本当に愛しているなら、女遊びぐらい許してくれる。そう友人が言ったから
「なあ、それ本気で言ってるのか?」
ルシオは友人であるディルクの言葉に思わず声を潜めた。周囲に聞こえたわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
「本気だとも」
ディルクは涼しい顔で答える。
「女が本当にお前を愛してるなら、女遊びぐらいで怒るはずがない。怒るとしたら、それはまだ愛が足りないってことだろ」
ルシオは返す言葉を見つけられなかった。
田舎の純朴な騎士家で育ったルシオと、王都の水で磨かれたディルク。正反対のはずの二人だが、なぜか馬が合った。
そんな彼らには共通点が一つある。どちらにも婚約者がいることだ。
「女がどこまで許すかで、愛の深さが分かるのさ」
ディルクは軽い調子でそう締めくくる。その妙に説得力ある言葉は、まるで人生の真理であるかのように、ルシオの胸に落ちていった。
レオノーラ・イスファルド。子爵家の令嬢で、ルシオの婚約者である。
二人の縁談は家同士が決めたものだったが、ルシオは彼女を嫌いではなく、むしろ、田舎育ちの自分には、もったいないぐらいしっかりした女性だと思っていた。
柔らかな栗色の髪、静かに考える眼差し。知的で大人しい印象だが、笑うと温かみのある顔になった。
従騎士として、ルシオが所属する騎士団では、月に数回の休息日がある。レオノーラはいつも時間通りに現れ、互いの近況を静かに交わす。
それは訓練中の出来事であったり、レオノーラが読む書物であったり、時には、将来の話に発展することも。
「いつか騎士団長になりたいんだ。俺の家柄だと無理かもしれないけどな」
「では武術はもちろん、人を采配する術を学ぶべきね。同期の得手、不得手を知るところから始めてみたら?」
否定も甘やかしもせず、ただ静かに諭してくる。レオノーラはいつもそうで、ルシオにはそれが心地よかった。
だからルシオは、ディルクの言葉を真に受けるつもりなどなかったのだ。
訓練後の打ち上げで城下町の酒場に繰り出した夜、隣のディルクがルシオと肩を組む。
「せっかくの酒場を楽しまないともったいないぞ?」
「酒は飲んでる」
「色気が足りてないな。あの娘はどうだ? さっきからお前を見てるぞ」
ディルクがあごをしゃくった方向を見れば、脈ありげにルシオを見ていた娘がぱっと顔を逸らす。
「関係ない。俺にはレオノーラがいる」
「場の空気を壊すなよ。少し話してみろ。婚約者に報告するわけでもないんだし」
そう言って、ディルクは酒場の二階へと別の娘を連れて消えていく。ルシオはその背中が見えなくなった階段を眺めながら、話すだけならと思った。
気がつけば、夜明け近くまで見知ったばかりの娘と、カウンターで肩を並べていた。
娘の名前を覚えてはいない。ただ、レオノーラと話す時とは違う、取り留めない笑いが続く時間だった。
帰り道、ご満悦といった様子のディルクがニマニマと笑みを浮かべて、
「どうだ、堅物なお前には知らない世界だったろ」
ルシオは何も言わなかった。胸の中にくすぶる罪悪感。しかし、それを消そうとしたのか、「たいしたことではない」と自分に言い聞かせる。
それがいけなかった。
堕落というのは沼みたいなものだ。最初の夜が「一度きり」、二度目に「前もあった」、三度目には「もう慣れた」になる。
何度目かの間に、娘と体を重ねてしまったルシオは、もはや、訓練後の夜をどこで過ごすか、あまり深くは考えなくなった。
「今夜はどうする?」
ディルクの誘いに応じて、顔なじみになった娘と、レオノーラとするように会話を楽しむ。
レオノーラとの逢瀬の回数は変わらなかったが、次第に話す内容は薄くなっていった。
