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あくる朝、学校の正門からから校舎に向かう途中にある全校生徒向けの掲示板に、ある写真が貼られていた。
そこは嫌でも全校生徒の目に触れる場所だった。
健全なる青少年の学び舎にふさわしくないそれには、大勢の生徒がたかっていた。
そんな状態を制止しなければならない立場の教師には、まだ騒ぎが伝わっていないと見えた。
生徒達は、写真に対する感想を口々に言い合う。
下卑た笑いも混じっていた。
写真には、『ヴェルヴェット』というはげかけた看板のある雑居ビルの入り口の前で、一人の少女が、くたびれた背広の中年の男に腕を巻きつけている光景が映っていた。
緑澤が『ヴェルヴィー』と呼んでいる店だった。
彼女のもう一つの勤務先だ。
華奢な後姿に、栗色のロングヘア。俺は付け毛だろうと判断した。
映っているのも、彼女に違いなかった。
ピンボケの上、遠目だから、誰かとまでは特定できないだろう。
少なくとも、あそこで働く緑澤とそれを知る者以外には。
「どういうつもりだ啓太郎。どうしてあんな写真貼ったりしたんだ」
休み時間、俺はターゲットを追っていた。写真を撮られた緑澤、彼女の行方を探していた。
ようやく中庭の一角で見付けたが声をかけそこなったのは、彼女が少年と話をしていたからだ。
俺は反射的に木の幹に体を隠す。
「ちょ……っと待てぇな、杏子。何であれが俺やと思うん」
「他に誰がいるって?」
そもそも、俺があの店で緑澤と遭遇したのは啓太郎のせいだった。啓太郎の紹介だった。
「おるやろ」
啓太郎は人の悪い笑みを浮かべた。何かを緑澤にほのめかすかのように。
「お前が、御曹司、御曹司って呼ぶ野郎が。ああいうことしとるお前のこと、バッシングしたいんちゃうん? 気持ち悪いって、汚いって、この学校から追放してやりたいって思っとるんちゃうん?」
よっぽど、俺も飛び出そうかと思った。
緑澤は真剣な表情をしていた。真面目な顔で、乱暴な口調だが彼女なりの本音を言っているのだろう。
「彼の人となりはそんなんじゃない。高貴くんは私の弱味を握ってるなんて自覚はない。啓太郎、私ものことはいい、けど彼をそんなふうに侮辱するのは許せないな」
「……言ってくれるやん」
「ああ言うよ。あんたと彼は次元が違うんだよ。人の弱味をちらつかせて、ばらされたくなかったら言うこと聞け、が口癖のあんたとは」
「……杏子、誰に向かって口聞いとるん」
「私は汚い。けど私以上に性根の腐りきっている啓太郎、あんただ」
「……そこまで言うからには、どうなんや、覚悟はできとるんやろな」
「好きにすればいい。ばらしたければ、ばらせばいいだろ。私はどっちでもいい」
「ええんか、ここにおられんくなるで?」
「かまわない。もう、どうなっても」
「杏子?」
「さあ、ほら、ばらまけ。ばらまけばいい。教師にでも生徒にでも、ぶちまければいい。私はもうどうでもいい。『二年A組、名物コンビの一人、緑澤杏子は売春してます。そしてそれをネタに揺すられた同級生の相手もする。そんな女なんですよ』とでも? 私はもうかまわない。計画はすべておじゃんだ。一番知られたくない相手に、全部知られたんだから」
「もしかしてお前、出てく気か、このガッコ」
「それも悪くない。彼はきっと私のことは誰にも言わないだろうけど、でももう、絶対に好敵手とはみなさなくなるよ。汚らわしくてしかたない、かわいそうすぎて多少の同情はしてやってもいいかなくらいには思うだろうけど。そういうの、私は何より嫌うって、あんたは知ってるはずだ」
「無駄にプライド高いでな……」
強請る同級生?
啓太郎?
知られたくない相手?
俺?
――出て行くのも『悪くない』?
