第六話・前編:空っぽの器と、魔力の浸透
魔力切れという名の、底の知れない暗い淵に突き落とされた翌日。俺の肉体は、文字通り泥の塊のようになっていた。
指先一つ動かそうとするだけで、骨の芯から軋むような鈍い重痛みが走り、視界の端には常に薄暗い靄が立ち込めている。前世のリングで、どれほど凄まじい連打を浴び、意識を飛ばしかけた時でさえ、これほどまでに「魂が空っぽになった」感覚はなかった。
心臓は動いている。肺も空気を出し入れしている。だが、それらを動かすための根源的な「熱」が、一滴も残らず吸い尽くされたような、虚無の疲弊だ。
前世、世界タイトルの直前に行った、あの一滴の水分すら許されない過酷な減量。あの時の、脳が乾いて縮み上がるような感覚に近い。だが、今の絶望感はその比ではなかった。生命の維持に必要な最低限の火種まで、たった一振りの「遠当て」に注ぎ込んでしまったのだ。
だが、この不自由さこそが、俺にとっては最高の手がかりだった。
俺は、自宅の寝床でじっと天井の古い木目を見つめながら、自分の内側に意識を深く、深く沈めていった。
空っぽになった器。魔力という名の燃料が枯れ果てた肉体。
だからこそ、逆によく分かるのだ。
家の外、森の方から流れてくる湿った空気の中に混じる、微かな熱。それが皮膚の毛穴を通じて、ゆっくりと、しかし確実に俺の体内に染み込んでくる。
乾いた砂が水を吸い上げるように、俺の細胞が、大気中の魔力を取り込んでいく。
この回復の過程そのものが、俺にとっては新しい「トレーニング」だった。
(……無駄だ。今の吸い込み方は、あまりに効率が悪すぎる)
俺は、ただ寝ているだけという「非効率」を良しとしなかった。
たとえ指一本動かぬ状態であろうとも、意識だけはシャドーを止めない。
前世で、過酷な減量中に心拍数を自在に操り、スタミナの消費を最小限に抑えるための呼吸法を磨き上げたように、俺はこの異世界の魔力を「最も効率よく取り込み、淀みなく循環させる」ための型を、寝ながらにして模索し始めた。
吸う息と共に、外にある熱を一点に引き寄せる。
吐く息と共に、体内に残る疲労の澱みを吐き出し、純粋な魔力だけを丹田に溜める。
脳内システムの声は、今は聞こえない。
だが、俺の感覚は、正解に近づくたびに肉体が僅かに軽くなり、指先の冷えが解消されていくのを敏感に察知していた。
一秒、また一秒と時間をかけ、肺の膨らみ、血管の拍動、そして魔力の流れを完全に同期させていく。
二日目。
俺はようやく、自分の腕で上体を起こすことができた。
母親が心配そうに粥を持ってくるが、俺はそれを一口ずつ、喉を通る熱がどう魔力に変換されるかを確かめながら飲み干した。
腹が満たされるにつれ、枯れ果てていた魔力の泉に、再び澄んだ水が溜まっていく。
だが、今度はそれをただ溜めるだけではない。
体内の隅々、細い血管の末端に至るまで、魔力を「馴染ませる」作業を並行して行う。
前世、打たれ強い肉体を作るために、何度も何度も硬い道具で皮膚を叩き、神経を麻痺させ、筋肉を密にしたあの「鍛錬」と同じだ。
魔力を通すための「路」を、この幼児の肉体に無理やり、かつ精密に刻み込んでいく。
三日目。
俺は再び、庭の土を踏みしめていた。
手には、あの親父から贈られた樫の木刀。
八歳の子供の腕には、まだその質量は小さくない。だが、今の俺にとって、木刀は単なる木の棒ではなかった。
魔力を通し、増幅し、そして放つための、己の神経の延長線上にあるものへと変わりつつあった。
俺は、一気に魔力を放出した前回の失敗を、決して繰り返さない。
正眼に構え、ゆっくりと、呼吸に合わせて木刀を振り下ろす。
その動作に合わせて、体内に溜まった熱を細く、鋭く、木身の先へと流していく。
ドロリとした重い奔流ではなく、針の穴を通すような精密で薄い流れだ。
一回。
十回。
百回。
ただの素振り。
だが、その一振り一振りに、魔力の操作を完璧に同期させる。
一万回振るなら、一万回すべてで全く同じ魔力の流れを作らなければならない。
前世で、ジャブ一発の精度を上げるために、何十万回とサンドバッグを叩き、自分の肉体を機械のように作り替えた時の狂気が、いま、異世界の理と完全に噛み合おうとしていた。
一振りごとに、手のひらから木刀へ、魔力が染み込んでいく。
樫の木が、俺の魔力によって「焼き固められていく」ような、独特の手応え。
ただの素振りが、次第に空気を震わせ、周囲の温度を僅かに引き上げていく。
それは風を切る音ではなく、魔力が空気に干渉し、空間そのものが軋みを上げる音だ。
千回を超えたあたりで、俺の周囲の景色が変わり始めた。
ただ振るだけで、俺の足元から同心円状に魔力のさざ波が広がり、それがサーチの網となって周囲の情報を連れてくる。
庭の隅に隠れている羽虫。
生垣の陰で縮こまっている小動物。
そして森の境界線、その奥深くに潜む、数えきれないほどの「気配」。
それらすべての中心にある「核」が、目を閉じていても、鮮明な光の点として脳裏に焼き付く。
昨日のような「視界外に意識を飛ばす」無理なサーチではない。
呼吸と同じように、自然に、かつ強固に世界を把握する感覚。
(……よし。器は、少しだけ大きくなった)
俺は木刀を腰に差し、再び村の外、森へと向かった。
空っぽになった器を満たし、さらに頑強に作り替えた三日間。
その成果を試すための、実戦という名の「仕上げ」の時間がやってきた。
境界線を越え、魔力の澱む森の奥へ。
一歩踏み出すごとに、俺のサーチはさらに深部へと潜り込み、獲物の位置を特定していく。
二十五匹。
システムが課したその数字が、今の俺にはあまりにも少なく、あまりにも退屈なものに感じられていた。
俺が求めているのは、もっと圧倒的な「反復」の場だ。
茂みの陰から、水色の粘体たちが這い出してくるのが分かる。
一つ、二つ……ではない。
俺の研ぎ澄まされた感覚は、その周囲に群れをなして潜む、五つ以上の核を捉えていた。
「……待たせたな」
俺は中段に木刀を構え、静かに息を吐き出す。
一を一として討つ時期は、もう終わった。
一を振って、すべてを討つ。
その効率の極致へと至るための、最初のラウンドが始まろうとしていた。




