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翌日。
午前の二コマめの授業は世界史。
暗記一辺倒教科なんかじゃないのさ!という歴史教諭の提案により、クラス内でペアを作り、好きなテーマを選んでレポートを作成することになった。
これもまたいわゆる一種のゆとり教育、らしい。
それはそれでいいのだ。
が。
暗記なんてもの、この授業の下手な教師の本読みを聞かされなくても自分のペースでできるし、その方が効率がよいのだから、独自のレポートを作成するくらい、かまわないといえばかまわない。
かまわなかったのだ。
が。
問題は、課題は二人一組で行われなければならないという点。
いや、そのルール自体に問題があるとも思えなかったのだ。
が。
どうせ二人組みで課題を遂行してもらうなら、学力レベルの似通った者同士の方がスムーズに課題作成が行えるだろうという、独自の判断にこそ問題が……。
いやいや、別にそういう教師の我がまま言いたくなる気持ちもわからないではないのだ。
今目の前にいるのが、緑澤杏子でさえなければ、俺は全然かまわない。
ネロ帝だろうが第三帝国総統だろうがどんとこい。
「キョーコォ、日々マッジメェーにおっベンキョしててよかったーあ。学年二位でこんなによかったと思うことなんて、いまだかつてなかったよう。コーキくんとペア組めて、キョーコうれしー」
「…………」
「やーだー、コーキくんったら、ちょっと何か一言くらい言ってよぉー。キョーコかなしー」
「……黙れ」
俺と緑澤杏子とのいつものようなやりとりには、いつものように周りから、これまたいつものようにくすくす笑いが起こった。いつものように俺への同情、いつものように緑澤への呆れ。
緑澤はいつものようにあっけらかんと笑い、人の迷惑を無視して自分の感情だけを押し付ける。自分の感情をあけっぴろげに表に出す。
『嬉しい』も『悲しい』もいつものように、否、いつもより激しいのではなかというほどの表し方。
「いいもんねーっだ。コーキくんと同じ課題に一緒に取り組めるだけで、あたしホント、シ・ヤ・ワ・セなんだもんっ」
昨日までは我慢しきれぬほどのうざったさを感じてはいたけど目の前の状況は現実のものとして受け入れてはいたさ。
でも、これってちょっと目を疑う光景だ、と、今日の俺は思うんだけど?
緑澤が無駄口ばかり叩いていたせいで、授業時間内に課題を終わらせられなかったのは、不覚だったと思う。
けれど、学年首位と次席のペアにさせられてしまっている。あまり手を抜きすぎなものを提出するというのは、いまいちプライドも許さない。
放課後は図書室に移動することにした。
テスト期間でも何でもない今日は空いている。
テーブルも空いているものが圧倒的に多かった。
俺はどさりと椅子に腰掛ける。
半分ずつ持ってきていた資料を下ろし、緑澤は俺の向かいに座る。
周りには誰もいなかった。
史書の声も、遠くで聞こえる。
座ってから、緑澤は一言もしゃべらなくなっていた。
普段の、俺のよく知る、このチビの、高く、無駄によく通る声はない。
緑澤は正面から俺を見据えていた。
とがった目線に、俺は否応もなく、昨夜のことを思い出させられる。
昨夜、啓太郎にもらったチケットで赴いた宿でだ。
サービス業の店員と客という形で遭遇してしまった。
けれど、緑澤の立ち直りの素早さと、居直り具合は並じゃなかった。
「こんばんは。じゃ、お客さん、まずここ座って」
さらりと光沢のあるキャミソールの背を起こし、彼女はベッドのへりを指す。
目の前にあるものが信じられないでいる俺は突っ立ったままだった。
彼女は仕方ないなというふうに俺の手を引いて座らせた。
もともと短いが、耳に少しだけかかった髪を彼女はかき上げた。
え?
