第四話 そして栄光の『日英同盟』へ
1900年8月14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。
その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。
冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。
武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。
北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。
柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。
明智は自分が感動のあまり、涙を流している事に気づく。
日本人で誇らしいと、おそらく初めて思った。
柴と唯が重なって見えた。
こんな高潔で、清い女は他に知らない。
柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。
柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。
その後、英国公使クロード・マクドナルドは、心酔する柴を追う様に、1900年10月に前任者のアーネスト・サトウとポストを交換して、北京から直接、駐日英国公使に赴任した。
そして、1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。
1902年1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として英国外務省において日本駐英公使・林董と英国外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で日英同盟が調印された。
1905年にマクドナルドは、初代駐日英国大使となり、1912年11月に外交官を引退するまでの長きにわたって日英関係に貢献した。
マクドナルドは、英国で北京籠城戦について講演で語る時、決まって柴中佐の人柄の素晴らしさ、優秀性を熱っぽく語ったという。
いわば英国が日本という国に、恋に落ちた結果が、日英同盟という形で実を結んだのだった。
そこで唯の小説は幕を閉じた。
唯、俺はお前にとっての、英国になりたい。
明智は心の奥底からそう願った。