない謝罪に、何度目かの嘆息をこぼす。
「……で。彼女でも紹介しようってのか?」
卓上の汗をかいたコップに手を伸ばし、なみなみと注がれた水道水をあおってから僕は続けた。
「悪いけど今、そんな気ないから」
「まーだ引き摺ってんのか、お前。女々しいねえ」
「健全と言え」
彼女と別れて一か月しないうちに切り替えられるほど、僕は恋愛上手じゃない。
そもそも慣れる日が来るほど、数を重ねている訳でもない。胸を張って言える事ではないが、今のところ、たった一回きりだ。
「そんなこと言うために呼び出したのか?」
嫌味を込めて言ってやると、野島は「違う違う」と首を振った。そして両肘をテーブルに乗せ、対面にいる僕へと顔を近付ける。香水でもつけているのか、少し甘みを残したシトラスの香りが動きに合わせ、ふわりと鼻腔をくすぐった。
学生時代からの友人に会うだけだというのに、わざわざ香水をつけ、洒落たジャケットを羽織るのはいかにも彼らしい。明るい茶色に染められた短髪はワックスでさりげなく立てられていて、寝ぐせが放置された黒髪にプリントTシャツ、カーキ色のゆるいチノパン姿の僕とは対照的だ。昔からそうだった。
「お前に、良い女を紹介してやるよ」
ただ、どれだけ恰好が洒落てようとも、この馬鹿さ加減だけはどうしようもない。
「……聞いてなかったみたいだな」
多少の怒りを込めて半眼で睨み付ける。てっきり先ほどのような反応が返ってくるものと思っていたが、予想に反し、彼は得意げに笑みを浮かべた。
「勿論ちゃんと聞いてたさ。お前に紹介したいのは、女は女でも、ロボットなんだ」
「ロボットぉ?」
思わぬ言葉に、素っ頓狂な声が漏れた。
自分でも驚くほどの声量に、空席が目立つ店内にいる客たちの視線が集まる。首をすくめてやり過ごし、僕は野島へ詰め寄った。
「何だそれ。恋愛下手な僕には、ラブドールがお似合いってことか?」
「相変わらず卑屈だな」
苦笑をこぼし、彼は座席の脇に置いていた鞄から冊子を取り出す。
それは、「愛情学習型ロボット KA‐1103‐01」と書かれた、一冊の説明書だった。
今やロボットは、未来の道具ではない。
店によってはすでに導入され、注文を聞くために忙しなく走り回っていたりするし、人型のロボットもちらほら街中に見掛けるようになってきた。
そういう人の形をしたロボットはアンドロイドというらしいが、ロボットとアンドロイドの違いなんて、正直僕にとってはどうでもいい。
ロボットは、ロボットだ。命令通りに動く機械でしかない。
学習能力があろうが、それは「心」などではない。
心というのは、感情だ。生き物の中でも人間しか持ち得ないという、特別なもの。だからロボットなんかに心なんてあるわけがなくて、その機械相手に恋だ愛だと囁くなど滑稽に過ぎる。
ラブドールタイプのアンドロイドがあることは知っているが、数十万出して機械を彼女役にあてがうなど、まっぴら御免だった。
「帰る」
「待て待て! 待てって!」野島は慌てて僕の裾を掴み、引き留めた。
「これは仕事なんだよ!」
「仕事?」
思わず動きが止まる。隙を突くように、彼は頷いた。
「そう、コイツは試作品なんだ。お前には三か月の間、コイツの〝彼氏〟になって貰いたい。前金で三万、期間が終わったらアンケートを書いて貰って、謝礼の二十万。つまり、賃金二十三万のアルバイトってわけだ」
大袈裟な手振りを加えて金額を強調する。
「……けど、お前は興味ないらしいし。仕方ないから他の人に回し……」
「やる」
考えるより先に、口が動いていた。
先日飲食店のアルバイトを辞めたばかりで、貯金を切り崩す生活が待っているのが大きかった。プライドでは食っていけない。
「そうこなくちゃ!」
彼は喜色満面になり、座席に座り直した。それに倣って席についたところで、ふと、取り返しのつかないことをしたような気分が湧き立ってくる。
野島のことはよく知っているつもりだ。友人相手に詐欺まがいのことを持ちかけてくるような奴でないのは、確かなはずだ。けれど彼は自他ともに認める馬鹿で、それゆえに周りに踊らされることもしばしばだった。本人にそのつもりが無くとも、そうなってしまっている場合もある。
「ずいぶん楽な仕事に思えるけど、変な会社が関係したりしてないよな?」
念のため問うと、野島はニヤリと口の端を歪めた。
「楽な仕事、ねえ。……果たして三か月後、同じ事が言えるかな」
「はぁ?」
言葉の意味が分からずにいると、テーブルに置かれた冊子がひっくり返される。裏面の中央には、ゴシック体で「株式会社 ロボティクス・コネクト」と記載されていた。
それは有名な名だった。巷に溢れるロボットやアンドロイドの多くがこの会社の製品であり、俗に「RC社製」と呼ばれている。高品質かつ低価格なので、詳しくない層にも好まれていて、僕のように無関心な人間でも知識として知っている程度には、名の知れた会社だ。
「どうしてこんな、有名な会社の仕事が舞い込んでくるんだ?」
