瀬戸大輝 2
少年と真琴は書籍区画に移動し本を読む。
そこには会話も接触もない。
数十センチ離れて床に座り、それぞれ本のページに記された文字列をただ脳内に入れていくだけの時間。
しかし二人は気まずさなどは感じている様子もない。ただお互いがお互いに近くにいる事だけで満足しているかのようだ。
人との接触を避けている少年にしては珍しい。
いや少年だけでなくその周囲の人間も少年を避けている傾向もあるのだから少年に難があるような表現は悪いか。
向こうが避けているだけならまだよかったのかもしれないが。
「……」
「……」
変わらず二人は無言で本を読んでいく。
時計の針が動く音のみが響くその空間で、しかし少年たちはそれすら耳に入っていない。
そもそも他の子供たちの謙遜を他所で鳴っているはずだがやはりそれも意識の外なのだろう。
このままであれば恐らく二人は何時間も、いや数日でだって本を読み続けていたであろう。それほど二人は集中し、またこの瞬間瞬間を心地よいと感じているのだ。
だがそれは少年の腹の音によって中断せしめられた。
「……」
無理もない。
少年が最後に食事を摂ったのは昨日の学校での給食だ。水道の水を何杯飲んだところでそれはカウントに入れるのは難しい。子供にそれでは到底エネルギーは足りないだろう。腹の音が鳴っても責められまい。
それに反応して真琴が少年の顔を見る。しかし少年は気にせず読書を続ける。
少年にとっては腹が鳴ることくらいは気にするほどの事ではないのだ。さすがに今朝のような空腹による痛みなら何かを腹に入れてそれを誤魔化さば良いだけ。ただの空腹感など意識せずにいれば済む話だと、そう思っている。
すると真琴は無視して読書を続ける少年にニコリと笑うと上着のポケットをまさぐり出した。
「ん」
真琴はポケットから取り出した物を両手で少年の顔に押し付ける。
しかし少年は変わらず無視をする。その反応を無視して真琴も物を押し付け続ける。
それがしばしの間続いた。
さすがに鬱陶しく思い少年は真琴を振り返る。
「……なに」
「ん」
問うと真琴は再び物を顔に押し付けてくる。
何だと思い見ると菓子パンと野菜ジュースだった。
少年の頭の中で疑問符が大量にあふれる。
パン。野菜ジュース。顔に押し付け。
……ああ嫌がらせ。
少年がそこまで考えた所で真琴がそれらを少年に投げてくる。それを本で受け止め、しかしやはり少年には真琴の意図が理解できず真琴の顔を凝視する。
「ごめん。嫌がらせだとしても微妙過ぎてよくわかんない。内容言ってくんない?」
「嫌がらせ、内容言うやつ、いない。嫌がらせ、違う、あげる」
そこまで言われても少年は理解できず投げつけられたパンと野菜ジュースを見つめる。
嫌がらせではない。あげる、つまりくれるという事。は?