と、思う暇もなかった。
彼女は素早く俺のズボンのジッパーに手を伸ばしていた。
手をかけたところで俺はようやく我に返る。
「何してんだよ!」
俺の目の前にひざまづいた彼女は上目遣いに答えた。
「何って、決まってるでしょ?」
赤っぽい照明が彼女の肢体を照らしていた。
上からだと、つけていないも同然の下着の、その中も目に飛び込んでくる。
少し骨の浮いた、けれどそれなりにやわらかそうな白い肉。
ちょっと、やっぱり、まだ、信じ難い光景。
「決まって、るって……」
「しゃぶるのよ。そういうサービスなんだから。お客さんは黙って座ってイけばいいのよ」
「イ……」
絶句する以外何もできなかった。
彼女はここでようやく、自分が俺、西笹川高貴のクラスメイトである緑澤杏子であるという片鱗らしきものをのぞかせる言い方をした。それまで彼女は、こういった『店』に来る、初対面の『客』への応対であったのだ。
「そんなに私の顔を見るのが嫌なら、目隠しでもする? ここはそういうプレイ用のものも多少はそろえてあるわよ」
言って俺の前で膝をついていた彼女はすっと立ち上がる。
座った俺の鼻の先をすり抜けていく。彼女は部屋の一角にある小さな安っぽい棚の引出しを開ける。
すり抜けていく時、ふわりと甘く、しかし同時に鋭くも鼻腔を刺激していくものがあった。
香水だ。
本当に同一人物なのか。
普段まとわりついてくるあの緑澤はそんなもの、大人の女性御用達といったこんな香りとは無縁だ。
がちゃがちゃと引出しの中をあさっている彼女がいる。
小さな背中、骨の浮いた背中だ。
でも、どうしてか、着ているもののせいだろうか。
ちょっと我が目を疑うくらい柔らかな背中に見える。
ちょっと俺はどうにかしているかもしれない。
緑澤以上に自分もどうにかしているのかもしれない。
俺は両足に意思の力を込めた。立ち上がる。
「あ! ちょっと、待ってよ。こ……お客さんってば!」
振り向いた彼女が止めるのも聞かず、俺はその場を離れた。
部屋を出、地下から上がり、歓楽街を突っ切った。
無我夢中で駆けた。
そんなふうにして昨夜は終わった。
本人を目の前にしてトリップしてしまっていた俺が、我に返った時には、すでに緑澤から例の人懐っこい笑みは消えていた。
いつの間にか、周囲に生徒も失せていた。
テスト前でもないこの時期からすれば当然か。
けれど、こいつのこれは一体何なんだろう。
図書室備え付けの古びた長机に向かい合っている。少し手を伸ばせば、彼女の広げた資料になら届きそうな距離だ。
彼女は正面からじっと無言で俺の目の奥をのぞきこもうとしていた。
緑澤のよくする、無駄にぱちぱちと瞬きをしながら上目遣いに笑いかけるやり方ではない。
笑いも、俺への無条件な崇拝も、介在させない、ただ、そこにいる俺を、ただそれだけのものとして見つめる双眸があるだけだった。
「これ、返す」
無駄にはしゃいだ声音ではない。
落ち着き払ったトーンで彼女は言った。
「何?」
彼女が机の上を滑らせてきたのは、素っ気ない茶色の封筒。
「開けていいよ」
言われた通りのぞいてみる。
と、そこには一万円札が三枚収められていた。
「何、だよ、これ」
彼女はすっと細めた目のまま答える。
「昨日のお金」
「って」
「何もしないで帰った人からもらうわけにはいかないでしょう」
「俺は金なんか」
「払ってないんでしょ。わかってるよ。啓太郎のオゴリなんでしょ」
「啓太郎……知ってるのか」
「知ってるって? 私があそこで働いてること? そりゃ知ってるに決まってるじゃない。あなたを招待したのはあいつなんでしょう?」
「ああ……」
「あいつがあなたの分を前払いしてたらしいね。本当は三万じゃないんだけどね、店の方にもマージン入れるし。でも私がお客を取って、それで得られるぶんはそれだけだから。とりあえず私に返せる分は返しとく」
「こんなの、いらない、俺は」
「でもあなたのものだもの。口止め料として受け取ってもらってもいい。あ、言うの忘れたけど、他言無用ってわかってるよね、最初に釘さされたでしょ?」
「言うわけなんて、ないに決まってるだろ!」
「オーケー。それでもお金はいらないっていうんなら捨てるなり啓太郎に返すなりしたら? 私は、自分が働いてもないのにお金だけもらうなんてこと、自分で許せないからしないだけ」
俺は反射的に声をわずか張り上げていた。
「おい、緑澤!」
「どならないでよ。ここ、図書室だよ」
「お前、あんなとこで……あんなことやってるくせに、自分は間違ってないとでも言うのか」
自分でも、俺、何言ってるかわからない。
けれど言わずにはいられない。
こんな信じられないバカげた事態。信じられないこんな真実。