俺は大きく一歩を踏み出した。
踏みしめられた落ち葉がかさりと鳴る。
いやに大きな音のように思えた。
俺の精神が高ぶっているからかもしれない。
けれど、一方で話し込んでいた二人もぎくりと体を震わせていた。
最初に俺と目が合ったのは啓太郎の方だった。
「西笹川……!」
緑澤が弾かれたように、顔を上げる。啓太郎の視線の先を追う。
「高貴く……」
彼女の喉の奥が鳴る。
以前にも聞いたことのある、かすれた裏声。
嗚咽にも似た、と一瞬疑ってしまいそうな。
あの店で裸同然の彼女と遭ってしまったその時の驚愕と同じもの。
遅い。
啓太郎が痛みを感知しただろう時には、もう奴は地面に尻餅をついていた。
「失せろ」
俺はそれだけ言って、奴を殴った拳をもう一度握り直した。
指の節がじわりと熱を持っている。
けれど痛みは感じない。
だけれども、奴は顔をしかめて一つうめいていた。殴られた頬をさする。
「ってぇ」
「失せろ」
俺はもう一度すごんだ。
無様な格好で転がり、腫れた頬をなでさする啓太郎はけれど、立ち去り際、捨て台詞を吐いていくのだけは忘れなかった。
「てめえら、絶対相容れへんな」
ひゅと風が吹いた。
俺と緑澤を隔てる間にちょうど吹く。
熱くなる季節の目前、けれどまだ熱風というのには早い。少し冷たい。
緑澤の表情もぎこちなくこわばっていた。
「そんなに学校辞めたいのか」
ぐっと緑澤は唇を噛む。
いつもの彼女の威勢はない。
「仕方ないだろ」
「何で」
緑澤は少しいらついたように小さく吐き捨てる。
「聞いてたんだろ。ならわかってるはずだ。それもあんた自身のこと。あんたはまっとうな人間さ。同情心が篤いのかね。私はあんたをアコガレの人だと、あんたと二人きりの今ここで言うつもりはないけれど、好敵手だくらいには思ってる。でも、それは今日で終わりだ。あんたも、うるさいキョーコがいなくなってせいせいしていてくれ」
そしてうつむく。
「お前はとっても頭が悪いな、緑澤」
極めて明るく言ってやった俺に、彼女は顔を上げる。けげんそうな表情。
「どうしてそんなに後ろ向きになれるのか俺はそっちの方が疑問だな。お前、学年次点サマだというその頭脳を活用してみたらどうだ? 資金が必要なんだろう。ミドリサワキョーコ向き、もっとぴったりな稼ぎ方がもっと他にあるだろうが」
緑澤は不安も入り混じった両目でもって俺に先を促す。
「お前は自分の足で立っていたい。人からのほどこしは受けない。そうだろ? 立派なことだぜ」
「御曹司?」
「お前は知らないかもしれないけどな、この世は他人の厚意を施しとは感じずに受け取る方法もあるんだ」
猜疑心たっぷりな彼女に俺は言ってやる。
「『好きな人』ってやつにはものすごい力がある。ま、お前は知らないだろうけど」
バカにした言い方。
だって実際バカにしている。
こいつは恋とか愛とかそういう人並みの感情を知らないだろうから。
だからいつだって競争競争、対決対決、それでしか人との距離を測れない。
「俺がもし『同情』でお前に何か物を与えようとしても、お前はそれを受け取らないだろうな」
緑澤は即答する。
「当たり前だろ」
だろうな。
「でも、俺はお前が不憫で不憫でしょうがなくて、俺みたいにできた、恵まれている人間は心も広いし、お前のことを心配してやる。だから、援助もしてやろうかなと思う」
「断る!」
「まあ聞けよ。だから解決法があるって言ってるだろ」
俺は一つ深呼吸してから言った。
「お前が俺のことを好きになれば、俺の言いなりくらいにはなるんじゃないか? だったら俺に惚れてみる?」
絶句。
緑澤はぽかんと口を開けていた。
うーん、バカっぽい。
やっぱりこれも素かもしれない。
色気過剰な『女』の顔が偽りだと信じたいわけじゃないけど、いつものバカなガキって感じもそれはそれでしっくりくるんだ。
「それが嫌なら逆でも結果は同じだな。俺に、頼むから受け取ってくれって言うようにしむければいい。もしくは俺に言うこと聞かせるようにすればいい。もう二度と私にかまうなというお前の命令を俺が聞くように」
どういうことかっていうと。
「悔しかったら、俺を惚れさせてみな」
てことだ。
その台詞を聞いた緑澤は何やら抗議らしきものを口に乗せようとしたまま固まった。
緑澤はまだその目を見開いたまま。
ショートの髪を風がかきまわすところに注意なんていかない様子で。
すべらかな頬を引きつらせたまま。
薄い唇をわななかせた、そのままでいる。
俺はかまわず言ってやる。
「どっちが勝つか、お前の大好きな『勝負』してやるよ」
そう。
戦いの火ぶたは切って落とされたばかり。
Redy?
No Mercy...
――Fight!
これから――この時はまだ知らなかったが――、一生ものの付き合いになる彼女との、本当の戦いはこの瞬間、ようやく始まったのだ。