と少年は特段難しい事でもない事なのに人類史上最難関のように熟考する。
一般的な子供であればすぐに理解し、それを受け取るのだろうが他人から何かしらの善意を向けられたことがあまりに少ない少年にはそれが出来なかった。
パンらを見つめたまま首を傾げる少年に痺れを切らしたのか真琴はパンを奪い取りその袋を開ける。それを見て少年はやはり嫌がらせかと考える。しかし真琴を袋を開けて半分だけ中身を出したそれを少年の顔に近付けてきた。
「顔色、悪い。前と同じ、ご飯食べて、ないだろ。お腹減る、辛い」
真琴は困惑する少年を真っすぐに見つめる。その目は純粋に少年を心配していた。
初めて人から真っ直ぐな善意を向けられ少年はなお困惑する。
なかなかパンを受け取ろうとしない少年に真琴はズイっと顔を近付ける。
いくら人と接触を避ける少年であってもやはり子供。そんなことをされてはドギマギもするという物。少年は真琴から顔を逸らした。その顔は少しだけ赤かった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
少年がパンを受け取ると真琴はニコリと笑い、そのまま少年を見つめ続ける。
居心地は悪いがしかし菓子パンは美味しい。二日間絶食で過ごすつもりでいた少年からしたら相乗効果の様なもので更に美味しく感じているのかもしれない。二日の地獄の合間にパン一つとは言え食料が手に入るというのは不幸中の幸いである。
「飲む、野菜ジュース」
少年がパンを半分ほど食べた所で真琴がストローを刺した野菜ジュースを勢いよく差し出してくる。
「いやこぼれてるんだけど……」
「シット!」
少年の顔に飛び散った飛沫を真琴は袖で拭こうと手を伸ばしてくる。
それを制してシャツでふき取ってから野菜ジュースを受け取った。
真琴は体制を戻しながら口を開く。
「お父さん、お母さん、と、仲、悪い?」
「……」
それは少年にしてはいけない質問の中でもかなりの上位に入るだろう。
親との不仲を知られたくない、と言うのが理由ではない。そもそも自分と両親とが仲が良い悪いの判断をしかねているのだ。それは他の家庭との絶対と言える壁があるからだ。いくら学校が同じで、教室も同じで、家も隣同士だったとしても、お互いの家庭事情や家庭基準を全て把握している所などないだろう。
故に少年は自分と両親が不仲だとは思っていない。いや気付いていないと言えるか。他の例を知らないのだから。異常かどうかを判断するには「普遍」という物と比較する必要がある。しかし子供にそんなことが分からる訳もないのだ。
案の定少年は小さく「別に」とだけ返した。それを聞いた真琴も「そうか」とだけ発した。
少年を心配そうに見つめる真琴。その視線から逃げるように顔を降ろす少年。
場に再び沈黙が訪れる。
先ほどとは違いお互いが気まずい雰囲気を出している。
「お母さんと仲悪いんだ、私も」
「?」
気まずさに耐えられなかったのか真琴が急にそう発した。
しかし少年はそれを聞いても納得できなかった。
私もと言ったか?自分は別にと言ったはずだ。別にそんなことないという意味だったが通じなかったのか?それとも真琴が日本語を間違えてる?だとすればその表現も理解できるが……
「僕は別に仲悪くないよ」
少年がそう言っても真琴は変わらず小さく微笑んで見つめ返してくる。
まるで全てをわかっているかのように。
真琴は少年を見つめたまま言葉を紡ぐ。
「毎日、よくわからない稽古、とか。学校より難しい、勉強とか、いっぱいさせられる。失敗すると、いっぱい叩かれる」
「……」
真琴は続ける。
「だから、私、お母さんが、嫌い。きっと、お母さんも私、嫌い。それと、お父さんも」
真琴は顔を一瞬だけ顔を降ろし、しかしまた上げる。
「だから、一緒」
その顔は笑っていた。少年を安心させるように。
お前だけじゃない。自分も同じだ。一人じゃない。そういわれている気がした。
だから少年も魔が差したのだろう。口を開いてしまった。
