瀬戸大輝 3
昼休みになり少年は昇降口まで来ていた。
しかしさすがに昼休みと言うだけあって騒がしく、子供たちがそれぞれ外履きに履き替え外に駆け出していく。故に少年が昇降口にいても彼らは何も気にせず通り過ぎていく。……昼休み云々を抜きにしても恐らく変わらないのだろうが。
結局昼休みになってもあの三人は来なかった。教師たちは彼らの親から引っ切り無しに来る電話に対応で追われて慌ただしくしていたが本当に何をしているのだろうか?寄り道にしては長すぎる。本当に何かの事故か事件に巻き込まれた?なのに連絡がないというのはどういうことだ?
……しかし考えて分かるものでもあるまい。少年は考えるのをやめた。
外履きに履き替え昇降口を出る。途中真琴が引き留めに来たが少年はそれを適当にあしらった。休み時間の度に来られてさすがにうんざりだったのだ。
昇降口を出て正門へ向かう。
すると門の前には黒塗りの高級車が、とは言っても少年はわからないが、とにかく高級車が停車していた。それのドアを開いて車内へ入る。
「……遅い。何をしていた」
少年が座席に腰かけると途端に運転席から低い声が響いた。
少年の父親だ。車内にあるミラー越しに少年を睨みつけている。
「……ごめんなさい」
彼はそう言って俯く少年を鼻で笑って車のエンジンをかけた。
車内は緊迫した様に静かだった。さすがは高級車と言うだけあってエンジン音がほとんどしない。それが余計に車内を静寂へと固定してしまう。
さすがにその雰囲気に耐えられなかった少年は口を開いた。
「……どこに行くの?」
「……」
しかし彼はそれに対しても何の返事もせず運転に集中していた。
ミラーで彼の顔を確認すると鬱陶しそうに顔をしかめていた。彼からすれば少年は目障り極まりない存在なのであろう。しかしだとすると何故呼び出しなどしたのだろうか?わざわざ声を聞いただけで顔をしかめてしまうような相手を呼び出す理由が分からない。家で何かあった?親戚の葬儀か何かだろうか?いやここ最近そのような話は出ていない。出ていたとしても少年は呼ばれないだろう。だとしたら何だろうか?まあそれもやはりあの男児たちの件同様分からないが。
それからもしばし車内は静寂に包まれたがしかし信号で停車して直ぐにそれは終わった。
救急車のサイレンが響いたのだ。
いや救急車だけではない。パトカーや消防車などのサイレンも少し距離があるようだが聞こえる。
何かあったのだろうか?その三つが揃うという事は相当な惨事という事か?
信号が変わったがその瞬間角を曲がって救急車が姿を現したため少年の父は小さく舌打ちをして気持ち車体を横にずらした。
すぐに救急車に合流するようにしてパトカーと消防車が見えてきた。それらが通り過ぎるまで当然他の車も動けず停車している。しかし消防車らが通り過ぎても車は動けなかった。すぐ近くに全て停車したからだ。更にはまた新たな救助車両達が道の先に現れたのも原因であろう。
なんてタイミングだと彼が小さくゴチる。少年はそれを気にせずガラスに顔を近付けて救急車たちが停車した場所に確認する。
どうやら路地の中で何かが起こったらしく車両から飛び出した救命隊員らがビルの隙間へ流れ込んでいた。
恐らく父も立ち往生させられている原因を知りたかったのであろう、少年が顔を寄せているガラスを降ろした。
瞬間場は騒然となった。
ビルの隙間からは救命隊員らの怒号が響く。慌てたように叫び合い行動を開始している。
その声に反応して野次馬たちがどんどん集まって来た。それを警官たちが煩わしそうに押しのけている。
隙間から光景を覗こうと少年は目を凝らす。
一人の隊員が何か黒いビニールのような物をマンホールと思われる場所から取り出し、一度地面に置いた。
場は一瞬唖然となったように静まり返る。が、次の瞬間には野次馬たちの悲鳴によってその静寂は打ち壊された。
隊員が置いたそのビニールらしき物。それが地面に触れた瞬間、なにやらどす黒い液体があふれ出したのだ。それを見た野次馬たちは悲鳴を上げて錯乱した。
あれは血だ。少年には何故か分からないがその確信があった。
少年から現場までそれなりに離れているがここまでその異臭が届きそうなほどその液体は血液然としていた。
「なっ……」
恐らく父もそれを見て驚愕したのだろう。運転席から身を乗り出している。
