第六話・後編:重なる一瞬、空っぽの器
森の澱んだ空気は、八歳の俺の肌にまとわりつく湿った重圧となって押し寄せていた。
三日間の内観を経て、俺の感覚はかつてないほどに研ぎ澄まされている。視界の端を、魔力という名の触手で撫でるだけで、周囲にある「核」の位置が、暗闇に灯る松明のように鮮明に浮き彫りになった。
正面に三匹。左右の茂みにそれぞれ一匹ずつ。
合計五匹のスライムが、俺という異物を排除せんと、水色の体を震わせながらじりじりと距離を詰めてくる。
昨日までの俺なら、最短の歩法で踏み込み、五回、木刀を振り下ろしていただろう。一回につき一匹。確実に、丁寧に、一対一の勝負を繰り返す。
それは格闘家としては正しい。だが、今の俺が求めている「効率」という名の怪物にとっては、あまりに怠惰な時間の浪費だった。
(……一を振って、すべてを討つ)
俺は中段に木刀を構え、深く腰を落とした。
五匹のスライムが、申し合わせたように同時に地面を蹴り、弾丸のような速度で俺へと跳ねてくる。
俺は、ただ一振りを放った。
鋭い横なぎの一閃。
物理的な木刀が描く弧は、正面にいる一匹の核を捉えるためだけのものだ。
だが、その動作の刹那。俺は脳内で、自分の意志を五つの独立した「断つ力」へと分割し、それを一振りの軌道に無理やりねじ込んだ。
一本の木刀。だが、そこに込める魔力は、サーチした五つの核を同時に撃ち抜くための多重攻撃として放たれる。
前世で、一秒間に数発のコンビネーションを叩き込んだ時の、あの思考の高速回転。
一を振る瞬間に、二を想い、三を放ち、四を重ね、五を完遂させる。
一動作の中に、五つの結果を強制的に封じ込める。
パパパパパンッ!
乾いた、しかし重厚な破裂音が、五つ同時に重なって森に響き渡った。
木刀が直接届いていないはずの左右、および後方の空間で、五匹のスライムの核が、まるで最初からそう決められていたかのように同時に弾け飛んだ。
一動作に、五つの死。
多重攻撃。
一を振り、複数を討つという、超効率の剣技が産声を上げた瞬間だった。
俺の脳を、これまでにない鋭く、熱い快感が走り抜ける。
自分の描いた理想の軌道が、世界の理をねじ伏せて「結果」を強制的に導き出したことへの、狂信的な達成感。
「……ああ、これだ。これこそが俺の求めていた――」
だが、歓喜の言葉を最後まで紡ぐ余裕すら、世界は与えてくれなかった。
どくん、と心臓が跳ね、視界が唐突に真っ白に染まった。
「……っ、が、あ……ッ」
膝の力が抜け、俺はたまらずその場に崩れ落ちた。
掌から木刀が滑り落ち、湿った土の上に乾いた音を立てて転がる。
全身の血管から熱が一気に吸い出され、代わりに凍り付くような虚脱感が細胞の隅々にまで入り込んできた。
魔力切れだ。
一動作に五つの意志を乗せるという、八歳の肉体にはあまりに過分な出力を、俺は無意識に引き出してしまったのだ。
心臓が、まるで酸素を失った魚のように激しく、不規則な拍動を刻んでいる。
指先一つ動かせない。
呼吸をするのさえ億劫になるほどの、凄まじい疲弊。
前世で過酷な試合を終え、アドレナリンが切れた瞬間のあの絶望感に似ている。だが、これは肉体だけの問題ではない。魂の芯にある「種火」が、一気に吹き消されたような感覚だった。
冷たい汗が額を伝い、視界が泥のように濁っていく。
森の湿った地面に這いつくばりながら、俺は荒い息を繰り返した。
自分の肺が空気を求めて軋む音が、あまりにうるさい。
《個体内の魔力枯渇を確認。……過剰出力による一時的な機能不全。強制的な休息を推奨します》
脳内に響く無機質な宣告が、今の俺の無様さを冷徹に告げていた。
(……笑わせるなよ。これしきのことで……)
俺は、震える右腕を地面に突き立て、泥を掴んだ。
確かに、今の俺は空っぽだ。一振りしただけで、立っていることさえできない。
だが、俺の胸の内にある火は消えていなかった。
一振りで五つを討てた。その事実は、この絶望的な疲労よりも遥かに重く、俺を突き動かす。
足りないのは、器の大きさだ。
一振りで五つなら、次は十、次は百。
そのためには、この枯れ果てた魔力の泉を、何度も何度も空にして、そのたびに大きく作り替えなければならない。
俺は、土の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと意識を内側へ向けた。
枯渇したからこそ、大気から染み込んでくる魔力の微かな熱が、逆によく分かる。
砂漠が雨を吸い込むように、俺の肉体が、森の澱んだマナを糧として再構築されていくのを感じる。
一分、十分、一時間。
どれほどの時間が過ぎたかは分からない。
だが、ようやく指先に力が戻った時、俺の脳内には新しい「数字」が刻まれていた。
《次段階への移行を承認。……目標ノルマ、一日百匹の設定を準備します。現在、未達成》
百。
今の俺にとっては、吐き気を催すほどの壁だ。
だが、いま俺が手に入れた「重なる意志」を磨き上げれば、それは単なる「作業」の通過点に過ぎなくなる。
一振りで五つなら、二十回振ればいい。一振りで十なら、十回で済む。
効率を上げれば上げるほど、俺の時間は自由になり、さらに深い反復へと沈むことができる。
「……いいぜ。まずは、そこからだ」
俺は、泥まみれの木刀を拾い上げ、再び立ち上がった。
脚はまだ震えている。魔力の残量は心許ない。
だが、サーチが捉える森の奥の「核」たちは、俺にとって恐怖の対象ではなく、自分を高めるための最高の報酬に見えていた。
一日に百。
この地道な、しかし確実な歩みの果てに、俺が何者になるのか。
システムの導きか、それとも俺自身の狂気か。
八歳の少年は、静かに、しかし確かな殺意を込めて、次なるスライムの群れへと歩み出した。
神代新の魂を宿した、効率の怪物。
そのレベリングは、いま、誰にも知られることなく、人知を超えた次元へと突入したのだ。




