第三話、 前 策略
16時06分、緊急着陸予定の飛行機内。
成田空港が見えてきた。丸窓から見える空港ターミナルビルの灯りが、夕日を背景に段々と近づいている。
そんな長閑な風景の中、乗員の人々は平穏に過ごし、思い思いに無事な帰宅を望んでいた。順調に飛行していると予想し、何の不安も抱かず……。
そこに、警告灯の点灯と、次にCAのアナウンスが流れた。
「間もなく、成田上空に差しかかります。ベルトをお締めになって着陸に備えてくださいませ」
すると、そのアナウンスを待っていたかのように立ち上がった男がいた。ニヤリと笑った顔に嫌な予感を漂わせ、男は前方に歩き出す。この時こそが計画を確実に遂行できると信じて疑わない様子だ。
ちょうどその行動を、隣の席で見ていた友也が不審に思ったか、声をかけた。
「おい、歩くのは危険だぞ」
が、男は全くの無視を決めこみ、ドンドン前に進んで行く。
尚も友也は注意を促す。
「聞いているのか? 達夫君」……達夫に? そう達夫は、彼の声にも素知らぬ顔で、ただただ無心に歩いている。
しかし、その姿はどう見ても様相がおかしい。思い詰めた感じで、まるで操り人形みたいだ。
その内に達夫は飛行機の先頭、コックピットまで到達した。
当然、それにはCAも気づいている。
「お客様、ここは立ち入り禁止でございます」丁寧に言って、達夫を席に帰そうとした。
その時!……信じられないことが起こった。突然、魔術さながら、達夫の掌から騎士が使う長剣90センチメートルのロングソードの剣! それが飛び出したのだ。加えて彼の表情までも今までと異質で、目が引きつり、顔がとてつもなく険しくなっていた。……何かが彼の中で壊れた?
次の一瞬、「キャー!」剣を見て悲鳴を上げるCA。と同時に弾かれる金属音が響き、剣がコックピットのドアの鍵を貫いていた。
CAは恐怖を表した顔でその場に座りこみ、達夫はただちにドアを開け、中の操縦席へなだれ込んだ。
内部には機長と副操縦士、手前に航空機関士がいるも、迷わず機長に向かって、達夫が剣を振り翳し、物凄い形相で突進して行った。
ところが、迫りくる男に逸早く感づいたか、機長の方もすぐさま体を翻し相手の手をつかみ攻撃を凌ぐ。素早い反応で返した!
その防御で、一旦達夫の攻めは崩れる……それでも争いは終わらず、2人は剣を挟んで力任せの揉み合いになってしまった。
一方、驚愕の光景を目にした副操縦士と航空機関士は、どう対処すべきか戸惑っているようだが、躊躇している暇はないと判断した模様。航空機関士が気を奮い立たせて、達夫の背後から跳びつこうとするも……
「うおー!」直後、機長が力一杯達夫を突き飛ばした。それには堪らず、彼はうしろに倒れかかり、その間に逃げる機長。
しかし、達夫もそんなことでは逃がさない。即座に体制を整え渾身の一撃、剣を食らわした!
切っ先が機長を……! 否、まだだ。機長はすんでのところで体をかわし、変わりに剣は金属を切り裂く音とともに操縦席にめり込んでいた。
失敗した。達夫の奇襲は無駄に終わってしまった。……とは言え、達夫の方は諦めてはいなかった。懸命に剣を引き抜こうとした。
そこに、再度機会を狙っていた航空機関士が近づいてくる。そしてここぞとばかり一気に、達夫は後方から羽交い絞めにされてしまった!
突然の伏兵にうしろを取られたか。彼は、こうなればもがき暴れて必死の抵抗を試みるしかないと踏んだ。するとそれが功を奏し、徐々に拘束が解けそう……。
ところが続いて副操縦士も加勢する! 2人がかりで押さえつけられた。
流石にこうなると、もう身動きはできない。達夫は無茶苦茶に体を振って逃れようとするも、今さら無駄だった。彼はその場で腕を縛られ身を束縛された。やっと彼らにとっての危機をやり過ごしたみたいだ。
ホッと胸をなでおろす副操縦士たち。よもや、こんなことが起こるとは想像だにしなかったろう。
とりあえず彼らが尽力したお陰で、どうにか達夫の企みは阻止できたと、安堵の表情を見せる搭乗員たちだった。
されど……この時、機長が操縦席で俯いて、どこか具合いが悪そうに見えた。
気になった副操縦士が問いかける。
「機長、大丈夫ですか? お怪我はありません? 危なかったですね」
その声に機長は、ゆっくり振り向き、「そうだな、大丈夫だ。とんだ邪魔が入って、計画が潰されそうだったからな」と答えた。
副操縦士は、その言葉の意味が分からない様子で「えっ?」と言った。
――次の瞬間、異常な飛行音と振動音! けたたましい警告音が鳴り響き、飛行機は突然の急降下! 全員、体が浮き上がる衝撃を受け、コックピットが強震で揺れだした。真っ逆さまに落ちている?