「最近、訓練が厳しいの? 顔色が悪いわ」
ある時、レオノーラはルシオの顔をまじまじと見つめる。
「夜間の訓練が始まって……」
「そう」
レオノーラはそれ以上を追求しなかった。ルシオは内心ほっとしながら、同時にどこかで「許されている」と解釈する。
ディルクの言葉が頭をよぎった。
彼女は何も言わない。つまり、理解してくれている。彼の中ではそういうことになった。
数ヶ月もすれば、ルシオは「顔なじみの店」を複数持つようになっていた。行き着けの店で、気の合う娘と話す。それだけだから問題ないと、自分に言い聞かせながら。
しかし、その「それだけ」が徐々に壊れていく。
ある夜、酒場からの帰り道でばったり出くわしたのは、レオノーラの侍女であった。
ルシオは少し酔っていて、隣には、笑いながら腕に絡む娘がいる。
侍女と、伏し目がちですれ違う。その瞬間、ルシオは見られたような気がして振り返った。
遠ざかっていく侍女の足取りからは何も読み取れない。疑念を抱えたまま、彼女の背中を見つめていると、
「知り合い~?」
「いや……」
絡みながら問いかける娘に、酔いが覚めたようにルシオは答える。
その夜、彼はなかなか寝付くことができなかった。 あれは付き合いだ、ディルクに半ば無理やりに、と自分に言い聞かせ、 ようやく目を閉じることができた。
再び、レオノーラとの逢瀬がやってくる。今日は彼女の邸宅に招かれ、応接間へと向かった。
部屋に入ると、レオノーラは椅子に座り、いつものように本を読んでいる。
ルシオに気づくと、顔を上げて微笑んだ。
「久しぶりね」
「……そうだな」
お茶が運ばれてきて、二人はテーブル越しに向かい合う。
最初の数分は和やかに話が進んだ。けれど、だんだんとレオノーラの考える間が大きくなっていく。
「ルシオ」
名前を呼ばれて、ルシオはカップから目線を上げる。
「私に、何か言うことはある?」
落ち着いた声だった。行状を責めるわけでも、怒りを見せるでもない。ただ、静かに正面から問いかけている。
ルシオの胸がざわりとした。しかし、口から出たのは、正直な言葉でも謝罪でもなかった。
「何のことだ」
レオノーラは少し目を細める。また「そう」とだけ言って、カップに口をつけた。
帰り道、ルシオは、その一言が頭から離れなかった。何か取り返しのつかないことをしたような気がして、でも、それが何なのかまでは分からなかった。まだ……。
侍女がレオノーラに報告をしたかどうか、ルシオには確かめる勇気がなかった。しかし、その日を境に、レオノーラの何かが変わっていった。
冷たくなったわけでも、軽蔑されるわけでもない。だが、彼女の存在がどこか遠い。
以前のままの微笑みで、言葉も丁寧。時間通りにやってきて、帰っていく。けれど、以前にはあった、背筋が伸びるような言葉が少しずつ消えていった。
ルシオはそれに気づきながら、気づかない振りをする。夜の城下町に、足を運ぶ回数を減らしながら。
ディルクは相変わらずだった。ルシオがいてもいなくても、変わらずに夜の街を出歩く。たまたま一緒になったとき、彼の方から尋ねてきた。
「お前の婚約者はどうなんだ?」
「変わらないよ」
不穏な気配を切り出すこともできず、ルシオは糊塗するように言い募った。
「ふうん、寛大な人だな」
その言葉でルシオの感じていた不安が払拭される。そうやって、自身に都合のいい解釈を繰り返す。
変化が訪れたのは、木枯らしが吹く秋での面会。
その日のレオノーラは椅子には座らず、窓辺から、庭の枯れ木を見ていた。
「レオノーラ?」
「ルシオ」
振り返った彼女の顔はいつも通り。しかし、目だけが違った。どこまでも遠い目だった。
「婚約を解消したいと思います」
