第二十一話:一振りの百界、騎士の沈罰
王宮の騎士団が管理する禁忌の領域『常闇の揺り籠』。その境界を越えた瞬間、俺の全身の毛穴が歓喜に震えた。
大気中に漂う熱の密度が、王都の街中とは比較にならないほどに濃い。かつて村を囲んでいたあの「聖域」に近い、肌にまとわりつくような重厚な魔力の奔流。
同行しているエルナやメルたちは、その異常な気圧に圧倒され、呼吸を乱している。
白銀の鎧を纏った若い騎士――レオンもまた、兜の奥で険しい表情を浮かべ、腰の銘剣に手をかけていた。
「……少年、ここからは遊びではない。この森の魔力濃度は、常人が正気でいられる限界を超えている。これより先は私が先陣を切る。君たちは私の後ろに下がっていろ」
レオンが、騎士としての誇りを込めた声で告げる。
彼は迷いのない動作で抜刀し、俺の前に立ちはだかった。その立ち振る舞いには、王都の精鋭としての確かな鍛錬の跡が見える。
だが、俺のサーチが捉えている世界は、彼の認識とは絶望的なまでに乖離していた。
《新領域、同期完了。……周辺個体反応、計測不能なほど多数。……前方、左右、そして頭上。合計百二十八の核を確認》
脳内に響く無機質な報告。
俺の感覚では、既に森の闇に潜む無数の視線が、俺たちの急所を正確に射貫いている。レオンが「一対一」の決闘を想定して構えるその足元にも、木の根に擬態した捕食者が口を開けて待っているのだ。
「……邪魔ですよ。そこ、俺が振り抜く軌道上なので」
俺は、立ち止まろうとするレオンの肩を無造作に押し退け、さらに一歩前へ踏み出した。
「なっ、貴様、何を――」
レオンが怒声を上げようとしたその瞬間、森の静寂が、一斉に解き放たれた「殺意」によって塗りつぶされた。
茂みが爆ぜ、樹上の葉が舞い、あらゆる影から魔物たちが一斉に躍り出てくる。
俺は、腰の真剣の柄に指をかけた。
《個体内の魔力循環、最大。……一動作に百の意志を投影します。――『百界』、開始》
抜刀。
ただ一振りの横一閃。
物理的な鋼の刃が描いたのは、俺の正面にあるわずか数メートルの円弧に過ぎない。
だが、その一瞬の動作に、俺は三年間で数千万回繰り返した反復のすべてを注ぎ込み、百の「断つ意志」を四方八方へと一気に放出した。
一を振る瞬間に、百の座標へ魔力の刃を届かせる。
パパパパパパパパパンッ!
乾いた、しかし重厚な弾ける音が、一秒の間に百回重なり、森の空気を激しく震わせた。
レオンが剣を中段に構え直すよりも早く。
エルナが弓に矢を番えるよりも早く。
周囲三百メートルを埋め尽くしていた魔物たちの核が、例外なく、同時に、そして事務的に粉砕された。
断末魔の叫びすら聞こえない。
ただ、そこにあったはずの「命」が、俺の一振りに呼応して一斉に霧散し、消滅していく。
舞い落ちる木の葉さえ、その魔力の余波に断たれ、地面に落ちる前に粉へと変わった。
静寂。
森には、再び不気味なほどの静けさが戻った。
「………………は?」
レオンの声が、情けなく裏返った。
彼は抜き放った銘剣を構えたまま、自分の周囲から忽然と消え失せた「敵」の気配を探し、呆然と立ち尽くしている。
彼が想定していた「死闘」は、俺の「一振りの作業」によって、始まる前に終焉を迎えていた。
「……百二十八。少し、撃ち漏らしましたね。角度の調整が必要です」
俺は真剣を鞘に収め、一滴の返り血も浴びていない衣服を整えた。
落ちた魔石を拾うことさえしない。そんなことをしていては、今日の五千匹というノルマに響く。俺が求めているのは、この「百界」の精度をさらに高め、一振りで全ての気配を掃き清める次元へと至ることだけだ。
「あなた……今、何をしたのよ」
エルナが、縋り付くような目で俺を見つめる。
「ただの掃除です。……先を急ぎましょう。ここなら、いくら間引いても補充されると聞きましたから。次の群れが来る前に、少しでも数を稼いでおきたいんです」
俺は立ち止まらず、さらなる澱みが溜まる森の深部へと歩み出した。
背後で、レオンが力なく剣を納める音が聞こえる。
王都の精鋭として、守るべき対象だと思っていた少年が、自分たちの理解を遥かに超えた場所で「作業」をこなしている。その事実に、彼のプライドは完膚なきまでに打ち砕かれたようだった。
だが、森の深淵は、俺のこの「一方的な蹂躙」を良しとしなかった。
あまりに異常な速度で生態系が間引かれたことで、この森の心臓部で眠っていた、古の守護者が目を覚ます。
ズゥゥゥゥン……。
地面の底から響くような、重低音の唸り。
レオンの顔が、恐怖で青白く染まっていく。
「……守護竜の残影。なぜ、こんな入り口付近に……!」
物理攻撃を透過させ、触れるものすべてを腐敗させる半霊体の強敵。
絶望に染まる一同を余所に、俺は再び、真剣の柄を握り直した。
「……物理が効かない。つまり、核を直接叩くための魔力の精度だけが問われるわけですか」
俺にとっては、それは厄介な敵ではなく、自分の魔力操作を試すための、より高等で頑丈な「的」に過ぎない。
……至福い……
俺は静かに、しかし冷徹なまでの執念を瞳に宿し、闇の向こうから現れる巨大な影を見据えた。
「……よし。ようやく、少しはまともな練習ができそうだ」
効率の怪物による、本当の意味での「高等訓練」が、いま幕を開けようとしていた。




