第79話 柊 劉兎、18歳
八月十三日、お盆初日となった本日、空の裂け目が大きくなっていた。
裂け目は大きくなるにつれてその口内を見せ、漆黒な深淵はまだ生界との同期が済んでいないことを意味していた。
プレハブの窓からそれを見ていた劉兎は、不貞腐れた様子で頬杖をつき、裂け目を睨みつける。
「お盆明けから前の詰所に戻るそうだぞ」
「……萌葱さん」
そんな劉兎の対面に座り、珈琲の入ったカップを差し出したのは萌葱。劉兎の様子には目もくれず、足を組みながら優雅に珈琲を煽る姿はとても様になっていた。
「自分宛の精霊馬が来たらそれに乗れ、そうすれば勝手に帰ってくれる」
「……きっと俺に精霊馬は来ないですよ」
萌葱に礼を言いつつ珈琲をひとくち飲む。しかし劉兎の表情は晴れないでいた。
何かを言う訳もなく、ただ真剣に見つめていた萌葱は、その様子をじっくり観察していた。
「親御さんと仲悪いのか?」
「仲が悪いというか、ほとんど勘当ですね。俺、田舎育ちなんですけど、大学に行く過程で親と……父親と大喧嘩してそのまま出てきちゃったんです」
「良ければ、詳しく聞かせてくれないか」
真剣な眼差しを向けられ、思わず目を逸らしてしまう劉兎。何とかはぐらかそうと画策しようとしたが、以前萌葱が自身に過去を話したことを思い出し、視線を戻した。
「面白い話じゃ、ないですよ」
「ああ、それでもいい。聞かせてくれ」
観念したと言わんばかりに俯いた劉兎は、ぽつぽつと呟くように話し始めた。
時に劉兎十八歳の頃。生きていたら二十一歳になっていたことを考えれば、三年前の出来事となる。
「大学に行く? 何でだ? 家業継ぐ言ーちょっただらーが」
「行きとうなったんだけん仕方なえだら!」
「仕方なえことあーか、約束は守れ!」
その日は、九月ながら残暑の厳しい日で、未だにひぐらしの鳴く声が響く夜だった。
劉兎の家庭は、代々農家であった。自給自足と言えば聞こえはいいが、その実態は質素な生活そのもの。
劉兎はそれが気に食わなかった。
家業は継ぐつもりだった。しかし、大学で農学を学び、しっかりセオリーを習った上で、父親のやり方とは一線を画したやり方で仕事をしたかった。
しかしそれを説明する余裕もなく、カッとなりやすい性格な父親は、劉兎の意見を真っ向から否定する。
「われな、大学なんか行きてどうすーんだら!」
「なんかって言い方はなえだら!」
親が親なら子も子。
不安そうに二人のやり取りを見つめる母親は、その様子に口を出すような余裕はなかった。
コンビニに行くだけですら一苦労するような田舎で、ヒートアップする二人。
「われもあれか、田舎は嫌だけん都会に行きてえとか言うのか!」
「そげなこと言ーてねぇだらーがよ!」
「そげじゃなきゃなんだってんだ!」
既に当初の目的である『農学を学ぶため』ということなど彼方に飛び、ただただ不満をぶつけ合う。
もちろん、不便さに文句がない訳ではなかった。それでも、地元が好きな劉兎にとって、上京して仕事をするつもりもない。
けれども、小恥ずかしさからそれを説明できないことにより発生したヒューマンエラーはさらに加速する。
もはや論点は『大学に行くこと』ではなく『田舎から上京すること』にすり変わってしまった。
「どこに行くつもりなんだ」
「……愛知県」
「愛知県!? そげな都会にわれみたえな田舎者が行きてどうすーんだ!」
「勉強すーに決まっちょーだら!」
「はっ、大学なんて遊びに行く場所だらーが、われみたえなやつは遊ぶだけの四年間を過ごすだけだら!」
「何だと!? もう一回言ーてみぃ!」
「ちょっこし! もうやめて二人とも!」
売り言葉に買い言葉、偏見と勘違いが産んだ衝突は、ついに暴力にまで発展する。
先に胸ぐらを掴んだのは劉兎。拳を振りかぶったところで父親の平手が先に入り、劉兎の頭に血が上る。
怒りのままに拳で殴り、父親が倒れざまにちゃぶ台を巻き込んだ。
晩酌をしていたちゃぶ台はひっくり返り、傍観していただけの母親が静止に入る。
「われみたえな怠け者に四年ももったえなえだら!」
「人のことおちょくりやがって! ええ加減にせーよ頑固オヤジ! だけんウチは貧乏なんだらーが!」
「まだケツの青えガキのくしぇに知ったような口を言うな!」
「スマホも触れんような田舎っぺよりは世間を知っちょーわ!」
母の静止も虚しく、口論と喧嘩は激しくなる。
田舎という性質上、殴り合いの喧嘩の経験はある。しかし、親を殴ったのはこれが初めての経験だった。
最初は平手だった父親も、成長して抑えられない我が子に渋々拳を出し、互いに血を流し始めた。
やがて一通りの口論と殴り合いが終わった両者は、肩で息をしながらその場に座る。
「勝手にせー、だら者が」
鼻血と口から血を流す両者。慌てて救急キットを持ってきた母親が、父親を叱責しながら劉兎の傷を治しにかかる。
そんな中、告げられた言葉に、冷静になった劉兎は血の気が引く思いをした。
「あ……親父、違ーんだ、そげだなくって」
「聞きとうなえ! 大学にでも都会にでも好きに行けばええ、おらはもうどげでもええ」
何とか誤解を解こうと、震える口で訂正しようとしたものの、既に頭に血が上りきってしまった父親は聞く耳を持たない。
文字通りそっぽを向く父親は、ほとぼりが冷めたはずの劉兎の逆鱗に触れる。
「あーはえはえそうか!なら勝手にすーよ!」
「ああ! 勝手にせー! 二度と戻ってくーなよ!」
傷の手当もそこそこに、母の手を振りきって立ち上がった劉兎は自室に帰るべく踵を返す。
そんな中、告げられた言葉は強く背中に刺さった。
けれども、劉兎は振り返ることもなく、地団駄を踏みながら自室へと帰る。
「なんなんだよあのわからず屋!」
自室の襖を叩くように締め、怒りのままに地面を殴る。
そんな劉兎を諭すように、部屋の外まで母親がやってきた。
「お父さんはああ言ーちょったども、あんたが心配なのよ」
「分かっちょーよ!分かっちょーども、あげな言い方はなえだら……」
劉兎の慟哭はどこにも届かない。
些細なことから発展した親子喧嘩は、袂を分かつ原因となってしまう。
その出来事を忘れるように劉兎は一心不乱に勉強し、無事大学に合格。
合格を喜ぶ母親だったが、そこに父親は居ない。
「結局あの後、親父とは一言も話しませんでした」
「……そうか」
あの頃を思い出しながら話す劉兎を見て、悲しそうに眉を下げる萌葱。
「だから、俺に精霊馬は来ないんですよ。たぶん、墓参りとかもしてないでしょうし」
「本当にそうか?」
「そうですよ……」
思い出すだけでも悲しい記憶を、再度蓋をするように飲み込むと、静かに劉兎は立ち上がる。
「訓練してきます」
吐き捨てるように萌葱に言うと、返答を待たずしてその場を後にする。
空は裂け、深淵がついに同期したのか夕暮れのような赤褐色の色になる。
そして続々と精霊馬が姿を現した。