「僕もそうかも。僕が悪いことしたからなんだろうけどいつも無視される。ご飯も前は作ってくれてたけど今は……。だから学校の給食でいつも我慢してる。叩かれたりしないだけ君よりいいのかもしれないけど」
少年は一度言葉を区切って息を飲む。
そんな少年を真琴は優しく見つめる。
「多分僕は、いらない子だ」
そう言うとぽつりと少年の瞳から涙があふれた。
その雫は頬を伝っ少年が握る本に落ち、染みを作っていく。
少年は泣きながら、しかし表情は変えずどんよりとしたまま続ける。
「僕は前はいっぱい応援されてた。だから勉強も頑張った。テストでも満点取った。先生にもいっぱい褒められた。お父さんもお母さんも最初は褒めてくれた。でもお父さんお母さんはどんどん僕を避けるようになった。学校に行っても僕が先生を独り占めしてるって虐められる。そんなつもりないのに。……僕に居場所なんてない」
少年はついに顔を伏せた。
当然だ。大人からは過度の期待を寄せられ、それを良しと出来なかった子供達には暴力を受ける。しかし帰るべき家では存在すら認識されていないかのような扱いを受ける。
そんな生活をただの子供が耐えられるわけがないのだ。
むしろ今までよく我慢してこれたと褒められてしかるべきだろう。しかし褒めるような者たちは少年の現状にそもそも気づいてもいない。
少年に救いはないのだ。
どこまでも。いつまでも。
逃げ場もなく泣き咽ぶ少年を真琴は優しく抱きしめる。
「大丈夫。一緒一緒」
一人じゃないと言うように。私がいるというように。
「私が、守る、から」
そう言って真琴は強く少年を抱きしめる。
きっと彼女は心からそう思っていたのであろう。しかし少年はもちろんそれを嬉しいと思う反面、やはりどこか信じられない気持ちもあった。
しつこいようだが少年はそう思わざるを得ない生活を強いられていたのだ。
「……」
少年は真琴を小さく押し返して離れさせる。
「どうした?気分、悪い?」
「あ、いやそうじゃなくて」
戸惑う少年に真琴は小さく首を傾げる。
その仕草に少年は少しドキッとして顔を赤らめた。
「その、ありがとう……」
そう言うと真琴は明るく笑んだ。
少年の口からそんな言葉が出ると思わなかったのだろう。少年も同様だ。まさか自分の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
故に酷い後悔の念と羞恥心が胸中を駆け巡った。
しかしその心根も真琴が再び抱き着いてきたことに寄って消え失せる。
真琴は少年の耳元で囁く。
「私が守るから」
再び少年の頬には涙が伝う。
真琴はそんな少年が落ち着くまでずっと抱きしめ続けた。
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少年はランドセルを背負って道を歩く。
真琴に全てを打ち明けてから早くも一年が経とうとしている。
時の流れという物は全ての者に平等なのだろう。少年のこの一年はしかし何の変化もなかった。変わらず両親からは存在すら無視するかのような扱いを受けるし学校でも同級生からは虐められていた。
いや、両親に変化はあったか。
それでも少年はこの一年を生き延びた。
どれだけ惨めな思いをしようと。どれだけ空腹に苦しもうと、日々は何事もないかのように過ぎていった。
残酷なようでもあるがしかし幸いとも言えるものだった。
少年は道を歩く。
少年は変わらず勉学に励み、才覚を露わにしていった。
好奇心ゆえの才でもあるだろうがしかし異常過ぎた。
既に成人し職に就いている姉や兄の参考書を理解し、更にはそこから編み出した物を文に起こせるまでになっていった。
故に少年と両親はぶつかった。
お互いの知識、理念、思考。あらゆる物の相違から激突し、しかし全て少年が打ち勝った。
少年の才は日を重ねるごとに純度を増していった。
それはつまり少年への両親の扱いが更に酷いものに変わった事を意味していた。
以前はまるで少年などいないかのような扱いだった物が今では存在をはっきりと認識するようになっていた。
敵として。
衝突が起こる度に、いや少年に言い負かされる度に両親揃って少年に暴行を行った。
