第十三話:鑑定の眼、更迭の宣告
訓練場を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
つい数秒前まで罵声を浴びせていた野次馬たちは、一様に口を開けたまま、石像のように固まっている。彼らの目には、俺がただ一歩踏み出し、腰の得物を抜いて収めたようにしか見えなかったはずだ。その一瞬の間に、Bランクの重戦士が膝を突き、大剣を手放した理由を、誰一人として理解できていなかった。
俺は鞘に収まった真剣の感触を確かめながら、脳内で今日の残り時間を弾き出した。
(……あと四時間。移動時間を差し引くと、残りは四千八百匹か。一振りにつき十匹はまとめないと、日没までにノルマが終わらないな)
王都の門を潜るまでに費やした時間と、この無駄な試験のせいで、今日の予定表は大幅に狂っている。俺にとっては、目の前の男に勝ったことよりも、その時間の損失の方が遥かに重い問題だった。
「…………おい。誰か、こいつの傷を改めろ」
ギルドの奥から現れた老人の声が、凍り付いた空気を僅かに動かした。
ボロボロの革鎧を纏ったその男――ギルドマスター、ガルドは、ゆっくりとした足取りで倒れ伏す試験官の元へ歩み寄った。
ガルドは地面に這いつくばり、荒い呼吸を繰り返す試験官の体に、指を這わせる。
首筋、両手首、両膝。
そして胸元の鎧の、僅かな隙間。
そこには、俺が刻んだ十の断裂があった。
「…………信じられん。すべて、皮一枚だ」
ガルドの低い呟きが、静まり返った場内に響き渡る。
「血管を一つも傷つけず、だが運動神経の接点だけを正確に叩き切っている。……小僧、貴様。この一瞬に、どれだけの意志を重ねた?」
ガルドは立ち上がり、俺のことを射抜くような眼で見つめた。
その瞳には、一人の老練な戦士としての驚愕と、底知れぬ恐怖が混じり合っている。
俺は、その問いに淡々と答えた。
「……いえ、スライムが十匹ほど重なっていたので、そのつもりで振りました。人間は一人しかいないので、少し加減が難しかったです」
「スライムだと……?」
ガルドは絶句した。
彼にとって、対人戦とは命のやり取りであり、極限の駆け引きだ。だが、俺にとっては、それはスライムを数千万回狩り続けてきた「作業」の応用に過ぎない。
標的の核を捉え、最短の軌道で、必要な分だけの力を流し込む。
相手が人間であろうと魔物であろうと、俺が行うべき計算式に変わりはない。
「ふざけるな! 汚い手を使って……不意打ちだ! こんな登録、認められるか!」
ようやく指先に力が戻ったのか、試験官の男が顔を真っ赤にして叫んだ。
彼は泥を噛みながら、俺を呪うような視線で睨みつける。
だが、その怒声は、ガルドの冷徹な一喝によって遮られた。
「黙れ、無能が」
ガルドの放つ圧力が、訓練場全体を震わせた。
「相手の剣筋も見抜けず、皮一枚で生かされた屈辱も分からぬ男に、新人の芽を摘む資格はない。試験官は今日限りで解任だ。明日からFランクに降格し、下水道のドブさらいからやり直せ。……二度と剣を握るな」
試験官は、まるで雷に打たれたような顔をして黙り込んだ。
ガルドは俺に向き直り、懐から一枚の金属板を取り出した。
鈍く光る銀色のプレート。
「シン・カミシロ。……貴様の力は、もはや試験などという枠では測れん。特例として『Cランク』の登録を認める。……文句はないな?」
Cランク。
このギルドでは、数年の経験を積んだ中堅冒険者がようやく辿り着く地位だと聞いている。
だが、俺にとってはその称号自体に意味はない。
俺が求めているのは、ただ一つだ。
「……ありがとうございます。これで、森へ入ってもいいですね?」
俺の問いに、ガルドは再び呆気にとられたような顔をした。
「……ああ。この街の周辺にある全ての森が、貴様の仕事場だ」
「分かりました。失礼します」
俺はCランクの証を懐に放り込むと、一刻も早くこの場所を離れるべく、ギルドの門へと足を向けた。
背後からは、「あいつ、マジでスライムを狩りに行くのか?」「Cランクになって、やる仕事がスライム駆除かよ……」という、困惑した声が聞こえてくる。
だが、彼らは知らない。
俺にとって、一日に五千の核をブチ抜くという反復こそが、唯一の「自分を保つための日課」であることを。
王都近郊の森。
一歩足を踏み入れると、村の周辺とは違う、少しだけ歯ごたえのありそうな魔力の気配がサーチに引っかかる。
《個体名:シン・カミシロ。Cランク昇格を記録。……これより、本日残り四千八百匹の『作業』を開始します》
脳内に響く声に、俺は静かに応えた。
腰の真剣を抜き、最初の群れを見据える。
夕闇が迫る森の奥で、黒い鉄の輝きが閃いた。
一を振り、十を討つ。
王都での、俺の本当のレベリングが、いま本格的に動き出した。