これには驚きを隠せない副操縦士。何が起こったのか分からず、操縦席を素早く見た。すると、目前には限度一杯下げられているスロットルレバーが!――。
しかも席にいる機長が、危険な状況を認知しているにも関わらず、全く動く気配がない!
「ど、どうしたんですか! 機長? スロットルを戻してください」航空機関士が慌てたように、機長に詰め寄って側まで行く。
と、寸時の打撃音! その機関士が殴られ、機材に頭を打ちつけ倒れてしまった!
何? 誰が!?……その場には鬼の顔に変げした機長がいる。まさか、彼が機関士を殴りつけたのか!
その所業に、副操縦士が目を見開き、「き、機長! 何故……です?」と、さながら放心状態で訊いた。
その時、「違う。機長じゃない!」達夫が思わず叫んでいた!
押さえつけられたまま、正気の顔で、答えたのだ。
「奴は! 機長なんかじやない。サタンだ――!?」
…………
――3時間前――
空港の職員トイレの中、機長が洗面所の鏡の前に佇んでいた。
ただ、彼の顔がいやに険しく見える。今日もこれから機体を操縦する責任と重圧を感じ、気を引き締めているのだろうか。
……しかし、いつもと少し様子が違う? その機長の目が虚ろで視界が定まっていなかった。そのうえ、肩をダランと落とし体に生気が感じられない。
そして突然、そんな状況の機長が歩き出した。何食わぬ顔でトイレから出て行く。加えてその歩く横顔には、黒い影がまるで尾を引くみたいに流れていた。
これは……! 新たな惨禍の始まりを予感せずにはいられなかった――
一方、ターミナルビル沿いの通路を、無心に歩く者がいた。本当にこれが正しい選択だったのかと、疑問を抱きつつもドンドン空港から離れていく。そう、達夫の姿だった。
ちょうど、飛行場が見える金網フェンスの横まで来たところで、搭乗予定の機体が遠くに見えている。達夫は、その機影を眺めた後、改めて彼自身が経験したことに驚異を感じていた。
……が、その直後! えっ、彼の目の前に、信じられない。予想もしない者が現れた!
「きょ、恭子さん!?」何と、あの恭子が、前方に立っていたのだ!
達夫は何度も、自分の目を凝らして注視した!
「嘘だろ!……何故こんな所で?」仰天して、その場に佇む。
すると、恭子の方は、構わず近づき急いで話し出した。
「驚かせて御免なさい。でも、これから大変なことが起ころうとしているの。……だから、こうやって私は仮の姿で、あなたに会いにきたんです」
それを聞くなり達夫は、「仮の姿? いや待てよ、そんなはずない。僕はまだ生きてる」と恭子の存在に疑問を持った。
対して恭子は「そうよ、魂は受け継いでいない。でも精神はもう……」と言い掛けるも、すぐに止め、「そんなことより聞いて、達夫さん、状況が変わってしまったんです。サタンが666便の機長に乗り移ってしまった。サタン自身が、直接飛行機を墜落させるつもりなのよ!」と、とんでもないことを堰を切ったように叫んでいた。
「えっ、何だって!?」達夫はその言葉を耳にした途端、まだ終わっていない現実に落胆した。
けれど、彼女の事情とは別に、新たな疑問も生まれてきた。
「どうして、君は? そんなに現世の出来事まで分かるんだい!」と不思議に感じて尋ねていた。
それには、恭子が少々戸惑い気味に答えた。
「私ではない、ある御方がサタンとシンクロして……、これは説明できない。だけど信じて、本当に起こる事実なのよ。サタンは自分の目的を達成させるために、よく常套手段として人間の心を操ることがあるの。今回も機長を使って666便を衝突させるつもり。しかも最悪! 衝突場所は成田ターミナルビルなの。奴はビル内の人々の魂も手に入れようと目論んでいるわ。大惨事になるのよ!……」と。
「なんてことを!」確かに、恭子の話を聞いても彼には理解の及ばない世界。ただし悪魔の所業によって人が狂わされる苦辛は経験している。そのうえ、いっそうの犠牲者が出ると聞かされた以上、何とかしないといけなかった。達夫は恐怖を覚えながら、彼女を信じた。
