第81話 何もできなかった少女
少女は生まれながらにして病弱だった。
虚弱体質でこの世に生まれ落ちた少女の名は、栗雲 梓。両親の温かい視線の中で産声を上げたが、どうにも様子がおかしいことに直ぐ気づく。
梓は、生まれながらに骨折していたのだ。
「痛っ! うわああああん! お母さーん!」
「梓!?」
成長してからも虚弱体質は変わらず、季節の変わり目には必ず風邪をひき、一度こければ骨折をしてしまう程。
それでも明るく振舞い、友達と会える学校が好きだった梓は、日常のように怪我をしては家に帰って来る。
両親はそんな梓が心配でたまらなかったが、楽しそうに人生を謳歌する梓を見て、留飲を下げていた。
「お母さん、なんであたしはこんなに骨折するの?」
しかし成長と共に思考は自立していく。
幼少期はそれでも笑っていた梓だったが、段々と周りとの差に気付き始めると、その後は一瞬だった。
体育の授業は休み、部屋に籠りがちになった身体は更に衰弱する。その悪循環が体調を崩させ、頻繁に風邪をひく我が子に両親もどう向き合っていけばいいか困り果てていた。
「栗雲さん!?」
そんな暗黒の日々を数年。
高校生になったある日、廊下を歩いていた梓は突然その場に倒れた。
倦怠感が身体を襲い、意識が途切れ途切れになり、呼吸が浅く早くなる。視界は点滅し、心臓が破裂しそうなくらい早鳴り、梓は遂に自分が死ぬのだと感じた。
涙を流す余裕もなく、迫る死神の足音に恐怖しながら意識を手放すと、目を覚ました頃には病院のベッドだった。
「落ち着いて聞いてください。娘さんは癌に侵されています……しかも既に全身に転移している。なぜここまで気づかなかったのか……」
「なんで……! なんでこの子ばかり!」
梓は、癌に侵されていた。
医師から告げられる宣告を聞き、両親は大粒の涙を流しながら項垂れる。
無力感と絶望感に襲われ、ただただ吐き捨てるしかない慟哭は、診察室の外に居た看護師たちにも伝わった。
程なくして梓にもその事実が伝えられる。
「そう……ですか」
兆候がなかったわけではない。
このところ頻繁に学校を休むことも増え、倦怠感もいつもより増していた。
けれども、そんなことは梓にとっては日常茶飯事のことで、出席日数がギリギリのことも気に留めるほどのことではない。
その油断に付け込むように、癌は全身へ転移していったのだ。
「まずは抗がん剤での治療で――」
医師から告げられたいくつかの治療の選択肢。梓には分からない言葉が多く、更にも絶望に苛まれた思考は受け止めるのを拒んでいた。
両親は梓がまた元気になる一縷の希望に全てを託し、どんなことでもやりたいと懇願していたが、梓自身にその意志はもうない。
自分は長くないと、そう悟るだけの現実は、非情に笑っていた。
「……梓は、どうしたい?」
医師から一連の話を聞いていた両親から選択肢を設けられる。
抗がん剤で何とか頑張るか、諦めて自宅療養するか、他にもいくつか選択肢はあったが、大きいものとしてはこの二つに限られる。
風に煽られた窓ガラスがガタガタと音を立てている。
その音に釣られるように早鳴った心臓の鼓動は、梓を追い詰めていく。
自分は間もなく死ぬ。
だからこそ、生きた爪痕を残したいと思った。
「やるよあたし……治療」
梓の決意に、歪んだ笑顔を見せながら両親は微笑む。
複雑な感情に囚われていることは梓も承知だった。治らないことも百も承知、それでも梓は治療へと臨む。
効いているかどうか分からない抗がん剤を処方され、髪は抜け、顔色はずっと悪いまま。
毎日のようにやってくる発作に、いつの間にか食欲すら失くし、食べては吐いてを繰り返す。
苦しむ愛娘を見て、両親は治療の断念を提案したが、梓の眼は強く輝いていた。
「死にたくないなぁ……」
その日は、珍しくも容態が安定していた。
担当の看護師と軽い雑談もでき、暇な入院生活に花が咲いていた。
