第九話:鉄の肌と、不相応な要求
隣村までの道のりは、俺にとって奇妙な浮遊感を伴うものだった。
村を包んでいたあの濃密な魔力の霧から離れれば離れるほど、全身を包む空気の圧が弱まっていく。かつて重い水底を歩いていたのが、急に陸に上がったような、そんな落ち着かない軽さだ。
俺は一歩踏み出すたびに、自分の肉体が地面を蹴りすぎるのを抑え込まなければならなかった。気を抜けば、ただの歩行が跳躍に変わってしまう。それほどまでに、俺の肉体はあの「聖域」の過酷な密度に最適化されていたのだ。
数時間の歩みの末、俺は目的の村へと辿り着いた。
俺の村よりも活気があり、石造りの建物が並ぶ通りには、荷馬車や旅人の姿が絶えない。その一角、村の端から地響きのような音が聞こえてくる場所に、親父から教えられた鍛冶屋はあった。
軒先には、煤けながらも力強い文字で『重撃の鉄』と記された看板が掲げられている。
中へ足を踏み入れると、暴力的な熱気と、鉄を叩く鈍い衝撃が鼓膜を打った。
奥では、丸太のような腕をした大男が、真っ赤に焼けた鉄の塊を大槌で叩き潰している。一振りごとに火花が散り、鍛冶場全体が震える。
男は俺の気配に気づくと、槌を振る手を止め、額の汗を拭った。
「……坊主、何の用だ。ここは遊び場じゃねえぞ。農具の修理なら、外の棚に置いていけ」
職人の目は鋭い。俺の背丈と、腰に差した中身のない空の鞘、そして右手に持った予備の棒切れを見て、鼻で笑うような仕草を見せた。
無理もない。十二歳の子供が、真剣を打つような場所に一人で現れることなど、この辺りではまずあり得ないことなのだろう。
「剣を一本、打ってほしい」
俺は、努めて平坦な声で切り出した。
職人は一瞬、俺の言葉を疑うように目を見開いたが、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻った。
「剣だと? 坊主、おもちゃの剣が欲しいなら、隣の細工屋へ行け。うちは、本物の獲物しか打たねえ。お前のようなガキが振り回せるような、なまくらな代物は置いてねえんだ」
「なまくらはいらない。俺が欲しいのは、折れない剣だ」
俺は一歩前に出た。
職人の威圧感に気圧されることもなく、ただ自分の要求を淡々と告げる。
「条件は二つ。俺が全力で振っても内側から弾けないこと。そして、この木の棒よりも、十倍以上重いことだ。おもちゃはいらない。俺の『一振り』を、正しく受け止める鉄が欲しい」
職人は、俺の言葉を「子供の背伸び」と断じようとした。その口が開かれ、嘲笑の言葉が漏れようとしたその瞬間、俺は手に持っていた予備の棒切れを正眼に構えた。
「……見ていてくれ」
俺は、三年間で数百万回、数千万回と繰り返してきた「あの型」を、極限まで凝縮させて引き出した。
腰を据え、肩を入れ、全身の魔力を右腕の一点へ、そして棒の芯へと流し込む。
サーチで見据えるのは、目の前の何もない空間にある、一点の仮想の標的。
一振り。
シュッ、という断裂音さえ置き去りにして、俺は棒を振り下ろした。
ただの一振り。だが、その動作に重なった「多重の意志」に、脆い木材が耐えられるはずもなかった。
空気を打った瞬間、手の中の棒切れは、凄まじい衝撃を逃がしきれず、内側から弾けるように粉々に砕け散った。
バキィィィン!
空気を打った瞬間、手の中の棒切れは、内側からせき止めた衝撃を逃がしきれず、一瞬で真っ白な粉へと変わり、霧のように霧散した。
……音もなく、ただ消えた。
そこには破片すら残らない。ただ、俺の掌に僅かな熱と、指の間に挟まった微かな木の塵だけが残されていた。
それだけではない。棒が断った空気の余波が、巨大な不可視の塊となって炉を叩き、燃え盛っていた火を一瞬で押し潰し、消し飛ばした。
一拍置いて、再び炉の火が揺らめきながら戻ってくる。
鍛冶場に、重苦しい沈黙が降りた。
職人は、手に持っていた大槌を床に落としたことにも気づかず、呆然と俺の手元と、消えかけた火を見つめていた。
「……今のは、なんだ。貴様、その歳で、どんな反復を積み上げてきた」
職人の声から、先程までの嘲笑が消えていた。
代わりにあったのは、一人の職人として、目の前にある「異常な現象」に対する戦慄と、剥き出しの敬意だった。
「自分の振るう力に、道具が追いつかなくなった。だから、ここに来たんだ」
俺は、手の中に残った僅かな木屑を払いながら、職人の目を真っ直ぐに見据えた。
職人は、しばらくの間、無言で俺の瞳の奥を探っていた。そこにあるのが、ただのチート染みた天賦の才ではなく、気が遠くなるほどの反復を経て磨き抜かれた、狂気的な「執念」の果てであることを、彼はその直感で理解したのだろう。
「…………分かった。坊主、いや、剣士。貴様のその一振りを受け止めるためだけの、最高の鋼を叩いてやる。ただし、一筋縄ではいかねえぞ。俺の持てる技術のすべてを注ぎ込む。……完成まで一週間。その間、ここで待てるか」
「ああ、構わない」
俺は短く答え、親父から預かった路銀の袋を台の上に置いた。
職人はそれを一瞥もせず、ただ、まだ熱を帯びた炉の奥を見つめていた。
「名前を聞いておこう。その剣の銘に、使い手の名を刻むかもしれねえ」
「シン・カミシロ」
職人はその名を一度だけ呟くと、再び大槌を拾い上げ、俺に背を向けた。
一週間の待ち時間。
俺は鍛冶屋の裏手に積まれていた、重い鉄屑を一つ借りることにした。
剣が手に入るまで、何もせずに待つという選択肢は俺にはない。
この薄い空気の中で、より重い鉄を、より鋭く振るための調整。
俺の新しい反復が、この村の喧騒の中で、静かに始まろうとしていた。




