第二十三話:静寂の原生林、王宮の震え
翌朝、王室直轄の禁忌領域『常闇の揺り籠』を包んでいたのは、かつてないほどに透き通った、不気味なまでの静寂だった。
数千年の時をかけて積み上げられてきた魔力の澱み。日光さえ遮る巨木の天蓋の下に満ちていた、あの肌を刺すような濃密な熱が、一夜にして霧散していた。
俺は、湿った土を踏みしめながら、周囲のサーチを広げた。
《新領域内の個体反応、激減。……昨夜の掃討により、再生速度を破壊速度が上回ったと推測されます。周辺の魔力濃度、平地の三割増しまで低下》
脳内に響く無機質な報告。
俺は、空っぽになった森の奥を見渡し、小さく息を吐き出した。
「……少し、空気が薄くなりましたね。作業のやりすぎでしょうか」
俺にとっては、ただの掃除の結果に過ぎない。
一を振り、千を重ねる。昨夜、あの霊体の巨躯を解体する過程で掴んだ感覚を忘れないよう、俺は移動しながらも指先の魔力循環を絶え間なく微調整し続けていた。
一振りごとに、数百、数千の核を同時に、かつ事務的に断ち切る。その反復の果てに、この森の生態系は、俺という一人の「作業者」によって一方的に書き換えられてしまったのだ。
王都へ戻る帰路。
同行していた騎士レオンは、かつての傲慢なまでの自信をどこかに置き忘れてきたようだった。彼は銘剣を腰に差し、俺の三歩後ろを、まるで主の後を追う従者のように、一言も発さずについてくる。
エルナたちもまた、俺の隣を歩くことさえ畏れ多いと感じているのか、一定の距離を保ったまま、怯えたような、それでいて縋るような視線を俺の背中に投げかけていた。
王都の北門をくぐる際、衛兵たちが血相を変えて走り回っているのが見えた。
「守護竜の気配が消えたぞ!」「奥地で何が起きたんだ!」
怒号が飛び交う中、俺はそれら全てを背景の雑音として切り捨て、真っ直ぐにギルドへと足を向けた。
ギルドの解体所。
俺は、昨夜の残りと、あの「残影」が遺した巨大な魔石を、受付の台の上にドスンと置いた。
「……昨日の分と、途中で邪魔をしてきた大きな個体の分です。換金をお願いします」
解体担当の男が、その素材を一目見た瞬間、椅子から転げ落ちた。
彼の指が、千の意志によって「細胞単位で断裂した」霊体の残骸に触れる。
「……なんだこれは。切り口がない。いや、すべてが切り口なのか? 刃物で斬った跡じゃない。これは、この世界の理そのものを剥ぎ取ったような……」
職人としての矜持を粉々に砕かれた男は、最後には発狂せんばかりの形相で作業台から逃げ出した。
俺にとっては、核を砕くための最も抵抗の少ない道筋を選んだ結果に過ぎない。だが、その「極限まで無駄を省いた破壊」は、見る者にとっては、神の悪戯か、あるいは底知れぬ災厄の爪痕にしか見えなかった。
騒ぎは、瞬く間にギルド全体を飲み込んだ。
その渦の真ん中で、俺が報酬の計算を待っていると、ギルドの重厚な扉が再び勢いよく開け放たれた。
入ってきたのは、金銀の装飾を施した白銀の鎧――王宮近衛騎士団の一団だった。
「シン・カミシロ。……国王陛下がお呼びだ。守護竜の討伐、および森の浄化。その真偽を、陛下直々にお確かめになる」
使者を名乗る男の、尊大な声。
周囲の冒険者たちが、戦慄して道を開ける。
だが、俺の胸の中にあったのは、誉れなどではなく、純然たる不快感だった。
「……陛下をお待たせするな。今すぐ、我らと共に城へ来い」
急かしてくる男に対し、俺は脳内の作業予定表を確認し、首を振った。
「……今日のノルマを終えてからでもいいですか? お偉いさんと話しても、俺のレベルは上がりませんので。時間の無駄です」
ギルド中が、呼吸を忘れたように静まり返った。
近衛騎士の男が、怒りで顔を真っ赤にし、柄に手をかける。
その一触即発の空気を割ったのは、二階から下りてきたガルドの太い声だった。
「待て、騎士様。こいつは、自分が納得しねえ限り一歩も動かんぞ」
ガルドは俺の肩に手を置き、低い声で耳打ちした。
「……行け、シン。王宮の宝物庫には、お前のその真剣でも折れない、伝説の鋼があるかもしれん。……この街周辺のゴミを千匹狩るより、その一本を手に入れる方が、お前の先にはプラスになるはずだ」
俺は、ガルドの言葉に視線を動かした。
折れない、伝説の鋼。
一を振り、千を重ねる俺の今の段階では、今の真剣ですら、その密度を完全に受け止めるには心許ないと感じ始めていたところだ。
「……それなら、行く価値はありますね」
俺は事務的に頷き、金貨の袋を受け取ると、そのまま近衛騎士たちの前を素通りして外へ出た。
汚れの付いていない継ぎ接ぎの服。腰には、黒い真剣。
王城という名の新しいリングへ向かって、俺は淡々と歩き出した。
《個体名:シン・カミシロ。王権領域への接触を開始。……周辺に高密度の『知性を持つ標的』を多数検知。情報の仕分けを継続します》
脳内に響く声。
俺は、視界の端で光り輝く巨大な城の尖塔を見つめた。
あそこには、どんな頑強な的が、どんな未知の反復が待っているのか。
王城への石畳を叩く一歩一歩が、俺の新しいレベリングの鼓動となって、静かに、しかし力強く響いていた。




