3
例えばこういう自分のこと。
たまには考えたりもする。
例えば、そうだ、こんな時。
実力テストの終了後、レポートも提出し終え、怒涛の日々が過ぎ、一段落したこういう日。
緑澤杏子、彼女が一体どういう意味で俺のことを『御曹司』と繰り返すのか俺は知らない。
そういうふうに自分が呼ばれる立場とは思えない。
そこまで大層なふうに育てられたという自覚もない。
けれど。
食べるものや着るものに困るという環境ではなかった。
あふれているなんて言わないけれど、金銭に飢えているなんてことはなかった。
上流階級と言えるのかどうかというボーダーライン上のものだけど。
たまに色眼鏡で見られることもある。親が小さな会社の重役ってその程度だけど。
ただ、少しばかり厳格ではあったかな。
教育熱心というべきか。
そりゃ俺だって、成績は悪いよりはいい方がいいと思う。
でも。
父親やその他の親族の面子から寄せられるプレッシャーと、母親のプライドにも関わるという塾通い。
期待されるのが、絶対に嫌だと跳ね除けるまでには至らないけれど。
ストレスが溜まらないでいられるわけではない。
チキチキチキ、と。
刃を出すのは結構好きかもしれない。
その辺の文具屋で売ってるような、事務用のカッターナイフ。
だから、気休めと気晴らしだけど。
自分でも暗いなーと思うけど。
鈍い銀色の刃物を眺めているなんて。
もちろん、自虐的なそのテのシュミがあるってわけじゃないから。
自殺願望リストカッターとか、そういう寒い話じゃなく。
ちょっと傷つけてみたいなー、なんて思うのは自分じゃなく。
いや、むろん、他人、なんてものでもなく。
なんてものでもなく、というより、そんなこと許されるはずがないだろう?
人を傷つけるなんて真似。
飼育小屋のウサギを切りつけるなんてむごいことだってしないけど。
ただ、刃を見つめて、じっと黙って、一人で見つめて、それくらいはいいんじゃないか。
寒い行為だって、痛い行為だって、ちょっとおかしいんじゃないか自分、って思わないわけじゃないけど。
でも、今日も今日とて。
「高貴、ちょっとあなた聞いたわよ。こないだの実力テスト、あなたと同じ得点の子がいたそうじゃない。首位なのはいいとしても、でも、もうあと一点でも足りなければ、その子に抜かされていたってことでしょう? ちょっと緊張感が足りないんじゃないの」
家に着くや否や、おかえりの前にこんな愚痴聞かされるんじゃ、たまらないよな。
俺は、皆が寝静まった家を深夜抜け出した。
三万円、持って。
歩きながらまた考えていた。
あの日、自分が何故、啓太郎なんかの招待状を持って、今と同じ道のりを歩いたのか。
『誰にもとがめられず他人をいためつけられる』
――そんな、誘惑に、負けたと、言えないだろうか。
俺は自問する。
しかし実際、相手がアレだと知って、そんな暴力的な思考は完全にふっとばされた。
それからしばらくも、あの店に行こうとしたきっかけを改めて考える余裕はなかった。
彼女の二面性に驚かされっぱなしでそれどころじゃなかった。
けれど、今はだいぶ免疫もできてきたし、あの日のことをまともに振り返らなくちゃならなくなってきた。
きらびやかなネオンの繁華街も、一筋ずれれば、適度にさびれたいかがわしい界隈。
あの角を曲がれば見える。地下一階の、ある意味アットホームな遊技場。
けれど、俺は雑居ビルの入り口から這い出てきた物体に、思わず足を止めた。
ずる、ずる、と、引きずるように体を移動させている者が見えたからだ。