二人揃ってその液体をさらに観察しようと身を乗り出すが、しかし警官によってビルの隙間の入り口をシートで覆われてしまった。
「ちっ」
父は舌打ちをして運転席に体を戻した。
「何という事だ。巻き込まれたら適わん。もういいな?行くぞ」
我に返ったのか父はアクセルを踏んだ。
父の少年の意思を確認するようなセリフに一瞬少年は驚いたがしかしそれ以上に少年は愕然としていた。いや恐怖したと言ってもいいかも知れない。
少年は確かに見たのだ。あのビニールから血液が溢れるのと一緒に。
ビニールの口から人の手だと思われる物が飛び出していたのを。
そして加えてそれを見たと同時に真琴の顔を連想した自分自身に。
「……」
いや待て考えるな。それは考えてはいけない。それ以上は駄目だ。
少年は無理矢理思考を中断する。
そんなはずないのだ。ただの女の子一人があれをやったなどあり得ない。漫画ではないのだ。
少年は頭を振って悪い考えを振り払う。
所詮街角の出来事の一つに過ぎない。あの野次馬も、父も、少年自身も直ぐに忘れてしまうだろう。なら気にしても仕方ない。
少年はため息をついて頭を降ろした。
先ほどの出来事を誤魔化すために何か別の、例えば楽しい事を思い出そうとする。が、よく考えなくても分かるだろう。少年にそんな思い出などあるはずがない。そんな自分に少年は落胆した。
普通の子供であればテレビだとか漫画などで面白い出来事等は直ぐに出てくるだろうが少年はテレビは見ないし漫画も読まない。少年は根っからの文章派なのだ。
それでも何かないと頭を捻るが出てくるのはせいぜい真琴とのやり取りくらい。交友関係すらないというのか……
自分にはそこまで何もないのかと少年が自分を責めてて、というより半ば馬鹿にしていると車がいつの間にか停車していることに気付く。
信号待ちだろうかと思い顔を上げるが違うようだ。駐車場に停まっている。
辺りを見渡して困惑する少年に父が振り返り言葉を投げる。
「良いか?お前はここでは何もしなくていい。ただ私の傍に立っていればいいんだ。分かるな?話しかけられても答えるな。いいな」
言うだけ言うと彼は車から出る。それに習って少年も車を出ると巨大な建物が目に入った。
白く煌びやかな外見のその建物は如何にも高級然としていた。まさにお金持ち専用と言った感じの高層ビルディング。
それを見上げて少年は固まるがしかし父はそんな事をお構いなしにビル内に入っていく。
慌ててそれを追いかける。
「今から会うのは教育における全責任を担うと言っていいお方だ。本当はお前ではなく早苗を連れてきたかったがあいつは出来損ないだ。子供ではあるがお前の方がまだ優秀さで言えばマシだろう。私に恥をかかせるなよ」
エレベータに入った途端父がそう釘を刺してきた。
なるほど。つまり接待のような物のマスコット役として少年は呼ばれた訳だ。マスコットと言うよりも引き立て役か。
早苗とは少年の歳の離れた姉だ。既に成人しており教職についているが父からしたらそれでもまだ足りないのだろう。
「……わかった」
少年が小さく頷くと父は小さく鼻で笑った。
少年を連れてくるのは本当に不本意のようだ。だとしたら一つ上の兄はどうだろうか?確かに学業における成績は家族内で最も下ではあるがそれでも一般生徒と比べるとかなりの上位であろう。それに少年にはない人懐っこさ、社交性がある。なら彼の方が適任のはずである。
それが表情に出ていたのだろう。父が口を開く。
「ああ翔太か。あいつは駄目だ。確かにこういう場では適しているだろうが県営テストがあってな。さすがに早退させるわけにもいかなかったんだ」
なるほど。そういうことか。
一番上の兄は県外に出ている。であればここに少年が呼ばれたとはあくまで消去法の末と言う訳か。なら先ほども父がそう言っていたようにそんな方法で選ばれた少年に何かをさせようとはしないだろう。ひとまずは安心、と言った所か。
エレベータが止まり扉が開く。
そして父が先に出て目の前の扉に入っていく。
再びそれを慌てて追いかけると少年は息を飲んだ。
まず認識したのは目に刺さるような眩しさだった。
壁全体が光を拡散させる性質を持つ白一色であるため天井の煌びやかなシャンデリアの明かりをより一層光らせる。
そして次に人だ。
若い者や高齢の者、年齢層はバラバラだがスーツやドレスを着こんだ大人たちがグラスを片手に談笑し合っている。