生きている証が欲しい、その一心で一年間治療を受け続けたが、結果的に苦しむ時間が増えるだけとなっていて、治る気配は全くない。
少女が苦しもうが、悶えようが、泣こうが、怒ろうが、良くなることは無かった。
微妙に侵攻を遅らせるだけに過ぎない現状だったが、医師は余命が伸びたことに感嘆し、梓の精神力をほめちぎる。
「そうじゃないんだけどなぁ」
誰も居ない病室で呟く。
少女はただ、生きたかった。
病室の窓から見える桜の木が花びらを散らしている。こんなことにならなければ、梓は既に高校二年生へと進級していたはずだった。
「やりたいこと、まだいっぱいあるのになぁ」
華の女子高生。いろいろなことがしたくて堪らなかった。
恋愛、部活、勉強、友人関係、さまざまな羨望が思考を埋め尽くす。
不意に流れる涙は、その思考を途切れさせる。
病室をノックする音に、無理やり涙を拭おうとするも、その瞬間、自身の腕が全く動かないことに気付く。
時は、既に来ていた。
病室に入った両親が何かを叫んでいたが、梓は上手く聞き取れないでいた。
暗くなる視界は、何も映さない。強く握られていた筈の両手は、何も感じない。両親の悲痛な叫び声を最後に、全ての感覚が消え去った。
「おい……大丈夫か」
「……え」
目を覚ますと、梓は霊界の冷たいコンクリートの上に座っていた。
目の前に現れたのは、傷だらけの祥蔵で、驚きのまま後退ろうとするも、手が床の窪みに引っかかり、辺りを見渡す。
まるで爪痕のような傷の入ったコンクリートの床、歪に抉れている住宅の壁、周りに居たであろう人々は怯える眼で梓を見ている。
そんな中、祥蔵だけがしっかり梓を見ていた。
あとから梓が聞いた話は、突然霊界に降り立った梓が霊鞭を発動し、暴れ回ったという記録だった。その日非番だった祥蔵がたまたまその場に居合わせ、対処に当たり、今に至る。
「錯乱していたみたいだな、何があったか知らないが、もう大丈夫だ」
梓の両肩を掴み、傷だらけの腕で抱き寄せる。
爪痕を残したい、そんな生前の儚い思いが死後霊鞭として発動したと思った梓は、どうしようもならない悲しみから溢れる涙を止めることなく、嗚咽と共に祥蔵に身体を預ける。
祥蔵は軽く嘆息しながら受け止めると、ようやく梓の身体から出ていた霊鞭が鳴りを潜めた。
「お父さん!」
様々な思いを募らせながら、父親に抱き着く梓。
生前被っていたニット帽は無く、その代わりにクリーム色の髪が揺れている。
その姿は、もしかしたら梓が生きていた場合の姿として父親に映り、お互いの眼からは涙が溢れだしていた。
「本当だったなんて……」
「お母さん!」
子供の様に泣きじゃくる父の背後から現れたのは梓の母。
まるで梓をそのまま大人にしたかのような姿は、年より若く見える。しかしその顔にはしっかりシワが刻まれており、苦労が伺えた。
父親を抱きしめながら手を伸ばす梓を見て、駆け寄った母はその手を取る。
「昔、母さん……おばあちゃんがこんなことがあったって言ってたけど、本当に梓が帰って来るなんて……!」
「うん……ごめんね、本当に不甲斐ない娘で」
「そんなことないわ! むしろ謝りたいのは私の方!」
始まる謝罪合戦を、父親の武骨な掌が制す。
「謝っても仕方ないだろう、まずは愛娘が帰ってきたことに感謝して、家に入ろう」
「引っ越したんだね」
「あの家は思い出も深いけど、父さん達には大きすぎるからね」
「今日は梓の大好きなハンバーグにしましょうか」
「わーい! お母さん大好き!」
止めどなく落ちる涙をそのままに、幸せをかみしめるように三人は団欒を楽しむ。
家に帰るべく踵を返した父親だったが、不意に何かに気付いて立ち止まり梓に振り返る。
「梓……おかえり」
父親の優しい声掛けに、梓の涙腺は更に涙を投下した。
それでも噛みしめるように鼻で大きく息を吸った梓は、できる限りの笑顔を返す。
「うん……ただいま!」
束の間の団欒が始まる。