ルシオは一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「何を……」
「理由は言わなくても分かるでしょう? でも、あなたが知りたいなら話すわ」
「待ってくれ、急すぎる。どうしてなんだ」
「急ではないわ」
レオノーラが静かに言った。
「ずっと考えていたの。あなたが変わっていく間、ずっとね」
「変わっていない……」
「そう?」
また、その「そう」だった。けれど、今回は悲しみの色が混じっている。
「私はあなたを責めたいわけじゃないの。まして謝って欲しいわけでも、改めて欲しいわけでもない。けどね、私にはもう、続ける理由が見つからないの」
「レオ……ノーラ……」
「好きだったのよ、ルシオ」
過去形だった。それがルシオの胸をひどく苛む。
「長い間、待っていた。何かが変わるかもしれないと思って。でも変わらなかった。変わったのは私の気持ち」
彼女は小さな箱とともに、指から抜き取った指輪をテーブルの上に置いた。
それは婚約の証として交わした、ルシオの家紋が刻まれた指輪であった。
「お返しします」
「待ってくれ。俺は……確かに間違えた。でも、お前のことを大切にしていなかったわけじゃない」
「知っている」
レオノーラがうつむく。
「だからこそ、今がとても悲しいの」
それだけ言って、彼女は部屋を出る。静かに閉められた扉の音が、終わったことを告げ、残されたルシオはしばらく、外された指輪を見つめていた。
婚約解消の話は、驚くほど早く広まった。
イスファルド家が婚約を解消した話が、社交界の話題となり、当然、ルシオの側にも視線が向けられた。
――何があったのか、誰が悪いのか。
ディルクは友人の破談を聞いて、
「まあ、こういうこともある。お前は若いし騎士になれば、いくらでも縁談は来る。あまり引きずるなよ」
いつもと同じ軽い調子でディルクが慰める。しかし、今のルシオには、その軽さがひどく空虚であった。
同じ従騎士らの中でも噂はめぐった。同期が、「ルシオは愛想をつかされたらしい」といっているのを、廊下で耳にする。夜遊びにうつつを抜かした彼をあざ笑う者もいる。
ルシオはそれらを否定しなかった。できるはずもなかった。
さらに時が経って、ルシオはレオノーラに手紙を書いた。
自分が間違えていたこと、もう一度だけ話を聞いてほしいこと。レオノーラを失う恐れに震える腕を押さえ込みながら、何度も文字をにじませ、イスファルド家に届けた。
間をおかず、返事がやってくる。ルシオのそれに比べて、短い文章だった。
『読みました。あなたが気持ちを整理できたことを喜ばしく思います。けれど、私の答えは変わりません。どうかお元気で』
署名の上に、一行だけ文章が添えられている。
『これが最後の手紙となります』
ルシオは手紙を何度も何度も読み返し、もう以前の関係には戻れないのだと、ようやく理解することができた。
騎士としての位を授けられる少し前、風の噂でディルクのことを小耳に挟む。
ディルクも婚約を解消されたという。
当初、断片的にしか入ってこなかった事情も、従騎士らの噂で、おおよその輪郭が見えてくる。
ディルクはルシオより良いところの令嬢と婚約していた。王都でも、指折りの名門である侯爵家。その後ろ盾もあってか、ディルクは騎士団でも良いポストを約束されていたのだ。
ディルクの乱行に婚約者は、長いこと何も言わなかった。
しかし、ある日、侯爵家の使者がディルクの家を訪れる。携えていたのは短い書状と婚約指輪。
中に記されていたのは一行だけだった。
『娘の意思を尊重する』
ディルクはうろたえながらも、すぐに侯爵家へ赴き、話し合いの場を求めた。しかし、門前払いの上に、手紙を送っても返事はこず、とうとう婚約者と会うことができなかったという。
