第二十二話:霊体の解体、千の重畳
『常闇の揺り籠』の深淵から這い出してきたその存在は、もはや生物という枠組みを超えていた。
守護竜の残影。
日光を遮る巨木の隙間から漏れる僅かな光さえも吸い込むような、半透明の黒い巨躯。それは実体を持たぬ魔力の塊でありながら、その周囲にある草木を、触れることもなく腐敗させ、塵へと変えていく。
「……馬カな、剣が通らぬ……ッ!」
騎士レオンが、決死の覚悟で放った渾身の一撃。王宮の精鋭が振るう銘剣は、しかし、ドラゴンの胴体を何の手応えもなく空虚にすり抜けた。
レオンは体勢を崩し、信じがたいものを見る目で自分の剣を見つめた。物理的な刃が、そこに「在る」はずの敵を捉えられない。それは剣士にとって、世界そのものに拒絶されたに等しい絶望だった。
ドラゴンが、形を失った顎を大きく開き、無音の咆哮を上げた。
その衝撃波だけで、エルナたちは耳を塞ぎ、地面に這いつくばる。物理攻撃が効かず、一方的に命を削り取られる恐怖。彼女たちの瞳からは、戦う意志が急速に失われていった。
だが、俺のサーチが捉えている世界は、彼女たちの絶望とは全く別の色をしていた。
(……なるほど。物理的な肉体がないということは、外部からの抵抗を無視して、俺の意志を直接叩き込めるということか)
俺は冷静に、その巨大な霊体の構造を分析した。
通常の魔物は、厚い皮膚や硬い骨が、俺の魔力の浸透を僅かに阻害する。だが、この「残影」にはそれがない。核を包む魔力の衣を剥ぎ取り、その中心にある凝縮された芯を叩き潰せばいい。
鉄の剣の硬度や、標的の肉の厚さを気にせず、ただ純粋に自分の意志の密度だけを際限なく高められる。
俺の胸の奥で、かつてリングの上で強敵と相対した時のような、静かな熱が沸き上がった。
厄介な敵ではない。これは、俺の魔力操作の精度を試すための、より高等で、より頑強な「最高の的」だ。
「レオンさん、下がっていてください。そこだと、俺の『作業』の余波で、あなたの魂まで持っていかれますよ」
俺は、膝を突くレオンの横を通り過ぎ、真剣を正眼に構えた。
これまでの「百」では足りない。
俺は、体内にある全ての熱を、黒い鋼の芯へと一気に収束させた。
一を振り、千を重ねる。
脳内で、自分の意志を一気に千の断片へと研ぎ澄ませていく。
これまでの反復のすべてを、いま、この一瞬の動作に重畳させる。
過負荷に近い魔力の密度に、真剣の刃が白く、冷たく発光し始めた。周囲の空気が、あまりの重圧に凍り付いたような静寂に包まれる。
守護竜の残影が、俺という異物を排除せんと、腐敗の魔力を纏って突進してきた。
俺は、ただ静かに、一振りを放った。
物理的な斬撃ではない。
空間そのものを、千の「断つ意志」で塗りつぶすような、重厚な断裂。
パシィィィィィィン……ッ!
音が、消えた。
あまりに重なりすぎた衝撃が、音という現象さえも置き去りにした。
ドラゴンの霊体が、俺の剣が通った場所から、精密なパズルのように音もなく切り分けられていく。
千の刃が、同時に、かつ正確に霊体の構造を解体し、中心にある核を塵一つ残さず粉砕した。
叫び声さえなかった。
王宮の禁忌とまで呼ばれた守護竜の残影は、一秒後には、ただの巨大な純粋魔石へと姿を変え、地面にドスンと転がっていた。
《個体内の魔力操作、極限を突破。……『千界』の初動を確認しました。レベルアップです》
脳内に響く無機質な報告。
俺は、自分の右手が僅かに震えているのを見つめた。
恐怖ではない。
新しい技術、新しい「作業」の次元を掴み取ったという、狂信的なまでの確信による震えだ。
「……九百八十。あと二十、重なりが甘かったな」
俺は真剣を鞘に収め、一滴の汚れも付いていない手を握り直した。
背後では、レオンが完全に膝を突き、剣を杖代わりにして呆然と俺の背中を見つめていた。
もはや嫉妬も、疑念も湧かないのだろう。
彼が一生をかけて積み上げてきた「騎士の剣」が届かなかった場所で、目の前の少年は、ただの「反復」の延長として、世界を書き換えてしまった。
その絶望的なまでの実力差に、彼のプライドは粉々に砕け散っていた。
「シン……あなた、本当に……」
エルナが、震える声で俺を呼ぶ。
「……よし。ノルマに戻りましょう。今の感覚が消えないうちに、あと三千匹は終わらせたいんです。時間は、まだありますから」
俺は落ちた巨大な魔石を、道端の石ころでも拾うように無造作に回収し、そのまま森のさらに深部へと歩き出した。
竜を屠った英雄の誕生ではない。
ただの、作業効率を追求し続ける怪物の、さらなる加速。
八歳の冬に始まったあの反復が、いま、千の意志を宿して、この世界の理を蹂躙し始めた。
俺の「練習」を阻むものは、もう、この森には存在しなかった。




