第五話:見えぬ標的と、遠き一振り
二十五匹のノルマを終えた翌朝、俺の体には正体不明の熱が居座っていた。
庭に立ち、木刀を構えても、いつものような静かな集中が訪れない。
心臓の鼓動とは別に、血管の裏側をドロリと重い何かが這い回っている感覚。
それは不快ではなかったが、行き場を失った力のように、俺の肉体を内側から押し広げようとしていた。
俺は目を閉じ、その熱の動きをじっと追いかけた。
脳内の声は、今は聞こえない。
だが、意識を深く沈めていくと、自分の指先から足の裏まで、その熱が魔力という名の粘り強いエネルギーとなって巡っているのがはっきりと分かった。
木刀を握る掌から、その熱がじわじわと木身へ染み込んでいく。
ただの樫の棒が、俺の体温を吸って、まるで自分の骨の一部になったかのような錯覚を覚える。
(……見える。いや、感じるのか)
目を閉じたまま、俺は周囲の気配を探った。
これまでは、前世の勘に頼った野性の感覚でしかなかった。
だが、今は違う。
体内の熱を外側に薄く広げるイメージを持つと、視界を塞いでいるはずの瞼の裏に、庭の情景が「気配の濃淡」として浮かび上がってきた。
生垣の陰、石の裏、さらには土の中に潜む小さな虫たちの鼓動。
それらが、暗闇の中に灯る火のように、打つべき標的の核として鮮明に浮かび上がる。
魔力感知。
視界に頼らずとも、周囲の状況を全方位から把握できる、効率化のための第一歩だった。
俺は目を開け、数歩先にある古い木の幹を見つめた。
そこには一匹の羽虫が止まっている。
木刀の先が届く距離ではない。
これまでの俺なら、最短の歩法で踏み込み、その間合いを潰してから振り下ろしていた。
だが、今の俺が求めているのは、そんな一対一の正直なやり取りではない。
一歩も動かず、視界に入る全ての敵を、その場から仕留める。
一を振り、一を討つという常識を越えるための、遠距離への干渉。
「……あそこまで、この熱を飛ばす」
俺は静かに木刀を正眼に構えた。
ただ振り下ろすのではない。
体内の熱を、木刀の切っ先、その一点にまで凝縮させる。
重い力が腕を通り、木刀の先端で爆発的な密度となって固まるのを感じる。
そして、振り下ろす動作と同時に、その凝縮された「断つ」という意志を、前方へと力任せに放り出した。
木刀そのものは、空を切った。
乾いた風の音だけが鳴る。
だが、その軌道の延長線上で、目に見えない空気の塊が鋭く撃ち出された。
パシィィン!
数歩先にある木の幹から、乾いた破裂音が響いた。
そこに止まっていた羽虫が、直接叩かれたかのように核を砕かれ、姿を消す。
木刀が届かないはずの空間を、俺の放った魔力の礫が走り抜けた証拠だった。
遠当て。
この世界の理を使えば、俺の間合いは、俺の視界が届く全ての範囲にまで拡張される。
これなら、一匹ずつ近づく手間を省き、複数の敵を同時に、あるいは連続してその場から処理できる。
これこそが、俺が求めていた答えの片鱗。
俺は確信を持って、もう一度木刀を構えようとした。
だが、その直後だった。
全身から、一気に血の気が引く感覚に襲われた。
「……っ、ぐあ」
急激な立ちくらみが視界を白く染める。
膝から崩れ落ち、俺は庭の土に両手をついた。
激しい呼吸が止まらない。
喉の奥が焼け付くように熱く、体中の水分が枯れ果てたような、凄まじい虚脱感。
前世で、過酷な減量を経て十二ラウンドを戦い抜き、リングを降りた直後の感覚に似ていた。
いや、それよりももっと根源的な、魂の芯にある燃料が空っぽになったような、底の見えない疲弊。
《個体内の魔力枯渇を確認。――魔力循環の未熟さゆえの疲弊。休息を推奨します》
脳内に響く無機質な宣告が、今の俺の状態を冷徹に告げた。
魔力切れ。
便利だが、あまりに使い勝手が悪すぎる。
一振り、たった一振りの遠当てで、八歳の俺の肉体は限界を迎えてしまった。
(……ふっ、はは。……なるほど、な)
泥のような疲れの中で、俺は力なく笑った。
強力な武器を手に入れたが、それを使いこなすための基礎体力が、今の俺には全く足りていない。
ただ素振りを繰り返すだけではダメだ。
この魔力を練り、枯らし、再び溜めるという循環そのものを、反復の一部に組み込まなければならない。
効率を高めるためには、まずこの貧弱な器を鍛え直す必要がある。
俺は地面に這いつくばったまま、重い瞼を閉じた。
今日はもう、指一本動かせそうにない。
だが、俺の胸の内では、新たな課題を見つけた勝負師の喜びが、静かに燃え上がっていた。