外に気取られるのも恐れたのか腹部の身にその暴行は集中していた。空腹でまともに力が入らない少年からしたら地獄でしかなかった。いや空腹云々関係なしに大の大人から受ける暴力に対抗する手段のない子供にはそれが少年でなかろうと地獄だろう。
しかし少年には小さな希望があった。それは一つ上の兄の存在だ。
彼は暴行されて倒れている少年に「本当にどうしてもの時は俺が助けるからね」と告げたのだ。
故に少年は待ち続けた。その「どうしてもな時」を。まだか、まだかと。
だが最近ではその暴行で内臓を痛めたのか学校の給食を食べても直ぐに吐くようになってしまった。
それは少年からしたら文字通り死活問題だ。
学校以外の食の当てはない。しかしその学校給食での食事でもすぐに戻してしまう。
早く傷が治ってくれることを願っても栄養が足りていないのだから傷が塞がるのも遅い。板挟み状態も可愛く見えてしまうほど切迫した物となっていた。
どうにかしなければならない。
「おはよ」
少年が物思いに耽っていると急にランドセルを叩かれた。軽い力ではあったがあまりに急だったため少年は一瞬ふらつく。
「……」
いつも虐めてくる同級生だろうか?と振り返ってみるとそこには少年より少し背の高い少女がいた。
真琴だ。その背中には赤色のランドセルを背負っている。
彼女は半年ほど前に少年と同じ学校に転校してきたのだ。たまたま学校で出会った時はお互い大そう驚いた。あの児童館以外の接点を持つことになるとは思っていなかったからだ。
「おはよ……」
少年は小さく挨拶をし返す。
真琴の学内での評判かなりの物だった。今までテストにおいて学年一位の成績を取り続けたのは少年ただ一人。それと同列点を維持し続けたのが真琴だ。そのテスト結果が校内に張り出されるというようなことはさすがに小学校と言うだけあってありはしないが当然それは教職員達の間では知れ渡る。そしてその結果として真琴と少年は目に見えて特別扱と言って差し支えない期待を寄せられていた。当然真琴も同級生、特に真琴はその容姿の良さから同性から不当な扱いを受けた。
無視は当然として一方的な罵倒。嫌がらせ。
しかし真琴はそれを委細気にせずむしろ相手を言い負かす、あるいはねじ伏せるまであった。
それでも真琴の扱いは変わらなかったが真琴は少年にはできなかったことをしたのだ。
少年はただされるがまま耐えるだけの日々。しかし真琴は明確に抵抗を見せた。
それが出来る真琴に少年はいつしか憧れのようなものを抱いていた。自分が出来ない事を出来る。そんな存在がすぐ近くにいるのに憧れるなと言うのも酷だろう。
しかし少年の居抱くその憧れが恋心だと認識することはないだろう。
少年は他人から好意や善意を向けられた経験が少なすぎる。故にその感情がなんなのか判断する材料が足りなかったのだ。
「ん」
真琴は少年の顔に何かを押し付ける。
真琴は少年に何かを渡すときは毎度こうするのだ。いい加減別の方法を取ってほしいと少年は心中で願う。
「……」
見るとウィダーインゼリーのようだ。飲み口が付いた袋を押し付けられる。
「なに」
「顔色悪いよ。ご飯は無理でもゼリーなら大丈夫でしょ?」
さすがに一年も経てば真琴は立派に日本語を扱えるようになっていた。あの片言な話し方を別段嫌っていたわけでもない少年からしたら少し寂しいものを感じるが。
「……ありがと」
「うん」
真琴は小さく笑ってウィダーインぜリーを差し出してくる。
それを受け取って口に含む。
飲み込んでも一瞬胃が震えただけで食堂を駆け上ってくるという事はなかった。なるほどゼリーと言うのは良いかもしれない。そんなものを購入する小遣いを少年が所有していないのが難点であるが。
「……?」
ゼリーを飲みながら歩いていると背中のランドセルに何かが当たった感触が走った。
ある程度予想はついたが念のためをと思いゆっくり振り返るとそこには三人の男児たちがいた。少年の同級生であり一年前より変わらず少年に嫌がらせを続けている子供たちだ。
