第十八話:断絶の峡谷、巨大な的
王都の北側に位置する断絶峡谷は、切り立った岩肌が天を突くようにそびえ立つ、自然の要塞だった。
道は細く、足元には鋭い岩が転がっている。村を囲んでいたあの湿った森とは違い、乾燥した風が吹き抜け、肌を刺すような冷たさがある。だが、俺のサーチが捉える情報の密度は、村のそれをも凌駕していた。
《周辺個体を確認。……前方、岩影に小鬼三。上空、崖の淵に鳥型二。……移動を優先し、一振りに五つの意志を重ねます》
脳内に響く無機質な報告を、俺は歩みを止めることなく聞き流す。
背後には、必死に俺の歩調についてくるエルナ、メル、セシルの三人。彼女たちは、これから対峙する「暴君」への恐怖からか、顔色を失い、武器を握る手も心なしか震えていた。
だが、俺は一度も振り返らない。
パパパパパンッ!
すれ違いざまに放たれた一振りが、岩影から飛び出そうとした小鬼たちの核を正確に射貫く。
上空から急降下してきた鳥型の魔物も、俺が木刀を天に向かって軽く振るだけで、その翼を広げる間もなく霧散していった。
俺にとって、これらは単なる「作業効率を落とす障害物」でしかない。
道を掃き清めるように進む俺の背中を見つめ、エルナたちは言葉を失っていた。彼女たちがこれまで「冒険」と呼んでいた命懸けの道程が、俺の手にかかれば、ただの「清掃作業」に成り下がっていたからだ。
峡谷の最深部、すり鉢状になった広大な広場へと辿り着いた時、世界が物理的な振動を伴って震えた。
ゴォォォォォォォォォッ!
山をも揺らす、巨大な咆哮。
岩壁の奥から姿を現したのは、全身を鋼のように硬い剛毛と、幾重にも重なった厚い皮膚で覆った、五メートルを優に超える巨大なオークだった。
オーク・ディザスター。
かつて王都の騎士団を退け、この街道を死の道へと変えた「暴君」。
奴が手にした巨大な岩の棍棒が、地面を叩くだけで地響きが起き、周囲の岩が砕け散る。
「……出た。あれが、暴君……」
エルナが、弓を構えたままその場にへたり込んだ。
魔法使いのメルも、聖職者のセシルも、その圧倒的な存在感に気圧され、祈ることさえ忘れて立ち尽くしている。
だが、俺は、その巨躯を前にして、静かな充足感を覚えていた。
「……なるほど。確かに核が大きくて狙いやすい。それに、これだけ肉が厚ければ、すぐには壊れそうにないですね」
俺の呟きは、誰の耳にも届かなかっただろう。
オーク・ディザスターが、小さな侵入者を認識し、殺意に満ちた濁った瞳を俺に向けた。
奴が咆哮と共に、山のような棍棒を振り下ろす。
ドォォォォンッ!
俺が立っていた場所が粉々に砕け、土煙が舞い上がる。
だが、俺は既にその攻撃の軌跡を読み、最小限の足さばきで真横へと逃れていた。
俺は腰の真剣を、ゆっくりと引き抜く。
黒光りする鋼の肌が、冬の太陽の下で鈍く、不気味な輝きを放った。
「……一振りで終わらせては、わざわざここまで来た意味がない」
俺は、サーチで捉えた奴の「核」を、あえて視界の端へと追いやった。
狙うのは、急所ではない。
鋼よりも硬いと言われる、その厚い腹部。
何度切り裂いても、魔力によって即座に塞がるという、奴の圧倒的な再生能力。
それこそが、俺が求めていた「最高の条件」だった。
俺は、踏み込んだ。
一を振り、十を討つ。いや、足りない。
一を振り、二十。三十の意志を重ねる。
バババババババババッ!
肉を叩く鈍い衝撃音が、数秒の間に数百回重なって峡谷に反響した。
俺は、奴の巨躯の周りを円を描くように高速で移動しながら、ただひたすらに「肉の厚い部分」へと打撃を叩き込み続けた。
斬り裂くのではない。
一振りに込めた多重の魔力を、奴の硬い皮膚を通し、内部の筋繊維へと直接透過させる。
傷は即座に塞がる。だが、塞がる瞬間に、俺の次の十撃が同じ場所を叩く。
三年間、村の庭で繰り返してきたあの「サンドバッグ打ち」が、いま、この生きた巨躯を相手に再現されていた。
オーク・ディザスターは、戸惑っていた。
目の前の羽虫のような人間を叩き潰そうとしても、その姿を捉えることさえできない。
ただ、自分の体中から、経験したことのない、芯まで響くような鈍い衝撃が絶え間なく沸き起こり、肉体の機能を少しずつ削り取っていく。
エルナたちの目には、異様な光景が映っていた。
王都を震撼させたあの暴君が、少年の振るう小さな鉄の棒の前で、逃げることも、吠えることもできず、ただその場に縫い止められたように震えているのだ。
それは戦闘ではなかった。
巨大な魔物を土台にして、少年がただ「自分の型」を研磨し、調整し続ける、一方的な修練。
数分後。
俺の体内の魔力循環は、かつてないほどの高みに達していた。
一振りに込める意志の密度、速度、そして配分。
この暴君という「壊れない的」のおかげで、俺の剣技は、村にいた頃よりもさらに一階梯上の次元へと引き上げられていた。
「……よし。手応えは掴みました」
俺は、大きく飛び退いて距離を取った。
オーク・ディザスターは、既に戦意を失い、膝を突いて激しく喘いでいる。
再生能力は限界に達し、鋼の皮膚はボロボロに崩れかけていた。
奴の瞳に宿っているのは、飢えた捕食者の色ではない。
自分をただの「道具」として扱い、満足そうに頷く少年への、根源的な恐怖だった。
「最後は、正しい『型』で締めくくります。……あ、お疲れ様でした」
俺は真剣を正眼に構え、初めて、その剣先を奴の胸の中央にある「巨大な核」へと向けた。
断絶の峡谷に、最期の時を告げる静寂が降りる。
俺の、本日のメインイベントである「仕上げ」の時間が始まった。