その者は、壁に手をつき、体重を支え、歩く。
乱れた髪に、破れた洋服、手足に擦り傷。
緑澤が息も絶え絶えに出てくるところだった。
俺は思わず立ち止まり目を見張る。
「オラ、そんなとこにいられっと、こっちもメーワクなんだよ。とっとと帰って、クソして寝ろ。すぐにでも復活して出勤しやがれ。商品管理もてめえの仕事のうちだぜ」
あの店の案内役、鼻ピアスが緑澤の腰を蹴る真似をした。
がくり、と細い体が前方にかしぐ。
手すりをつかむ力も残っていないのだ。
無意識だった。
「緑澤!」
俺は駆け、倒れるそうだった彼女を、すんでのところでキャッチしていた。
すでに彼女に意識はなかった。
膝をつき、見た目以上に軽い、軽すぎる緑澤を抱えた俺を、鼻ピアスが見下ろしていた。
「何アンタ?」
「こいつに何した」
にらみつけるも、奴には効果ない。
奴は俺の顔を認めたのか、悪びれる気配もなくカラカラ笑った。
「ああ、こないだのガキか。マイに手を出さずに逃げ帰ったお坊ちゃまね。つか、アンタ何者? こいつの知り合い?」
こいつと鼻ピアスは言うのは緑澤のことか。マイというのも彼女を指すものか。
「お前には関係ない」
「うんうんうんーっ。オレもあんたなんかにゃ全然カンケーないって思うー。でもこのマヌケなメスガキの知り合いならさ、ここに転がしとくのもジャマじゃん? 持って帰ってくんない? エーギョーボーガイなんだよなー。キンムジカン終わったんだから、即帰ってエーキを養わなないと次もヘバりくさるだけだぜ。そう伝えとい」
聞けば聞いているだけ怒りが増す。
俺は鼻ピアスに皆まで言わせず背を向けた。
背負った緑澤の体、見た目以上に軽かった。
緑澤杏子の鞄の外側のポケットには生徒手帳が入っていた。
それを見てたどり着いたのは、築三十年はたっていうだろう二階建てのアパートだった。古びているだけでなく、みすぼらしい。
集合郵便受けにはさびが浮いているし、玄関のドアも開けるには相当の力を要した。しかも大きく軋んで耳障りな音を立てる。
ちなみに鍵は生徒手帳の入っていたところにあった。
玄関ドアの先は、一つの部屋と一つの簡易キッチンで終わりだった。
ベッドと机と本棚とを置いたらそれで全部が終わりの部屋と、申し訳程度の炊事場が彼女の部屋の全てだった。
一人暮らしなんて聞いていない。
けれど、どう見ても他に家族がいそうな形跡はない。
室内はきちんと片付けられているが、それでも狭いことには代わりがない。
俺は緑澤をベッドに横たえてから見回しそういうことに気が付いた。
一体こいつはどんな生活を送っていたのか。
電灯をつけるが部屋の中には一切温かみといったものがない。
あるのはただの勉強道具と生活必需品。
例えば女にありがちな甘ったるい香水や化粧の匂いもしなければ、パステルカラーのインテリアも見当たらない。
必要最低限の機能を持った家具だけだ。今時、テレビのない家というのはどういうことか。
「……んっ」
緑澤が寝返りをうった。
かたわらに立つ俺に顔を向ける格好になる。
「ひっ、や、やだ。やだ、やだ、やだ……」
その顔は蒼白で、額には汗が浮かんでいた。
かちかちと歯が鳴る。
小刻みに体が震えている。
意識のない彼女は、しかし表情は恐怖を感じるそれだった。
「緑澤?」
「こわい……こないで……やめ、やめて」
彼女は両手を持ち上げる。ばたばたとそれを振り回す。けれど力らしい力は入っていない様子。
「緑澤、おい、しっかりしろ」
悪夢?
フラッシュバック?