恐らく父の仕事動揺全員が教職、教育関連の職業についている者たちだろう。それもこんな所にいるくらいだからかなりの実力者たち。
さすがに少年も緊張してしまった。
父から離れまいと速足で付いていく。父の向いてる方を見れば初老の白髪の男が見える。その男の回りにはそれぞれ礼装した者たちが群がっている。その群れの中に父も入っていく。
「お久しぶりです勝俣さん。先日はお世話になりました」
父が男に話しかけると男は振り返り小さく笑顔を作った。
「おお瀬戸さん。久しぶりですな。どうですか調子は」
「お陰様で上々です。これも全て勝俣さんの手腕の成せた技、心より感謝を」
「いやいやあなたが動いたからこその結果だ。私はきっかけを提示したに過ぎませんよ」
二人は何やらわからないがお互いを持ち上げ合っている。
少年はさすがについていけず首を傾げる。するとそれに気付いたのか男、勝俣が腰を落として少年に話しかける
「こんにちは。お名前は?」
「え、えっと」
少年は困惑して父に助けを求めるように視線を向ける。しかし父は顎で合図をするだけ。恐らく答えろと言う意味なのだろうがしかし「話しかけられても答えるな」と言われていたのでさらに少年は困惑してしまった。
「……瀬戸、大輝です」
とりあえず問題にならないように短くそう発して顔を伏せた。
それに満足したのか勝俣は続けて少年に話題を投げた。
「学校帰りかい?お勉強の調子はどうだい?」
さすがにこれに答えていいものか判断しかねたため再び少年は父の顔を見る。父はため息をついて口を開いた。
「勝俣さんに是非この子と御会いして貰いたく学校は早退させました。先日M大学の過去模試を実施させましたがB判定でした」
「ほう!この年でB判定とは!……ではこの子が今噂の神童という事か。将来が楽しみですな!」
「ええ全く」
父たちは二人で笑い合っている。
勝俣はそうしながらも少年の頭を優しく撫でた。それを少しくすぐったく思いながらも少年はされるがままだった。しかしそこで振り払ってしまえば良かったのかもしれない。勝俣が少年の両脇に手を入れて少年を持ち上げたからだ。しかしそこでも子ども扱いされていることに少々思う所はあれど抵抗もせずされるがままだった。それが悪かったのかもしれない。
「最初から思っていたが君は年の割には小柄だね。まるで女の子だ。嫌に軽いし顔色も悪い。……ご飯はちゃんと食べているかい?」
勝俣が心配そうに顔を覗き込んでくる。その目は本当に少年を思っているかのようだった。
初対面の人間相手にここまで自分の心を向ける事が出来る人間を初めて見た少年は少し困惑した。さすがは教育者と言った所か。
しかしそこからが問題だった。少年の体重の軽いさを不思議に思った勝俣が少年を一層高く持ち上げた時、少年のシャツが勝俣の手に引かれるようにしてずれたのだ。
シャツがずれて露わになった腹部は痩せ細り浮き彫りになった肋骨。そして一面に見える大量の痣。
慌てて少年はシャツを戻したがしかし勝俣はそれを見逃さなかった。
勝俣はニコリと優しい笑みを浮かべると少年を降ろした。そして父の方に向き直った。その顔を見て父は愕然としている。
勝俣の顔を憤然を露わにしていたからだ。
怒り狂い眉を痙攣させた顔で父を睨みつけている。
「瀬戸さん。これはどういうことですかな?説明、あるいは釈明を」
「そ、それは!この子が勝手に転んで出来た物であって!」
「であればこの子の体は何です?何故あそこまで軽い。あばらも出ているし顔色も悪い。明らかに栄養失調の症状だ。これはどう説明するというのですか?……言いたくないがあなたこの子に虐待を」
「とんでもない!そんなことを私がするとでも!?心外です!」
父は顔を赤くして反論する。しかしそんな父の言葉になど耳を貸さずに勝俣はため息をついてから少年に笑顔を向ける。
「ごめんね大輝君。おじさんはちょっとお父さんとお話があるからね。ここで少しだけお留守番できるかな?迷子にならないようにね」
「……は、はい」
少年が返事をすると勝俣は少年の頭を撫でて背を向けて歩き出した。父もそれに続いた。
一瞬だけこちらを振り向いた父の顔は怒りの形相で少年を睨みつけた。
そして少年は取り残され成す術もなく立ち尽くした。
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「ええいクソ!何故私がこんな目に!」
