3
それからまた、どれだけ経ったのか。上手く冒険者を襲う日々の中。その日、バチィ、と、白く弾けた雷光のようなものに進路を阻まれ、私は歯噛みした。
「今のうちに逃げるぞ!」
バタバタと逃げていく冒険者たち。私との間、足元に惜しげも無くばら撒かれた白い石は、聖属性の魔力を溜め込んだ魔石だ。相当高価なものだけれど、命には代えられない。使いどころをよくわかっている……油断した。
聖属性に滅法弱いこの体は不快な痺れに支配されているが、無理を押して冒険者に追いすがって二人は始末した。けれどその二人に逆に時間稼ぎをされたりもして、四人ほどの冒険者を逃してしまった。
「やらかした……」
私という異常個体のリッチの存在を確認した彼らは、すぐにギルドに報告するだろう。リッチは、準備の有無によって戦いやすさが大きく変わる。聖属性という、明確な弱点があるためだ。本当に、油断した。おそらくこいつらは、最初から異常個体の存在を疑って来ていたのだ。だから色々な準備をしていた。聖属性の魔石の持ち合わせもあったのだろう。
逃げなければならない。対リッチの装備に身を固めた討伐隊なんかが来たら、私は殺される。幸い、私は元冒険者だ。それも、信じられないほど明確に生前の記憶を残し、人格も確立したリッチ。冒険者ギルドのやり方は手に取るようにわかる。
現在の階層から急いで移動して、五階層も下に潜れば討伐隊は諦めるはずだ。ほとぼりが冷めるまでは身を潜めるしかない。
私は始末した二人の生命力と魔力を急いで根こそぎ奪い取ると、下層への階段に向かった。こんな時のために場所は前もって確認してあったから、スムーズだ。
階段にたどり着くと、その階段からはすごく不快な感じがした。耐えられないほどではないけれど、理由がなければ近付こうとは思えない。これが、ダンジョン内で魔物があまり階層を移動しない理由。でも私にはここを突破しなければならないたしかな理由があるから、不快感を振り切って階段を下った。
そのまま更に四回階段を降りて、元の階層より五階層分下層にやってきた。いかに異常個体とはいえ、この短期間で目撃階層から五つも下に潜っているなんてまず思わない。ここで人を襲ったりせずに息を潜めていれば、ギルドの損得計算的に、二週間もせずに討伐隊は引き上げる。一ヶ月も待てば完全に安泰だ。
ひっそりと時が過ぎるのを待とうとした私だったが、しばらくすると、どれだけの時間が経ったかを知るすべがないことに気付いた。
ダンジョン内では昼も夜もない。時計ももちろんないし、この身は眠気も空腹も疲労も感じない。
私はしばし考え、とあることを思い出してもう一階層ぶん下層へと降りた。
そこに広がっているのは……夢殺蛾の巣だ。
夢殺蛾は私を害せない。物理的にダメージを与えられない以上、彼らにあるのは鱗粉だけだ。鱗粉をあまり吸い込みすぎると中毒症状に陥るらしいが、実体すらもないこの身がそんな些細なことに煩わされるとも思えない。
……どうせただじっと時が過ぎるのを待つしかないのだ。ならば、眠ることができないこの身で、それでも夢を見ていたいと思うくらいはいいだろう。
私が巣に突撃すると、夢殺蛾たちは上へ下への大騒ぎとなった。鱗粉が舞っているのだろう、すぐに意識が朦朧としてくる。一切逆らわず、むしろ自分から意識を混濁させていく。
幻の中では、私の腕にはちゃんと肉がついて、白くて綺麗な玉の肌が張っている。それが嬉しい。
「セシリア!行けるか?」
魔物の猛攻をたった一人で防いでいた彼がちらりとこちらを見て聞いてくる。彼が時間を稼いでくれたから、こちらの魔法の準備が整った。いつでも撃てる旨を伝えると、彼が隙を見てこちらに離脱してくる。彼が射程外に逃れたのを確認して、私は大魔法を放った。紅蓮の炎の竜巻が視界を埋め尽くして、魔物の群れを巻き上げて屠っていく。
そうだ、この時は、あまりにも敵の魔物の数が多くて珍しく彼が苦戦するくらいやばかったんだ。
私の炎は、全ての魔物を一掃した。彼が準備時間を十分にくれたおかげだけれど、我ながら惚れ惚れする火力だった。
「……セシリア、よくやった。正直今回は……お前がいなかったらきつかったかもしれない」
そう、これが、初めてだった。いつも余裕を持って戦闘をこなしていた彼が、私を確かに必要とした、初めての戦い。この後ちょっと勇気を出して、大胆に……頭を撫でてくれと強請ったら、照れくさそうに目をそらしながらわしゃわしゃと撫でてくれたのだ。
そこでふと現実に返ると、薄暗くてジメジメしたダンジョンの中、私の近辺の夢殺蛾は全て遠くに逃げていた。
……時間の感覚がない。幻を見始めてから一時間と言われても一日と言われても納得できてしまう。