いよいよ詐欺ではないかという疑いが胸の内に湧いてきた。コイツやっぱり、騙されているんじゃないのか。
しかし彼は薄笑いのままで、冊子の中に挟まっていた物を引っ張り出した。カードサイズの白い紙。名刺だ。
「俺の親戚が勤めてるんだよ。フリーの知り合いがいないか訊かれて、もしそういう人がいたら持ち掛けてくれないかって頼まれたんだ。だからほんと、変な仕事じゃない。ただの〝機械の動作確認〟だよ」
名刺には男性の名前と先ほどの社名、肩書き、それから癖のある字で連絡先が書かれていた。
「承諾したら、ここに連絡してくれ。お前の家に直接送るそうだから」
手書きの電話番号をトントンと指し示してから、野島はまた意味ありげな薄笑いを浮かべた。
「三か月後、お前がどんだけ男前になっているのか、楽しみだよ」
「な……」
「ビーフシチューですー。お熱いのでお気を付けくださーい」
空気を読まない間延びした口調で、女性店員が注文した食事を運んでくる。
引っ込んだ文句を再び吐き出せないまま、僕はしぶしぶ匙を取り、湯気の沸き立つ皿へと伸ばした。
***
その日の夜にたっぷりと悩み、名刺に書かれた番号に掛けたのは、翌日の昼だった。
三度目のコールが終わらないうちに聞こえてきたのは、渋い中年男性の声。
「どうも、貴弘の叔父の横田です。いつも甥がお世話になっています」
「ああ、いえ。こちらこそ」
人付き合いの苦手さを遺憾なく発揮しながら、緊張をほぐす為に手元の冊子――取り扱い説明書を捲る。
太字で「名前を付けてあげてください」と書かれた下には、名前をインプットする手順が、分かりやすいイラストと共に書き込まれていた。
「乙内……遊星くん、だっけ。どう? 仕事、受けてくれる?」
「あ、はい」
手順①から順番に目を通しながら、スマホを持ち変える。
「僕でよければ、ぜひ」
「それは良かった!」
安心した様子の声が、吐息の音と共に耳に響いた。
「アンドロイドを手元に置くことを躊躇する人が、まだ多くてね。『彼女として傍に置くなんて、世間の目が怖い』って何人も断られていたんだ。いざ送っても、突き返される事もあって……」
そこまで言ったところで、急に無言になった。
互いに姿が見えない状況でも、あからさまに「しまった」という空気が漂っていた。
「……いや、その。なんというか……、謝礼はちゃんと出るから」
濁しながら弱い部分につけ込む辺り、いわくつきであるのは間違いなさそうだ。
「分かってます。そういうのも諸々、承諾しています。三か月傍に置いて、その後アンケートを受ければいいんでしたよね?」
「そ、そうそう」息を吹き返したように、声の調子が戻った。
「動作がおかしい部分が無かったか、ちゃんと学習しているか。仕草が女性らしいものだったか。そういう質問に、答えてくれればいいだけだから。専門的なことは訊かれないし、肩ひじ張ることはないよ」
「分かりました」
答えながら、「あなたの情報を教えてあげてください」と書かれたページに目を移す。
誕生日、好きなもの、嫌いなもの。出身地、家族構成。あらかじめ手動で入力するとなると、ゆうに百項目を超えるらしい。苦行じみている。これが面倒な場合、二十ほどの項目を入力し、あとはその都度訊かれた事に答えればいいようだ。わざわざ前者を選ぶような人など、いるのだろうか。
「それじゃあ三日後ぐらいに、君の家にアンドロイドを送るから。前金は今日振り込んでおくよ」
「はい、ありがとうございます。えっと、住所は……」
振込先と番地を伝え、名刺は無くさないように冊子にクリップで留めておく。
「あ、そうそう」
唐突に、横田さんが慌てた声を上げた。
「伝えなきゃいけない事があったんだ。忘れてた」
「何ですか?」
「このアンドロイドは、あくまで寂しさを紛らわせたり、心を埋めたりする為の物でね。学習知能は他のものに比べて高いんだけど……半面、衝撃に弱いんだ。壊れやすいから、気を付けてあげて」
まるで人を預ける時のような言い方だと思った。物はいつか壊れるというのに、それを恐れているような。
まだ試作段階とはいえ相当なコストが掛かっているだろうから、それも納得がいくが。
「分かりました、気を付けます」
それから二言三言交わして、やっと通話終了ボタンを押す。
「…………はあっ」
大きな溜息が漏れた。なにか大仕事でもやり遂げたような気分だが、問題はこれからだ。
アンドロイドを三か月間、手元に置く。
それは別段興味もない僕にとっては荷物を預かる程度でしかないが、世間様はそうは思わない。異性の姿をした物を傍に置いている、それも等身大。見る者によっては、嫌悪を感じる光景だろう。
これで近所の人に「そういう趣味」だと思われては堪らない。周りの目に触れないよう、徹底的に隠さなければ。
「二十三万のためだ」
自分に言い聞かせ、壁に掛けられているカレンダーの三日後の日付に、黒ペンで「ロボット到着」と書き込む。
きっと愛好家は記念日として書くんだろうな、なんて。
自分の薄情さに内心自嘲しながら、そんなことを思った。