約一時間程して戻って来た父に手を引かれ少年は無理矢理車に戻らされる。今は息を荒げた父によりとても安全とは言えない運転により帰路についている。
「……ごめんなさいお父さん。僕が」
「お前は黙っていろ!」
「っ」
少年の謝罪を遮って父は激昂する。
そもそも少年が謝る事でもない気がするがしかし二人はそんな事は考えもしなければ思いつきもしないのであろう。
「ああもうお終いだ……なんで私がこんな目に……」
何やら父がブツブツと言葉を漏らしだし少年はそれ以降口を開けなくなった。
終始父はブツブツと言葉を唱え、それに何も言えない少年は俯くしかないという時間が流れた。
しばしそれが続き、最後まで父がどこかに切迫した声で電話をしていた以外の出来事もなく時間は過ぎていった。
帰路の途中であのビニール袋の件の現場を通り過ぎたが未だに警官や消防などが慌ただしく動いていた。いったいあそこで何があったというのだろうか?警察、救急、消防。それら三つが揃うと言ったら相当な出来事であろう。マンホールから取り出されたビニール。そこからあふれ出た血液と思われる液体。何よりビニールの口から飛び出た人の腕。誰が考えても事件だ。
しかし疑問を覚える。
この町はそれなりの人口を有している。確かにビルは数多く立ち並んでいるが人目がない程狭くはない。人目がない程の狭さになるとそもそも人の出入りもままならないのだ。だとすればあの場所での犯行はかなりの難易度を誇るだろう。
いや殺すこと自体は恐らくタイミングを考慮すれば出来ないでもないだろう。だがビニールから出たあの腕。あのビニール袋のサイズは恐らく一般で使われているゴミ袋と同サイズ。それではいくら子供であっても綺麗に納めることは不可能だろう。バラバラにでもしない限り。
もし人一人バラバラにするとしたら恐らく5分10分で出来る芸当ではなかろう。これはあくまで推測の域を出ないがもしあのビニールの中身が最後まで学校に来なったあの男児3人だったなら。そうだとしたら恐らく一時間単位は要する。あの現場での犯行は現実的に不可能だ。
なら他所で殺し、死体をバラしてからあそこへ?何のために。どの道ビニールに入れるとしたら石でも一緒に詰めて海に放ればかなりの確率で発見されずに済むだろう。それなのにそうしなかった。それが出来ない理由があった?あそこで殺す、いや死体を隠さなければならない理由が?人を殺すその後に用事を入れるような人間がいるのか?それをもう病気の域だろう。正気の沙汰ではない。
もしあそこでしか殺せず、加えて他所に死体を運ぶ時間がなかったのだとしても、相当の怪力と人手が必要になる。あるいは技術か。人にも見つからず、それでいて時間もかけない方法。そんなものがあるのだろうか?出来るとしたら本当に一瞬。文字通り一瞬でないと不可能だ。人間の成せる技ではない。
恐らく警察はこの事件を解決することは不可能だろう。現実的に不可能なのだから。
故に少年が考えても仕方がないのだ。少年は思考を停止する。
「?」
ふいと顔を上げると少年は首を傾げた。
ここはどこだ?
先ほどまで街中にいたはずだ。それが今は森林、というか山中にいる。道路に舗装は施されてこそいるが暗いく手入れなど誰もするはずもない木々が道に枝を広げていた。しかし父はそれを気にせず道を進んでいき、枝がぶつかった車からは嫌な音が響く。
車内の電子時計を確認すると6時前。この時間にこんな山の中に入るなどどういうことなのだろうか?
この山中、あるいは超えた先に親戚の家でもあっただろうか?
……いやなかったはずだ。だとしたらいったい何事なのだ。
考えている内に車は進んでいく。その道はどんどん暗くなっていき電灯の数がみるみる減っていき、次第に無くなった。
車のライト以外に明かりがなくなり少年は不安に陥る。
子供は往々にして暗闇に恐怖するものだ。いくら「普通」の家庭にいない少年であってもそれは他の子供と同じ出会って不思議でない。
「ん」
車は勢いよく道を折れた。
何かわからないが施設の門を通ったようだ。
しかしそこも明かりは点いておらず如何にも廃墟然としていた。
しばし進むと車は駐車場らしき場所に停車した。
玄間の窓から見ればそこにはもう一台車が止まっている。その車には見覚えがあった。確か少年の母が使用していた車だったはずだ。何故ここに?