「ひぃっ……いやだよう……おねがい……もういや」
俺は緑澤の肩を揺り動かす。
嫌だ嫌だとうわ言を繰り返す。わなわなと震える唇からは拒絶の言葉がとめどない。息も上がり、呼吸が苦しそうだ。
彼女の目尻からはどんどん涙があふれてくる。そのまま頬を伝って耳や髪の中に消えていく。
つかんだ彼女の肩はやるせないくらい細く小さかった。小刻みに震えてもいた。
それに少し熱い。
彼女の額に触れてみた。
平熱じゃない。
俺はハンドタオルをしぼって彼女の額に乗せた。
薬を飲ませる? どうすれば……。
起こそうとさっきから何度も呼びかけているのに目を覚ます気配は一向にない。
俺はうなされているのをただ脇で見ているしかなかった。
ベッドの脇に座り込み、しばらくして大人しくなった彼女の寝顔を眺めているしか。
寝言と震えは止まったが、彼女の寝顔には絶望だけが宿っていた。
…………。
がくんと頭に衝撃があった。
俺はいつの間にか緑澤のベッドに頭をもたせうとうとしていた。
ピチチと小鳥の鳴き声がした。
朝焼けが差し込んでいた。
俺はゆっくり顔を上げる。
「何であんたがここにいるの」
上半身を起こした緑澤が片方の眉を上げていた。今起きたばかりのはずが、彼女はしっかり覚醒しきった目をしてにらんできた。
「随分な言い様だな。ぶったおれたお前をわざわざ運んでやったのに」
緑澤は空を少し眺める。考え込む仕草だ。
「昨日……? それって、昨日、昨日の夜のこと。私、昨日、って」
「無茶苦茶なんだよお前は。無理なら無理であんなのやめとけばいいだろうが」
「昨日あんたあの店に行ったの」
「ああ、こんな金預かったままじゃ気分が悪い」
そう言って俺は封筒に入った三万円を緑澤に突きつける。
緑澤の両眼、目尻がきりりとさらにつり上がる。
「いらないって言ってるでしょ! あんたの時、私働かなかった。だから金なんてもらえるわけない。私は筋は通す人間だよ。それに、今もどうしてこんなところであんたが……あんた、御曹司なんかが」
緑澤は普段の、普段俺と二人きりの時に使う口調を取り戻し始めていた。
どれが素なのかわからなくなる。
「御曹司なんかに、私がいつ頼んだよ。店から連れて帰ってくれなんて。てめえの世話になんぞ誰がなるか。余計なおせっかいはよせ」
「お前……」
「礼なんざ言わないよ。むしろ人の部屋を勝手に開けたあんたの方にこそ謝ってもらいたいくらいだ」
緑澤はそう言うと自分の体を動かす。ベッドからいざリ出る。
「けど、今はそんなこと言ってる時間がないから。もういいよ。さっさと消えろ」
「おい、どこ行くんだ」
緑澤は不快そうに眉根を寄せる。
「着替えるんだよ、バカヤロウ。御曹司、私はああいう仕事してるけど、金も払わない野郎に着替えを見てもらいたいなんて酔狂な思考の持ち主じゃねんだよ」
そうは言うものの、緑澤は面倒くさそうに、俺がまだ見ている前だと言うのに上を脱ぎだそうとする。
俺は慌てて止めていた。それより先にもっと考えなければならないことがあるだろう!
「学校行くつもりかよ!」
緑澤はうっとうしそうに俺を見る。半分袖を抜きかけていたところで止められ不愉快そうだ。
「あったりまえだろうが。あんたもさっさとしねえと遅刻するぞ。ま、私はあんたがどうなろうと知ったこっちゃないけどな」
「そんな体で行けるわけないだろ」
ぴくりと緑澤の頬が痙攣した。
彼女は脱ぎかけていた洋服を再び着る。俺に、作業をしながらでなく、きちんと宣言するためだろうか。
「御曹司のあんたには知るよしもないことだろうが、私はこれが普通なんだよ。股の間になさんざんもの詰め込まれた翌日だろうが、合法だか違法だか知らない薬を使ってようが、私は学校に行くんだよ。御曹司、平和ボケしたてめえとは違うんだよ。言ったろ、私は通すべき筋は通す。やると決めたらやるのさ」
緑澤は言って立ち上がる。
さっと歩いて箪笥の前に立つ。
中から着ていくものを放り出す。
そうしてから俺を振り返る。
「で、あんたはいつまで呆けてるんだい」
だったら、そう、あの時もあの時もあの時も。
『コーキくぅーん』とはしゃいでぶつかってきた朝の挨拶も、前日にどんな目にあったかわかりゃしないその翌日のものだったとでも言うのか?