「いじめられっ子同士お似合いだな~!」
「学校にゼリー持ってきちゃいけないんだぞ!先生に言ってやろ~!」
「悔しかったらかかって来いよ!」
男児たちは少年と真琴を指さして笑っている。
しかし少年はそれを気にも留めない。いつもの事である。そう考えて何もしないというのも悪いのかもしれないが。
少年は男児たちから目を外して歩き出す。
するとそれが気に入らなかったのか男児たちはすれ違いざまに少年を突き飛ばした。
「……いた」
「転んでやんのだっせ~!」
男児たちは少年を笑いながら走り去った。
さぞ気分が良かろう。自分より下だと見下している存在を無碍に扱うというのは。
しかし少年はそれに対しても何も思わない。自分が下だというのは少年自身も理解しているからだろう。社会的に見ればむしろ少年の方が明らかに上であるが。
「大丈夫?」
真琴が少年に手を差し伸べるが少年はその手を握らずに立ち上がる。
真琴は一瞬だけ寂しそうな顔をして手を引いた。そしてあの男児たちが走り去った方を凝視する。
「いつもあいつらに?」
「ん?ああ、うん。他の奴らはそこまで何もしてこないよ」
「……そうか」
少年は真琴の質問の意図が理解できずに困惑するが真琴はそれを気にせずに笑顔を向けた。
「ごめんやること出来たから先行くね?また学校で」
「え、ああわかった。またあとで」
「ん」
真琴は言うだけ言ってニコリと笑うと少年に背を向けて走り出した。
「…はや」
少年は真琴の後姿を見てその呟いた。
確かに早い。あくまで子供にしては、と言う話ではあるが恐らく少なくとも少年の学年であれより早い者はいないだろう。それほどに早かった。
その後ろ姿はみるみる遠くなっていく、次第に見えなくなった。
少年は少し疑問に思った。
あの速度であれば体育の授業で間違いなく注目されて学校のヒーロー的な扱いを受けても良いだろう。いや足が速いぐらいでという物もいるかもしれないが子供というものは成績よりも運動能力の高さで人を見る傾向がある生き物なのだ。子供は単純なのだ。
しかしそんな話は聞かない。むしろ真琴は体育の授業ではいつも陰に座って見学しているイメージが少年の中にはあった。……少年も木の陰に隠れて授業時間をやり過ごしてはいるが。
あれほどの運動能力を持っているのに運動が嫌いなのだろうか?しかしあれは運動を嫌って避けて手に入るものでもないだろう。だとしたら何が理由なのだろう?少年も運動能力が低いというわけでもなくそこそこではあるが体力の温存、集団での行動を嫌うために体育は隠れてやり過ごしているが同じような理由だろうか?
まあ考えていても仕方がない。あとで学校で聞けばよかろう。
そう考え少年は歩き出す。
真琴がいなくなっただけでなんだか寂しくなった気がする。
真琴が転校してきた以降少年の登下校はいつも真琴がいた。特に何か会話をすると言ったことはなかったが、それでもやはり近くに誰かいるというだけで違うだろう。特に少年のような子供なら尚更だ。
「……」
無言で道を歩く。
少年の回りでは同年代の子供たちが友人と共に語らい、じゃれ合いながら歩いている。しかし少年にはそんな相手はいなく、彼らを避けて道を行くしかなかった。
真琴がいないというだけで少年はまた空虚な存在へと変わるのだ。
それほど少年にとって真琴は救いだという事になるが少年はその意味を理解し、自覚しているのだろうか?いつか理解できる日が来ればいいのだが。
「……?」
学校に到着し昇降口で上履きに履き替えようとする。
そこで少年は疑問に思う。
おかしいのだ。普段であれば先ほどの男児たちによって何かしらの悪戯、例えば落ち葉や虫が詰め込められていたり、画鋲が入れられていたりするのだ。それが今回は何もない。一年以上に渡って行われていた事が今日に限ってない?どういうことだ?確かにあの男児たちは少年よりも先に学校に向かったはずだ。であればすでに到着していてしかるべき。念のために男児たちの靴箱を確認するがしかしそこには上履きが入っているだけで外履きは見当たらない。寄り道でもしているのだろうか?