父が車を降りたのを確認し少年もドアを開く。すると恐らくホテルだと思われる建物が目に入る。しかしそれは明らかに営業はしておらず草木に好き勝手に巻かれ朽ちていた。
少年は聞いたことがあった。ここは街中、特に子供たちの間で有名な心霊スポットだ。夜な夜な女のうめき声や子供のはしゃぎ声が響くと聞く。中には姿を見たという話もあるらしい。
そんな場所に一体何故……
「来い!」
父は困惑する少年の手を引き無理矢理歩き出した。どうやら廃ホテル内に這入ろうとしているようだ。
母の物と思われる車に動きがない所を見ると既に中にいるのか。それとも別のところにいるのか。
しかし考える暇もなく父は少年を無理矢理建物内に引き込んだ。
中は暗闇の一言に尽きた。電球や蛍光灯は全て砕け、窓周辺には蔦が張っているため月明りすらままならない。父は携帯電話の明かりを頼りに道を進む。その道もひび割れがひどく、凹みや盛り上がりが多い。気を付けなければ直ぐに躓いてしまうだろう。
そんな道を少年は父に手を引かれて進む。どんどん奥に入るようだがここに何があるというのだろうか?心霊スポットと言うだけあって長く人が踏み入った形跡がない。であれば何かがあったとしてそれが物体として保てているか疑問であるが。
しばし進むと広い場所に出た。
そこは他よりも腐朽が進み柱がむき出しになっていた。と言うよりも元々からそうだったのか?もしかしたら室内駐車場のような所なのかもしれない。
そこに少年の母親、そして一つ上の兄がいた。
「……兄ちゃん?」
少年は首を傾げる。
何故ここに兄がいる?いやそもそも兄だけに止まらず何故ここに少年は連れてこられた?今までどこか、例えば旅行や、果ては親族の葬儀にすら連れて行かれたことのない少年には家族が全員でこそないがここまで揃った外出は初めてだった。故に少年の中は疑念で溢れていた。その疑念を少しでも解消するために家族のやり取りを見て、聞くことに徹した。
「仕事がなくなったってどういう事よ!」
「さっき言っただろ!あいつの事がばれたんだ!それも勝俣さんに!」
「勝俣……?そんな……」
「もうお終いだ……この年で再就職は無理だ。これからどうやって生活すればいい!」
「私に言われても困るわ!そもそもあなたの方があの子に足して手を出した数は多かったわ!どうする気なのよ!」
「はあ!?回数なんて今関係ないだろう!そんな場合じゃないんだ!」
「じゃあどういう事よ!あなたが職を無くすってことは私もそうなるじゃない!翔太もいるのよ!どうするのよ!」
「だから私に聞くな!」
……
なるほど。あの勝俣と言う男に少年の体、痣を見られたことにより父は、いや両親は職を負われたらしい。そして今はその責任の押し付け合いをしていると。……どこまでも下衆のようだ。
しかし職を負われるほどあの勝俣と言う男はそれ程の権力を持つという事か。一日にして両親を最悪にまで貶めた張本人。それは世間一般で言えば不当な扱いを受ける少年を救った人間だろう。しかし加害者からするとむしろ自分たちが被害者だと認識するだろう。少年のようなケースの加害者は自分達のしていることがそこまでの事ではないと認識している場合がそれなりの確率で存在するのだ。恐らく少年の両親たちがそれだろう。でなければここで責任逃れのような発言は出てこないだろう。
それからも両親たちはお互いを攻め合うような言い合いを続けている。子供の前でする会話ではない。少年の兄も状況が呑み込めず困惑した表情を浮かべている。当然だ。いくら両親が職を無くしたとはいえそれがどのような結果をもたらすかなど理解できない。どれだけ優秀であったとしても子供には何より経験が少ない。人生の時間があまりにも短い。それで全てを全てにその通りに理解できる子供など存在すること自体がそもそも危うい。理解できてしまう環境に子供がいること自体が問題なのだ。そこにいる子供、どころか大人たちもがそれを異常だとは気付かない。それが「普通」だと誤認してしまうのだ。
故に彼らはそれからも誤認し続ける。加害者が被害者に報復するしようと画策する例はかなりあるがそれでもこれは度が過ぎるだろう。そう思えるほどの発言を彼はすることになる。