まさか。
いくら何でもそれは誇張だろう。
俺なんかに醜態を見られた翌日だから、そんな見栄を張ってみただけのことだろ。
と思っていた。
けれど、それはまだ俺が緑澤を見くびっていたからこそ思った甘い考えだった。
「ああんもうっ、コーキくぅんとこんな朝早くから『グーゼン』出会えるなんて、キョーコ、なんて幸せなのかしらっ。ラッキーッ! キョーコの日頃の行いがよいせいかしらっ。神サマ感謝いたしまーっす!」
時間がないからという理由で緑澤のボロアパートを二人で出る。俺も自宅に荷物を取りに帰る暇はなかった。とりあえずテキスト等は学校についてから知り合いに借りることにでもする。
途中までは眉間にしわを寄せていた彼女だが、電車に乗り、同じ高校の顔見知りの姿が見え始めると、とたんに例の『コーキくんを崇拝するキョーコ』モードへと鮮やかに変貌をとげた。
熱があるとか昨夜は俺にもわからないひどいめに遭っただろうこととか、微塵も感じさせなず、ただのバカとしか見えない。
何も知らない人間の目には、緑澤はいつものうつるさくしつこいバカなチビガキとしか映らないだろう。
俺だって、昨夜のあれを知らなければ、そう思っていたはずだ。
これって、ちょっと度が過ぎやしないか?
あんなにうなされていたその翌日がこれか?
その日一日の緑澤の様子ときたら、それはもう見事としか言いようのないものだった。
途中からは俺だって夢でもみているような、昨日の出来事は錯覚なのかもと思いたくなるような、いつも通りのバカガキっぷりを発揮していた。
この日は放課後まで俺と二人きりになることはなかったから、緑澤はずっと『コーキくぅぅぅぅーんっ』と繰り返していた。
問題は放課後に起きた。
一日のラストの授業は視聴覚室で行われた。担任の受け持つ教科だったから、教室に帰らずそのままクラスは解散となった。
明かりを落とされ、暗幕の引かれた室内に、最後まで取り残されていた少女がいた。
教材のビデオの上映中からずっとそうだったのだろうか。
彼女は机に突っ伏していた。力なく倒れこんでいると言ったほうが正しいのか。
室内には鍵の管理を任されてしまった日直の俺以外他には誰もいない。
俺は心置きなく彼女の名を呼ぶことができた。
「緑澤、起きろ!」
たっぷり数秒たったのち、ついでに言えば俺が少し肩を揺り動かしてのち、ようやく緑澤は頭を持ち上げた。
「ん……ああ……、あ、ああっ、コーキくぅんじゃないのぉっ。キョーコってばもしかして、ね・て・た?」
「……とりあえず、今この教室には誰もいないし、ぶったしゃべり方は必要ない」
緑澤はすると目を据わらせる。
「バーカ、それならそうと先に言え。いちいちこの私を働かせるんじゃねえ。そっか、今日はもう終わりか。帰りなのか。ったく、私の本日の業務は終了してんじゃねえか。御曹司、それを先に言え」
「業務だって?」
「わかるだろ。こんな茶番劇、仕事とでも割り切らなきゃなっていかれねえっての。考えてもみろよ、この私はな、お前みたいな平和な坊ちゃんに根気よくまとわりついてやってるんだぜ」
こみ上げてくる怒りがあった。
「なら、やめればいいだろ」
緑澤は心底人をバカにしたように口元をゆがませる。
「お前バカかぁ? 今さらこれがやめられるとでも思うのか? それに最初に言ったろ。お前の利用価値なんざ……」
緑澤はそこまで言ってから、両手を口元に当てきゃっとぶりっこのようにはにかんでみせた。
「言ったじゃなぁーい、コーキくぅんっ! アナタを私が追い掛け回すのはぁ、おベンキョーしか取りえのないアナタの、その取り柄をキョーコがそばで虎視眈々と狙っていたいからよぉ。奨学金制度も楽じゃないのよぉ?」