「あんな……そんな……。普段バカやってるだけのくせし」
「うるさい」
「緑さ……」
「だから?」
緑澤はうっとうしそうに前髪を払った。
同様に俺にも侮蔑らしき視線を投げた。
「私のやり方に難癖つけられる覚えはないね。御曹司は黙ってな」
俺は目を丸くすることしかできなかった。
そうすることしかできない自分がかなり嫌で、所詮こいつは緑澤だというのに、こいつ相手に少し度もってしまったことにもかなりむかついていた。だから思わず言っていた。
「何でお前があんなとこであんなことしてるんだよ」
ぴん、と。
緑澤の周囲の空気が緊張する。
怒気をはらんだものになる。
「あんたには関係ないだろ」
鋭く言いはしたが、声を発したのは確かに緑澤杏子そのものだ。
確かに俺の目の前にいるこの人物そのものだ。
紺色の制服、そのジャケットに身を包ませている、そのスタイルは俺のよく知っているもの、そのものだ。
けれど、決定的に違うその話し方。
いつもの緑澤、俺が振り払っても振り払ってもまとわり付いてくるそのやり方でもなく、また昨夜のあの濡れたように赤い唇から出された甘さを含んだ『女』のそれでもない。
ただただ乱暴な言葉で俺を射ようとする。
「私のやってることに口出しされる義理はないね、御曹司、あんたには」
すがめられた両目で言い……そう『御曹司』と。
彼女は立ち上がっていた。うすく開いたその目で俺を見おろす。見くだしているかのように。
「ちょっと待て。どこ行く気だ。この課題」
去りかけていた彼女は、緑澤はくるりと振り向き、そして口角をにっと上げた。
「きゃ、いっけなーい。キョーコってばわっすれちゃってたぁ!」
両手の指を組み、頬の横に持っていく。きらきらと目を輝かせるそんなポーズを作る。俺のよく知る緑澤杏子がそこにいる。
この変貌ぶりを目の当たりにしてしまった俺は何と反応していいやらわからなくなってしまう。一体どうなんてるんだこいつは。
「もぉ、キョーコ、ダメダメじゃんー。何のためにオンゾーシと組んだのかわっかんないぃ。高貴なお方、コーキサマとペア組んだのなんて、知性派がウリのコーキサマと世界史への考察を深めるタメなんかじゃないのよぉー。あわよくばテスト必勝法をご教授願っちゃおうかなーなんて思ったのよねー。ていうかー、毎月高額なお月謝を払ってまでガクシュージュクに通われてるオンゾーシの取り得なんて、学年首位って実績くらいのもんだものねー。いやん、キョーコったら気高きコーキサマの利用価値わかってるくせに、それをムシして帰っちゃおうとしたなんて、もうっ、ホントにバカバカバカーッ」
……おい。
教室や他の者の目がある時は、緑澤は高貴もよく知る、うざったい例の『緑澤』だ。
しかしレポート作成のため二人になり、そして周りに人がいなくなるとあの乱暴な口調に豹変する。
後者が地だということなのだろうか。
とにかく柄が悪い。口も悪い。
俺への評価が異様に低い。今までとは、そして俺以外の目あるところ以外とでは、正反対のことを言う。
「コーキくぅーん、スッゴイねえー。そういう発想の転換かああああああーっ! やっぱ目の付け所が違うんだよねええええーっ! カンドーだよぉ。コーキくんとペア組めてキョーコしあわせすぎーッ!」
と叫んだ直後にでも、どこかで二人きりになってしまえば、例えそこが学校内だとしても、彼女は口調をがらりと変える。
「御曹司の取りえってそれだけだもんな。オベンキョだけ。せいぜい私のためにも頑張って考察書いてくれよ」
二の句が告げないとはこのことだ。
ついでに言えば、どうやら緑澤の野望はいまだ潰えていない。
彼女の野望とはこれつまり。
「お気楽御曹司ごときにいつまでもやられてる私じゃないし。そろそろ本気出させてもらおうかなーなんて思ってるんだな」
「御曹司御曹司ってうるさいな。で、何だよ」
俺の家は確かに生活に困るようなことはないが、緑澤に御曹司と連発されるのは妙な感じでしゃくに障る。
「実力テストは来週だ」
「お。何、緑澤。俺様に勝とうとでも?」
「トーゼン。笑ってられるのも今のうちだ、御曹司。杏子様の実力見てな、御曹司。あんたのそばでけらけら笑ってるのも作戦のうちだぜ、御曹司。あんたのそばにまとわりつくのはあんたを常に射程距離に入れておくっていう作戦だぜ、御曹司。ま、見てな」
どんどん口調が悪くなる。
「緑澤、お前、作戦べらべらしゃべっていいのかよ。作戦なんだろ、作戦。あと、しつこいようだが、お前、御曹司御曹司って本当にうざい」
「どうせ私の本性なんてばれてんだから、てめえのそばで普段まとわりついてる理由くらい明かしといてやろうと思ってな。しっかし、それも私がてめえを抜くまでの話だ。実力テストの結果が発表されれば『キョーコの目標』としてのコーキくんはいなくなるからよ。安心しな、そうなったらもうてめえにゃ用はない。つきまとわねえよ」