まあたまたま今回何か別の事にかまけて忘れていただけかも知れない。深く考えても詮無いだろう。
少年は教室に向かう。
道中でも同じクラスの子供たちから卑しい視線を向けられるがそれらを無視して歩き続ける。
小声で悪口を言う者たちもいたが声に反応して目線を向けた少年の目を見てどれも顔を伏せてしまう。
「……」
そんなに顔色が悪いのかと再び少年は気落ちするがそのまま教室に到着し自分の席に座る。
そこで再び疑問に思う。
真琴の姿がどこにも見えない。
真琴も少年より先に学校に到着していてしかるべきだ。あの速足なのだから。
しかしやはり詮無い事。少年は考えるのをやめて机に顔を伏せた。
腕を枕にして授業が始まるまで一切行動しない。体力を可能な限り温存するための手段だ。
この体制であれば何か少年に用事があった物だとしても出直してくれる。それがまた少年にとって都合がいいのだ。
その体制のまましばらくするとチャイムとほぼ同時に真琴が教室に駆け込んできた。その勢いのまま自分の席に座る。
真琴はため息をつくと少年の視線に気づいたのか少年に笑顔で手を振った。
それを無視して体制を戻す
「おーいお前ら席に着けよ~」
どうやら担任教師が到着したようだ。しかしそれでも少年は体制を変えようとしないし、教師もそれに対して何も言わなかった。
それがいじめの原因でもあるのだが現状に慣れてしまっている少年からしたら今更どうこうするつもりもない事だった。
「連絡事項の前にお前ら、佐伯と加藤、それと藤山見てないか?親御さんから連絡があったそうなんだが学校に着いてからのメールが来てないらしい。誰か何か知らないか?」
そこで少年は顔を上げる。
今挙げられたのは少年にいつもちょっかいを出している男児たちの名前だ。
それが来てない?どういうことだ?彼らは確かに少年よりも先に学校へ向かった。なのにまだ来ていない?昇降口の件はすれ違いで処理できるにしてもさすがにここではそれは通用しないだろう。明らかにあの男児たちは学校に到着していない。
少年たちとは確かに今朝接触したのに?
誘拐?いや確かに道中人気が少ない場所もあるがそれでも可能性は低いだろう。
だとしたら何だ?何故彼らはここにいない?
寄り道した先で事故か何かに巻き込まれた?それも可能性が低い。
確かに人気が少ない場所はあれどこの学校はそれなりに街中にある。登下校の道では大概人目があるだろう。もし事故だとしたら連絡があるのが当然だ。
何かが引っ掛かり真琴の方を振り返る。
しかしそんな少年の視線にすらもまた笑顔を向けるだけ。
「……」
一瞬真琴が何かをしたのかと考えてしまったがありえないだろう。考え過ぎだ。そもそも自分がそこまで考える必要などないだろう。関係ない。
そう結論付けて少年は体制を戻した。
「誰も知れないか。……まあそのうち来るだろ。瀬戸大輝。起きてるか?今日は昼休みまでで帰ってこいと親御さんから連絡があったぞ。先生たちには俺が伝えとくから給食食べたら帰るように」
「……」
そう言う担任には一切反応をしないでいたが少年の胸中は疑問であふれていた。先ほどの同級生に関する事象よりもさらに。
親からの呼び出し。恐らく父であろう。
しかしいったい何の用だ?最近では変わらず食事は出ないがしかし存在を無視するようなことはなくなった。その代わりと言っては何だが暴行を受けるようにはなっていたが。
そんな父がどうしたというのだろうか?わざわざ学校を帰らせてまで暴行を働くというのだろうか?いやそこまで少年の父は暇を持て余してはいない。この地区の教育委員幹部なのだ。遊んでいる時間などないだろう。
だとすれば暴行の線は消えた。であればそこまで気にする必要もないのか?
わざわざ呼び出すほどなのだから本当に何か大事な用事なのかもしれない。なら体力を温存しておいてしかるべきだろう。
一度顔を起こして真琴の方を見る。
すると真琴は不満そうに頬を膨らませている。そんな真琴を見て少年はため息をついて体制を戻した。
そのまま目を閉じていると次第に眠気が襲ってきた。
これが少年にとって最後の「普通」の日になるとは知らず、少年はその眠気に身をゆだねた。