「奨学金?」
「あれぇ、言ってなかったっけぇ?」
「聞いてない」
「そりゃそうかもしれないな。御曹司に申告する義理はねえもんな」
面倒くさそうに、緑澤は素に戻って憎まれ口を叩く。
「何ぼさっと突っ立ってんだ、御曹司。ああ、てめえ鍵当番か。いいぜ私が返しといてやるよ、それ。適当にてめえはさっさと帰れば?」
次第に口調がとろりとしたものんなる。緑澤はあくびをかみ殺す。
「ほれ、貸せよ、鍵」
座ったままで彼女はしかし立とうとはしない。
「そっちだって、ガッコが終わってからもずっと私の顔なんか見ていたくはないだろう? 私だってそうだよ、営業時間外にいちいちてめえに付き合う義理はねえんだよ。とっとと帰れ」
「付き合うも付き合わないも、ないだろ」
緑澤はぴくりと眉を上げる。
「何だよてめ、その言い方。昨日迷惑かけられたのそんなに根に持ってるのかよ、ケツの穴の小せえ男だな。あ、てめえの実際あの時は見てないけど」
「……動けないんだろ」
ぎくり、と。
彼女の体が瞬間固まったのを俺は見逃さなかった。
「立ち上がりたくても体が言うこと聞かないんだろう? もちろんそれを俺にも悟られたくない。少し休んでから帰ろうと思ってるな」
「思って、ない」
急に力が抜けたように緑澤はゆっくり答えた。
うつむき首を振る。
「普通に、心配してやってるだけだろ」
「……そんなこと頼んでない」
わずかな間、しゅんと下を向いていた彼女が再び顔を上げた時、そこにはきっぱりとした意思が双眸に宿っていた。
きつく、そして真正面から俺を見据える。
「私は自分で自分のやることをやる。同情もほどこしもいらない。働いた分だけお金をもらう。勉強した分だけ点を取る。あんたのかかわるべき領域じゃないし、かかわっていいところじゃないんだよ」
だから、ただ単に心配してやってるだけだっての!
実際問題として緑澤は、この日一日他の生徒や教師の目のあるところで見せていた元気はつらつぶりは、放課後には発揮できない状態になっていたのだ。
思い返してみれば、今までにも似たようなことがあった。
授業の合い間には彼女はしつこく俺にまとわりつく。
けれど一度最後のチャイムが鳴り終われば、ぱっと姿を消していた。
それは、例の遊技場へキャミソールで横たわりに行くためかもしれなかったし、前日そんなことをしていたために力が入らなくてどこか人の目につかないとこおでへたりこんでいるかもしれなかった。
「御曹司、あんたのいるところじゃないんだよ、ここは」
緑澤を彼女のアパートへと連れ帰った。
肩を貸してやった。
緑澤は嫌だ嫌だ絶対あんたの世話になどと繰り返したが、固辞しきれるだけの力も残っていなかったのだ。
勉強道具だけがちょんと鎮座する飾り気のない部屋で俺は訊く。
「どうしてあんなとこてあんなことしてるんだよ」
緑澤はまた例によって、御曹司の知ったことではないと、いい加減力もなくなってきた調子で返してきた。
「教えろ。それがお前のポリシーだろ。本意じゃないとはいえ、二度も俺の世話になってる。昨日あのまま俺が店から放っておいたら、今日お前は、大好きな学校に来れたか? 今日の放課後俺がお前を放っておいたら、本当にここまでたどり着けたか?」
筋を通す、ポリシーがある。
それは彼女の存在意義にも等しいのかもしれない。
だから口を割った。
