第三話 北京籠城
1900年5月28日、義和団の暴徒が北京にほど近い張辛店駅を襲撃放火し電信設備を破壊した。
北京在住の欧米列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の港に停泊する欧米列強国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せ、日本も軍艦・愛宕からの25名の将兵が参加し多国籍軍となった。
6月4日、北京・天津間の鉄道が義和団に破壊され、北京の欧米列強外交団は万一の場合の脱出路を奪われた。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。
北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルあり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官が英国公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
日本代表は、柴五郎中佐で、柴は英語とフランス語に堪能で、防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
極東の小国とみなされている日本人が、いきなり議論をリードしては、欧米人の反発を招くということを十分に心得ていた柴は、自分の計画に合う意見については賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。
朝敵の汚名を着せられた、会津出身の柴は、仇敵、薩摩・長州の支配する日本で、身を立て生き抜く処世法を、身をもって体得していたのだろう。
人を立てつつ、自分の意図する結果にたどり着く、真の意味でクレバーな人物だ。
生まれた時から、強者側の人間だった明智には、身に着ける必要のなかったスキル、素直に偉大だと思った。
賢い唯は、柴と自分を重ねているのかもしれないと、明智は思った。
何も知らない様な顔をして、唯は自分たちを誘導しているのではと、ふと疑惑を抱いたのだ。
6月11日、日本公使館の杉山書記生が救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。
欧米列強外交団は、清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。
13日、公使館区域に5百人前後の義和団が襲いかかった。
大勢たむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、欧米列強国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接する清国人キリスト教徒の地域を襲った。一晩で惨殺された清国人キリスト教徒は千人を超えた。
15日、タイムズの特派員G・モリソンは英国公使マグドナルドを説き、20名の英国兵を率いて5百人余りの清国人キリスト教徒を救出してきた。
しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、清国事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。
粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。
柴が事情を話してかけあうと、清国人キリスト教徒収容を快諾した。
この粛親王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。
この事に気づいていた柴は清国人キリスト教徒たちを動員して保塁を築き始めた。
欧米人と違って、日本人の多くは清国語を話せたため、彼らは日本兵によく懐き、熱心に協力した。
また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。
6月19日、清国政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。
抗議に赴いたドイツ大使は、清国兵にいきなり銃撃され即死した。
20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。
暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。
最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリアとベルギーの公使館が放火され焼き払われた。
西正面と北正面を受け持っていた英国兵は、英国公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまい、北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。
少数の日本将兵と清国人キリスト教徒たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。
区域全体の総指揮官に推された英国公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する粛親王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。
粛親王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていた英国人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、粛親王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。
この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の清国人キリスト教徒たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。
この後、粛親王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。
平均睡眠時間は3~4時間。
大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。
総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。
イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、英国人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。
6月27日には、夜明けと共に粛親王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。
多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。
柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。
敵は20余りの死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。
英国公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。
粛親王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
粛親王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。
日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
我が英国水兵がこれにつづく。
しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
粛親王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。
アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ兵と英国兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。
そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
明智は心中で毒づく。
ただでさえ忙しい柴中佐に手間かけさせんなよ。
呼び出すんじゃなくてお前らが行けよと。
いつのまにか、明智は柴中佐に傾倒していた。
英国公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮な英国公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。
安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。
つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。
館内の敵を一掃すると、今度は英国兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、英国公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
戦略上の最重要地点である粛親王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。
日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。
救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。
総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。
籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。