第八話:街道の邂逅と、淀みなき透視(サーチ)
村を包んでいたあの重苦しい霧を抜けると、世界は驚くほどに開けていた。
地平線の彼方まで続く土の道。空は高く、どこまでも青い。だが、俺の肌が真っ先に感じ取ったのは、その景色の美しさではなく、大気中に漂う魔力の密度の希薄さだった。
村が酸素の濃い森の深部だとするなら、ここは空気の薄い山頂のようなものだ。一呼吸ごとに肺に流れ込む熱の量が、明らかに足りない。
俺は歩きながら、無意識に呼吸の深さと歩幅の強弱を調整した。浮き上がるような体の軽さを地面に押し付け、一歩ごとに土の硬さを確かめる。この薄い空気の中で、どうすれば最小限の動きで、最大限の距離を稼げるか。その最適解を体に馴染ませるための、新しい道程。
道中、森の境界で感じていたような魔物の気配は、驚くほどに少なかった。
たまに草むらの奥で何かが動く気配がしても、それはただの野鼠か鳥の類だ。これでは、毎日の日課としてこなしてきた数千回の打ち込みの相手としては、あまりに物足りない。
俺は腰に差した空の鞘を叩き、ただ淡々と、隣村へと続く道を進んだ。
《周辺個体を確認。……魔物ではない。人間一名。停止中。……心拍の上昇、混乱の兆候》
脳内に響く無機質な報告。
俺の感覚が、街道から少し外れた大きな樫の木の根元で、うずくまっている人影を捉えた。
その人物は、一心不乱に地面をかき回している。だが、その動作には一切の芯がなく、ただ闇雲に土を散らし、草を引き抜いているだけだった。無駄な動きの繰り返し。それは、俺が最も避けるべき類のものに見えた。
「……何か、探し物ですか?」
俺は足を止め、その背中に向けて、ごく自然に声をかけた。
前世で、道に迷った通行人に声をかける程度の、平坦な響き。
「ひゃあ!?」
情けない声を上げて飛び上がったのは、銀髪を振り乱した少女だった。
上質な、しかし今は泥と埃にまみれた旅装束。大きな蒼い瞳は涙で潤み、頬には土がこびりついている。
彼女は俺の姿を見ると、怯えたように一歩下がり、それから必死に表情を繕った。
「な、なによ。驚かせないでもちょうだい。……?」
「何かを失くされたようですが、手伝いましょうか」
俺の問いに、少女は一瞬だけ疑わしそうな視線を向けたが、すぐにまた絶望に染まった顔で地面を見つめた。
「……母の形見のブレスレットなの。この辺りで落としたはずなのに、いくら探しても見つからなくて。もう、魔法使い様でも呼ばなきゃ無理だわ……」
彼女の手は、土を掘り返しすぎたせいか、赤く腫れている。
俺は、その様子を黙って見つめた。
一から十まで全ての草を抜いて探す。それは一つの方法ではあるが、今の彼女の精神状態では、同じ場所を何度もなぞり、肝心の一点を見落とし続けるだけだ。
「探してみます。そこに立っていてください」
俺は、腰に差した予備の棒切れを抜き、軽く手の中で転がした。
そして、意識の焦点を切り替える。
これまで、数千万のスライムの核を貫くために研ぎ澄ませてきた、あの透視。
標的を「生命の核」から、特定の「物質」の反応へと絞り込む。
雑草の緑、土の茶、朽ちた木の灰色。それら背景にある膨大な雑音を、俺の感覚が一気に削ぎ落としていく。
脳裏に浮かぶ光景から、不必要な情報が消え、一点の不自然な輝きだけが浮き彫りになる。
毎日、数千の個体を瞬時に仕分け、打ち込んできた俺にとって、雑多な中から「異物」を見つけ出すのは、呼吸をするよりも容易いことだった。
(……あそこか)
俺は一歩も動かず、棒切れの先で、彼女の足元から少し離れた場所を指し示した。
「あそこ。朽ちた木の根が、二股に分かれている隙間。その奥に、何かが挟まっています」
「え……? そんな、そこはさっきも見たわよ?」
少女は半信半疑のまま、俺が指した場所を覗き込んだ。
彼女の手が、慎重に枯れ葉を退ける。
その瞬間、暗い木の根の隙間に、一点の鋭い光が走った。
「……あった。あったわ! 私のブレスレット!」
彼女の指が、銀色に輝く魔導石のブレスレットを拾い上げた。
それは彼女が言う通り、並の細工ではない、高密度の魔力を宿した一級品だった。
少女はそれを胸に抱きしめ、何度も何度も、安堵の溜息を漏らした。
やがて彼女は、顔を上げ、俺のことを化け物でも見るような目で見つめた。
「……あなた、何をしたの? 呪文も、道具も使わずに。どうして、一瞬であそこにあるって分かったのよ?」
「少し、鼻が利くだけです。あそこに、他とは違う光の跳ね返りが見えたので」
俺は、事実を適当にぼかして答えた。
毎日五千の核をブチ抜いていれば、嫌でもこれくらいの感度は身につく。だが、それを説明したところで、彼女が理解できるとは思えなかった。
「見つかって良かった。……では、俺はこれで。」
俺は軽く頭を下げ、再び街道へと戻ろうとした。
「待って! 」
少女が、慌てて俺の背中に声をかけた。
彼女は、拾ったばかりのブレスレットを左手首にしっかりと巻き、その青い瞳で真っ直ぐに俺を射貫いた。
「私はエルナ。……シン、この御礼は必ずするわ。ヴァン・ブライトの名にかけて、あなたとのこの縁を、私は忘れない」
「俺はシン・カミシロといいます。」
ヴァン・ブライト。それが何を意味する名前なのか、今の俺には分からない。
だが、彼女の瞳に宿る意志の強さは、かつてリングで対峙したどんな強敵よりも、一点の曇りもなかった。
「御礼なんて、構いませんよ。通り道でしたから」
俺は穏やかに返し、今度こそ歩き出した。
遠くから、彼女を呼ぶ複数の声と、馬の嘶きが聞こえてくる。
俺は振り返ることなく、沈み始めた夕日に向かって、一歩一歩、土を噛みしめるように進んだ。
次に彼女と会う時、俺の手には、自分の全力を受け止めるための真の得物が握られているはずだ。
十二歳の冬。
初めての外の世界での出会いは、俺の新しい反復の日々に、僅かな彩りを添えるだけの、静かな出来事に過ぎなかった。