「別にわざわざえらそうに語るほどのことじゃない。両親は離婚した。私は父に引き取られた。けど奴はアルコール依存症。最悪だね。子供の世話どころじゃない。アパートの保証人にだけなって印鑑押して出て行った。何ヶ月顔見てないかな。私は親である奴みたいな、絶対そんな人間にはなりたくない。高学歴で高収入、人を顎で使う人間になりたいな。まっとうな道でまっとうに、それもグレードの高い生活をしたい。そのためには今ちょっとくらいの我慢はできる。現状の生活費とプラスして大学の受験費用、入学金と授業料は今から貯めておかなきゃな」
「あんな仕事をしなきゃならないことなのか」
「御曹司、てめえはやっぱり頭悪いなあ。割の良さじゃ群を抜いてるんだよ、アレは。稼げるバイトなんてたかが知れてる、工事現場か、水商売か。あとは資格持ってる奴の勝ちだ。私は今は何もないけど、いずれ資格を取って勝っていくため今はまず資金が欲しい」
熱にほとんどうかされた調子で淡々と語る彼女に言ってやりたいことはたくさんあった。お前の思考のあり方には間違いがありすぎだと。
けれど、どうしても口をはさめやしない。
とつとつとけれど本音を真剣に、彼女の生活のかかった真実を、筋を通したいがためだけに『御曹司』の俺に語るなんてよほどのことなんだろう。
俺は単に、それでいいのかと問いたい。
本当に、それで……?
緑澤はそう言うとベッドに倒れこんだ。ベッドのスプリングが軋む。
うつぶせになった彼女はそれれ以上話を続けはしなかった。充電の切れた電化製品のようにぴくりとも動かなくなった。
俺には何もできない。
だってそれが彼女の望みだから。
手助けを、無償の手助けを何より厭うのが緑澤杏子という人間だから。
でも、俺だって、我慢できない。
こんなものを黙って見ているだけなんていうことは。
俺にだって人並み程度の感情はあるんだ。
俺は立ち上がり、倒れふしたままの緑澤に言葉を投げた。
「見てられないな」
枕に顔をうずめた緑澤はくぐもった声で返した。
「じゃあ見るな」
「そういう口をきくくらいなら、最初から隙を見せるな」
緑澤は両腕をついて顔だけ俺の方に向ける。体を全て起こすだけの力は残っていないようだ。
「あんたがあの店に来たのは、私のせいじゃない」
「お前が何やってようと俺の知ったことじゃない。お前が好きで水商売しているならそれはそれでいいさ。でも、昨日の夜みたいに、これみよがしに弱味を見せつけるな。見過ごすわけにいかなくなるのが、良識持った人間の常識だ」
こんなことが言いたいわけじゃない。
昨夜は緑澤だって限界だった。人に見せるためにフラフラになっていたわけじゃない。わかってる。
彼女の事情を、おそらく誰にだって言いたくないプライベートを、『崇拝するコーキくん』であり、けれど実のとこ『憎きライバル』である敵の俺に打ち明けたのは、俺がつつきすぎたからだ。筋を通せ、と彼女にとって一番痛い言葉を吐いたからだ。
でも、これくらい言わなきゃこの強情女は、人の意見を聞かない『キョーコ』は、言うことをきかない、だろう?
案の定、緑澤は目尻に悔しさをにじませていた。ぎりりと唇をかむ。
「お前、がんばりすぎなんだよ。少し休め」
こんな台詞で、彼女が本当に休まるとは思えないけれど、それで少しでも気休めにでもなれば。
「二年の一学期なんだよ。もっと計画的に生きろ。高学歴目指すならそれもいい。俺だってそうだ。今からがんばらなきゃならないのはわかってるし、今貯めておかなきゃならないものもあるだろうけど、まずは休め。止めない、お前のやり方は。バイトも、アレじゃなければ。学校でのバカも二つの仕事をこなせばいい。けど、まだ一年半あるんだ。今から全力疾走してたら持たないぜ。体力つけろ。大学入ってからも試験はある、就職してからも競争はある。それに勝っていきたいんだろ。ペース配分考えろ」
ぱたりと緑澤は力なく再度シーツの海に顔面から沈んだ。
すぐに寝息が聞こえてきた。