なんにしても、再度活動するにはもう少し時間を置いた方がいいだろう。私はもう一度、夢を見ることにした。
横たわる私の額に大きな手を乗せた彼が、眉間にシワを寄せる。
「……それは、本気か?」
この時の私は朦朧とした意識で、彼の不機嫌そうにも聞こえる声音に、本音を吐露してしまったことを後悔していた。
「別に、怒ってるわけじゃない。ただ……それは、本気なのか?」
確か私はうっかり魔物の毒を食らって、彼に迷惑をかけた挙句宿に運び込んでもらったのだ。そこで、弱っていた私は、ずっと考えていたことをつい彼に伝えた。……なにを、伝えたんだっけ。私にとってはとても大事なことだった気がするのだけれど。
「そう早死にさせるつもりはないが、一応、覚えておこう。……もしもそうなったなら、それくらいは、やってやる」
もやもやする。私は彼に何かを願ったのだ。そして彼は不本意そうにしながらも、渋々それを承諾した。彼は、冷たいふりをしているけど、本当は私に優しくて、甘いから。
早死にさせるつもりはない、と彼は言った。そうだ、願ったのは、望んだのは、私の死に関すること。たしか……。
「……リア。セシリア!セシリア!!!」
私を呼ぶ声に、ハッと意識が覚醒した。彼の声だ。次の夢が始まるらしい。
そう思って待ってみたけれど、よく見ると近くに夢殺蛾はいない。
「……え?」
私は夢から覚めたばかりの頭で、必死で状況を理解しようとあたりを見回す。
「セシリア!いないのか!」
……これは、この声は、幻じゃない。幻じゃ……ない?
「異常個体のリッチの目撃情報があった!お前じゃないのか!セシリア!」
ダンジョンで声なんて張り上げれば、魔物を集めてしまう。彼の声に混じって戦闘音が聞こえてくる。魔力を探ると、単騎の彼は寄ってくる魔物を切り刻みながら進んでいるようだ。
「いないのか!セシリア!」
「……っ」
うまく声が出なかった。そんなはずがないと思った。でも、けれど、やはりどんなに魔力と意識を研ぎ澄ませてみても、これは夢殺蛾の仕業じゃない。これ以上ないほど感覚を尖らせて尖らせて、それでも結果は変わらない。
彼は……死霊となった私を探しに来てくれたのだ。いくら彼が圧倒的に強いと言っても、危険なダンジョンの奥まで、たった一人で。この階層を探索しているということは、私にまだ多少の理性があると信じて、私の行動を読んでくれたということでもある。
「セシリア!」
今この瞬間に涙が出ないこの身が、いっそ不思議だった。もうわけがわからなくて、ここで全てが崩れて溶けてしまっても驚かないくらい、私は混乱して、歓喜している。
「あ……」
私は我が身を抱き締めた。
会いたい。今すぐにだって、何にももういらないから、彼のところに行って、そして。
見られたくない。私を見ないで。まだダメなの。こんなおぞましい姿の私をどうか、見ないで。
相反する思いに混乱した私は、半ば無意識に彼の声のする方へ進み出していた。私を見ないで、でもどうか、もう一度私をそばに置いて。
彼の声は少しずつ遠ざかりだしている。彼の魔力探知の精度は私より遥かに低いから、向こうはこちらを見つけられないのだ。
私は追いすがった。セシリア、と、何よりも嬉しい呼び声がする方に手を伸ばして、全身全霊で、彼の名を呼ぼう。
そして、そうして。彼の名を呼ぼうとして、私は、動けなくなった。
なんと呼べばいいのかわからない
私はその場でへたり込んだ。そんなはずはないのに、わからない。彼の名前が思い出せない。私の全てだったはずなのに、彼の名前が分からなかったら、私を、ここに存在するおぞましいリッチを、まだ私と呼ぶことができるのか。いやそんなはずはなくて、でも、わからない。
どれだけそうしていたのか、気付くともう彼はいなかった。次の階層に行ってしまったのか、いい加減諦めて帰ったのか。
いまここに存在する私がセシリアなのかも、もうわからない。
かつてセシリアと名乗っていた人間だったことは確かだ。今でも、死霊となってはいても、記憶と人格は保っていると、そう思っていた。でももしかしたら、気付かぬうちに壊れてセシリアとは別の何かになっているのかもしれない。何を忘れたのかもわからないけれど、彼の名前という、私の根幹を失くしているのだ。他の何を忘れていても不思議ではない。失くしたことも忘れたものが、きっとたくさんあるのだろう。
私は、彼が好きだと言ってくれた『セシリア』から、どれだけ離れてしまったのか。
「……でも、それでも、他に希望なんて、ない」
私が壊れていても、やることは変わらない。他に何もないから、やるしかない。生前の姿を手に入れて、彼の元へ行こう。
階層をこまめに変えながら、私はまた、獲物を探す。ずっとずっと長い間、それを続けた。