「そう。全てこの子のせいなのね……」
「そうだ。……こいつがあの男に体を見られさえしなければこんな事にはならなかったんだ!」
「そうね。少し、罰を与えなければね……」
「ああ……」
両親はそんな常識では考えられない事を言いながら少年を振り返った。
「え……?お父さん?お母さん?」
「お前が悪い。お前が悪いんだぞ……」
「そうよ?大輝。だから少しだけいつもみたいに罰を与えなければね。これは教育なの。わかるわね?」
両親は言いながら少年に近づいてくる。少年もそれに圧迫されるようにして後退る。
「どこに行くと言うんだ?お前が悪いんだぞ?」
「そうよ?あなたが悪いのだから罰を受けて当然でしょ?さあこっちに来なさい」
「で、でもお父さん。お母さん僕は」
「うるさい!」
少年が何かを言おうと口を開いたがそれは叶わなかった。短く走って勢いをつけた父によって蹴り飛ばされたからだ。
少年の軽い体はそれであっけなく宙を飛んだ。
「がっ!」
少年はそのまま柱に叩きつけられ地面に蹲る。腹と背中両方からの激痛により少年の感覚が狂う。痛みがどこから発せられているのかわからなくなる。そして凄まじい嘔吐感。給食で胃に入れたものが食堂を駆け上がってくるのが分かった。
「あ!……おえ!おえええええ!」
ついには少年の口から吐瀉物が溢れ地面を濡らした。胃が空になるまで吐瀉物は溢れ続けた。それでもなお嘔吐感は消えず、もちろん腹と背中の激痛もなくなってはくれない。
しかし両親はそんな事はお構いなしに少年に歩み寄った。
「こんなものではお前の罰は終わらないぞ?わかってるよな!」
言いながら父は少年の首を握り締めて柱に叩きつけた。そのまま両手で少年の首を絞める。
「あ、お!」
父は腕に力を籠め、その結果少年の気道は空気を通さなくなる。窒息により少年の体一瞬で力を失う。ただでさえ大人と子供。それだけでなく栄養失調による筋力低下。加えて先ほどの激痛による集中力の錯乱。少年に抵抗する術などなかった。
意識が急速に遠のいて行く。
「お前が悪い。お前が悪い。お前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が悪いんだ!」
父はまるで呪詛のようにそう唱えた。その顔は笑っていた。
「ぐっ」
母の方を見る。彼女は罰を与えると言っていた。今行われている事が度を過ぎている事を理解してくれていることを願い懇願するように母を見る。
しかしその顔も笑っていた。
兄の方を見る。
「あっ」
瞬間少年は絶望する。
両親と同じく笑っていたのだ。
先ほどの困惑した表情とは打って変わりその顔には笑みを張り付けていた。
いつも少年が両親からの暴行に耐えた後どうしてもの時は助けると言っていた彼。今がそのどうしてもの時ではないのか?なのになぜ笑っている?何故助けてくれない?どうして?わからない。訳が分からない。
もう一度父を見る。母を見る。
全てが笑っていた。まるで何かから解放されるかのように。それを心から喜び、つい顔に出てしまったかのように。
「兄…ちゃ……」
少年は最後の希望に、裏切られてなおそれでも最後の希望であると兄に最後の力を振り絞って手を伸ばした。
しかし兄はその手に向かって手を差し伸べてはくれなかった。どころか更に笑顔を広げたのだ。
まるで、自分に降りかかっていた悩みの種が消える瞬間を眺めるように。いやそんな物ではない。もっと軽い物のように感じる。例えば重い荷物を降ろしたような。例えば溜まった課題を処理しきったような。そんなどうでもいいものが終わった時のようなそんな顔。
少年は思った。
ああこんな物かと。自分と言う存在はそんな程度にしか思われていなかったのかと。
何も悪くない。間違えすら起こしていない。なのに自分が不当に扱われるこの世界とは何なのか?間違いに塗れ、責を人に押し付けることで、そしてそれを消すことで自分たちの罪すら消そうとする両親たちのその行いに。世界に。愕然とした。
少年の心に絶望が広がった。
黒く深い闇のような絶望が少年を侵食していく。
そこで少年の意識は途絶えた。
これが少年が「ただの少年」でいれた最後の瞬間になる。