「あいつ、本気で意味が分からないって顔してたぞ」
そう言って同期が笑う。ルシオは笑えなかった。
話がそれだけなら良かった。しかし、まだ続きがある。
侯爵家が表立って何かしたわけではないが、王都の社交界は狭い。
噂が広まり、理由が知れ渡る。ディルクの夜の武勇伝は多くの人間の耳に入っていた。
ディルクが次の縁談を求めたのは、それから間もなくのこと。一つ断られ、二つ断られ、三つ目は取り合ってさえもらえない。
仲介を担ってくれた家もそっと手を引いた。
騎士団の配属では、ディルクが望んだポストには別の人間が就いた。同じ実力でも、後ろ盾を持つ者とそうでない者とでは扱いが変わる。それが王都というところだった。
田舎育ちのルシオでさえ知っていたことを、ディルクはなぜか、自分には関係ないと思っていたようだった。
「あいつはもう終わりだな」
「だけど、なんであんなに羽目を外したんだろうな?」
その疑問は、付き合いの深いルシオには分かる気がした。
ディルクは最後まで、自分の哲学を疑わなかったのだろう。相手が怒らないのを愛の深さと呼び、女遊びは男の甲斐性だと笑いながら。だから、相手が視界から去り、周りがディルクへの門戸を閉ざした時、初めて現実に直面したのだ。
そして、それはルシオにとっても他人事ではない。
彼も同じ場所に立っていた。レオノーラが残した一言。「好きだったのよ」という言葉から理由を考え、痛みの名前を知ることができたのだから。
ディルクには、その言葉がなかったのだろう。
哀れむ気持ちは、正直なところ湧かなかった。ただ紙一重で違う側にいた自分を、静かに噛みしめる。
ルシオはディルクと夜に出歩くことをやめた。理由を聞かれても、「疲れた」とだけ返す。それきり、ディルクとは疎遠になっていった。
レオノーラが縁談を受けたという話を聞いたのは、春の花が散るころだった。
相手はさる伯爵家の令息で、人柄も良いという。その話はからかい混じりに、騎士団の中で広まっていた。胸の奥に重苦しい何かが圧し掛かる。しかし、それを打ち明けられる相手が、ルシオにはいなかった。
その頃、ディルクの消息は完全に途絶えたようで、同期の騎士が廊下でぽつりと漏らす。
「ディルクの奴、王都から消えたらしく、行方知らずだってよ。お前も知らないのか?」
ルシオが静かに首を振る。
彼は本当に知らなかった。最後に見たディルクは、いつもの調子で、軽薄な笑顔のままだった。それが全てだった。
自分の論理が崩れ、後ろ盾を失い、社交界から締め出された後、静かに王都から逃げた。ルシオへの最後の一言すら残さなかった。
一方で、ルシオは逃げられなかった。騎士の位を授けられた後も、王都に留まり、日々、勤め続ける。
しかし、周囲からは腫れ物のように扱われ、縁談や酒の席に誘われることはない。
婚約を破棄された男というレッテルは今も、ルシオの背中に張り付いていた。
ふと、ルシオはディルクの言葉を思い返す。
『どこまで許すかで、愛の深さが分かるのさ』
違う、愛の深さなどではなかった。許される限界を超えた時、愛が尽きるのだ。
ルシオは気づいた。レオノーラが何を失ったのか。自分が何を壊したのか。愛や信頼というものがどれほど脆く取り返しのつかないものだったのか。
彼は成長した。遅まきながら、ようやく。だが、その成長が生かされることはない。
レオノーラはもういない。ディルクも消えた。後には周囲に避けられながら、淡々と剣を握る日々。
気づきは何の意味も持たず、犯した過ちが重く沈んだ心の底に在り続ける。それでも、ルシオは歩いた。レオノーラを裏切ったあの日から、一歩も進んでいないと知りながら。
いや、歩かざるを得なかった。逃げることも、捨てることも許されず、あてどもなく歩き続けるだけだった。