ところが次に、彼にとっては酷な役を恭子は切り出していた。
「だから達夫さん……だから、あなたはもう一度666便に搭乗して、サタンの悪巧みを止めてほしいのよ!」切なる願いを達夫にぶつけたのだ。
その言葉に、達夫は一瞬動きが止まった。顔が強張り声すら出ない。それもそのはず、彼はさっきまでサタンと対決したばかりだ。奴の恐ろしさは十分身にしみている。それなのに再度、戦えと言う彼女の言葉。流石に今度ばかりは了解するのに及び腰だ。
恭子はそんな達夫を前にしても、「お願い、達夫さん」さらに懇願していた。
達夫はどうしたらいいのか分からず、「……待ってくれよ。僕に何ができる? 相手は悪魔だよ」と耐えかねて言い返す。
と、そのことを予想していたのか、恭子が唐突に何か? 長物――信じられない! それをどこに持っていたのか? 西洋風の剣だ――を手から取り出した。
その剣を掲げて、「この神剣を使ってください。この剣で切ればサタンは消滅します」と彼に見せた。
突然の出来事に、達夫は慄き、たじろいだ。そして恭子が出した剣をじっと直視する。が、例え剣を手にしたところで彼が奮い立つ訳もない。何故なら、どう見ても普通の人間が使いこなせる代物ではなかった。
それでも、その怖じける姿を認識した上で、恭子が、「お願い、達夫さん! 大勢の命が係っているの、あなたしか助けられる人はいないのよ! あなたしか!」必死の訴えをするのであった。彼女の目が潤み、真摯な眼差しが達夫を注していた!
「ぅ…………!」こうなれば、もう逆らうことはできない。論なく奮起するしかなかった!
「分かった、やってみる。いいや違う、必ずやるよ!」と達夫は断言した。
ただ、苦渋の決心をしたにせよ、実行するのに幾つか疑問があった。
「けど、僕が搭乗すると以前と同じく墜落するんじゃ?」
「いえ、それは大丈夫。サタンがこの世界に現れたことで大きく次元が変化して、それに時間もずれたの」
「そうなのか、それなら良いんだが。後1つ、サタンを倒すには機長を、この剣で切りつけるということだよね。機長は傷つかないのか?」
「それも安心して、この神剣をこの現世で使う時、生命のある生き物だけは無害なんです。その証拠に……達夫さん、ちょっと、掌をこちらに向けて」と恭子が言う。
達夫は言われるがままに掌を彼女の方へ。すると恭子は剣を掌に翳した。その瞬間、剣が手の中に吸いこまれていた。
「これは?」驚いた達夫。
「この通り、神剣は人間の体をすり抜けてしまう物なの。だから機長には何の危害も与えない」と説明した。
「そうか、手にも隠せる訳だ。なら機内にも持ちこめるのか」
「……ただし」ここで突如、恭子が神妙な顔になり、「サタンが機長の体にいる内は、例えサタンであってもただの人、魔力は使えませんが、もしそんな機長でも、剣を持ったらはっきり言って分かりません。人を傷つける剣になるかもしれないのです。それに、もっと悪いことはサタン自身が奴の世界で剣を持った時です。そうなると、これは森羅万象全ての物を切り裂くことができる神剣、あなたの魂も例外ではない。魂が傷つけられ、無き物にされるでしょう。だから、サタンにだけは、絶対に剣は奪われないようにして!」と、強く念を押して語った。
達夫は決意を胸にし、「よく分かったよ」と答える。同時に、慌てて時計を見た。すると、もう13時10分だ! 「えっ、出発まで5分しかない」間に合わないと思った彼は、早々に元来た道を帰りだす。
けれど、それを見た恭子がうしろから言った。
「大丈夫、出発は遅れたわ」と。
「ど、どうして?」不思議に思った達夫は、駆け出しながら問いかけた。
彼女は追い立てるみたいに、「いいから、早く急いで!」と口にする、……その後に「私が電話したの。不審物があるって」ポツリと呟いた。
達夫は、ただちに空港へ戻って行く。
そのうしろ姿を見送る恭子、……否、そこにいたのは、恭子? 違う。彼女に似てはいるが別人だった!
その女は、急に「あら、私、何してたの?」と、今気がついたかのごとく声を出した。
そして、呆然とその場に佇んでいた――。