なんて女だ。
本当に女か、このしゃべり方、こういうものの考え方。
ニヒルに笑って足を組み替える。
ふんぞり返って、目を細める。
いや、彼女は女。
緑澤杏子の裏の稼業はこの目で見た。
今も続けているのか。
けれど夜の顔は微塵も見せず、学校ではそれ以外の二つの顔を使い分ける。
他人の前での『コーキくんを慕うキョーコちゃん』。
課題の最中、二人の時の『勉強だけが取り得の御曹司をバカにしきった好戦的な好敵手』。
実力テストの結果が職員室前の廊下に張り出されたという情報が教室を駆け抜ける。
早速緑澤杏子の攻撃が開始された。
中間テストの時と同様にはしゃいでみせる。
「テストの結果出たんだってー、コーキくぅん。お供してもいいでしょおっ? 見に行こ!」
全身で俺は嫌だと叫んでいたが、それはおそらく、はた迷惑な無邪気さを前面に押し出す緑澤、実際は好戦的な好敵手である彼女が気付いていないわけはない。
テスト後の様子では、どうやら相当、出来に自信があるらしい。
今の緑澤のパフォーマンスは明らかに俺に対する宣戦布告だ。
俺は緑澤に腕を組まれ、半ば引きずられるようにして一階の掲示板に向かった。
ほとんどヤケクソな心境の俺を、クラスメイトは同情を込めた目で見送ってくれる。
第一回実力考査 第二学年 席次
一位 西笹川高貴 九八八点
一位 緑澤杏子 九八八点
「…………」
「…………」
こういう結果になるとは思っていなかった。
緑澤も同じだろう。
彼女が用意していた反応のパターンは二つしかなかったはずだ。
俺を抜いて首位に立ち、アコガレの人への憧憬を払拭してしまえた、というのが一つ。
逆に、残念ながらいつものように俺に負け、心の中では俺を激しく恨みながらも、顔ではアコガレの人を褒め称える、というのがもう一つ。
同点首位、というのはさすがに予想外。
緑澤だけじゃない。
俺にだって十分予想外。
緑澤の台詞じゃないが、なんだかんだ言っても、緑澤ごときに俺が負けるわけにはいかない。
普段以上にテストに備えたのだった。
数秒間は黙っていた緑澤だった。
しかし、彼女の順応の速さは伊達じゃない。それは俺も身を持って知ってしまっている。
「――す……っごーい。す、すごい……。すごいよぉ、コーキくんっ!」
「……ああ?」
「だって、すごいじゃない。あたし、初めてトップだよぉ……っ! しっ、しかも、コーキくんと同じ得点、同じに一位! すごい、すごい、すごいっ! あたしってすごいじゃん! コーキくんと同じだよぉっ!」
緑澤は両手を上げ、やったあやったあと飛び跳ねる。
掲示板を見に来た生徒の群れの中、一人で舞い上がっている。
周囲は、またあの名物コンビの片割れかという目で緑澤を見やるが、次に掲示板の一番上を確認し、彼女が首位タイであることに気付くと、西笹川高貴という彼女のアコガレの人と同じ得点を取れたのだから、その喜びようももっともなことかと勝手に納得するのだった。
彼女がぴょんぴょんと跳ねるたび、短い髪の毛先が頬に当たっている。
俺はいまいち信じられていないこの事態に呆然としながら、テストとはまったく別のことを考えていた。
あの時、『女』の彼女の髪はもっとしっとりと彼女の額や頬に張り付いていた。
流れた汗の名残だろうか。
汗を流すような行為を。
このチビガキが、ガキにしか見えない、女には見えない少女が。
今こんなこと考えるなんて俺はどうかしてる。
世界史のレポートも仕上がった。
テストの発表の日に最後まで書き上げることができた。
俺が原案を出し、緑澤の意見も織り交ぜて作ったそれ、清書したレポートを彼女は満足げにつまみ上げていた。
「さて、意外と御曹司も大したことなかったようだし、今回のコレも大成功だし、私の成績は上がるし、もう言うことないね」
「同点で、満足してるのか」
「まーさか。次は抜かすよ。当たり前じゃん。でも、ちょっとやれば、御曹司なんか実は十分勝てる相手なんだよねーということが、今回よっくわかったよ、ありがとね」
緑澤はかなり嬉しそうだ。
かなり朗らかに笑っている。
例のよって図書室には誰もいないものだから、彼女の天下だ。
けれど、俺もいい加減この乱暴な好敵手には免疫ができていた。
いちいち驚いているのもバカらしい。
これはこれで対処していかなければならない。
「言っとくけどな、俺がそう簡単にお前なんかにやられると思うなよ」
「お、言うじゃん、御曹司。あっさり同点許したくせによ」
「だから、御曹司はやめろって!」
こんな多重人格者には慣れたくないし、関わりたくもないはずなのだが。