第6話:過去の影と近づく距離
真壁碧純は学校の図書室にいた。
静かな空間。
本棚の間を歩く。
図書委員の仕事中。
ふと目に入った一冊。
『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』。
紙版だ。
電子書籍で読んだ後。
偶然見つけた。
クラスメイトの間で話題の作品。
学校の図書室にも置かれている。
驚きつつ。
手に取った。
ページをめくる。
物語の細部に目を凝らす。
幼い頃の自分が重なる描写。
いくつもあった。
水遊びで濡れた服。
小さな胸が透ける。
兄に抱きついて笑うシーン。
それは基氏と過ごした夏の記憶。
そのものだった。
「お兄ちゃん……」
「これ、私だよね?」
確信に変わりつつある思い。
碧純の胸がざわつく。
鼓動が速まる。
本を閉じる。
少し震える手。
夕方。
アパートに戻る。
玄関を開けると。
キッチンから音。
基氏が食材を整理していた。
「お兄ちゃん、買い物してきたの?」
「あぁ、碧純のメモ見て買ってきた」
「実家から猪肉も届いてたから」
「冷凍庫に入れといたぞ」
「やった!」
「猪鍋食べたい!」
「なら今夜はそれでいいな」
「俺、味付けは任せるぞ」
「うん、任せてよ」
「パパに教わったレシピで作るから」
料理を始める。
鍋に水を張る。
野菜を切る音。
碧純はさりげなく切り出した。
「お兄ちゃんさ」
「本に私のこと書いてるよね?」
基氏の手が一瞬止まる。
包丁がまな板に軽く当たる。
カツン、と小さな音。
「……何だよ、またその話か」
「だってさ、水遊びのシーンとか」
「私とそっくりなんだもん」
「小学校の時、田んぼのプールで遊んだこと覚えてるでしょ?」
「それは……偶然だよ」
"よくある描写だろ」
「ほんとかなぁ~」
「お兄ちゃん、私のことそんな目で見てたの?」
「見てねえよ!」
「ただの創作だっつうの!」
慌てて否定する基氏。
顔が赤い。
碧純はニヤリと笑う。
「ふーん」
「でも、私のことモデルにしてるなら」
「ちゃんと許可取ってよね」
「だから違うって!」
「お前、しつこいな!」
言い合いながら。
鍋の準備が進む。
猪肉と野菜が煮える香り。
部屋に広がった。
二人はテーブルへ。
向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます」
スープを啜る。
猪肉の濃厚な味。
野菜の甘み。
碧純はさらに追及。
「お兄ちゃん、昔、私のことどう思ってたの?」
「どうって……可愛い妹だろ」
「守ってやりたいって思ってた」
「それだけ?」
「……それだけだよ」
基氏の声が少し低くなる。
目を逸らす。
実際は、それだけではなかった。
碧純が小学校5年生の夏。
叔父が作った簡易プール。
水遊びの最中。
タンクトップから見えた小さな膨らみ。
目を奪われた。
その瞬間。
妹を女として意識。
欲望が湧き上がる。
胸が締め付けられた。
「このままじゃ碧純を汚す」
そう恐れた。
大学進学を機に実家を離れる。
距離を取った。
その過去。
碧純に話すわけにはいかない。
心に蓋をする。
「ふーん」
「お兄ちゃん、私のこと大好きだったよね」
「私もお兄ちゃん大好きだったよ」
無邪気に笑う碧純。
基氏は目を逸らす。
笑顔が眩しい。
「当たり前だろ」
「兄妹なんだから」
「でもさ、お兄ちゃんが大学行ってから」
「全然帰ってこなかったじゃん」
「寂しかったんだから」
「……忙しかったんだよ」
「勉強とか、色々」
嘘だった。
孤独に耐えきれず。
二次元に逃げ込む。
ライトノベルで欲望を発散。
そのきっかけが碧純への禁断の思い。
言えなかった。
食後。
基氏は原稿に向かう。
机に座る。
キーボードを叩く。
碧純は片付けを終え。
ソファに座った。
「お兄ちゃんさ」
「私がここに来て、どう思ってる?」
「どうって……助かってるよ」
「飯美味いし」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「変な勘繰りすんな」
「ふーん」
「でも、私、お兄ちゃんの部屋見るたび思うんだよね」
「あの美少女グッズ、私の代わりなんじゃないかって」
「代わりじゃねえよ!」
「あれは別物だ!」
「ほんとかなぁ~」
「お兄ちゃん、私のことそんなに好きなら」
「正直に言えばいいじゃん」
からかうように笑う碧純。
基氏は顔を赤らめる。
耳まで熱い。
「お前、からかって楽しんでるだろ」
「バレた?」
「でもさ、お兄ちゃんの反応見てると」
「なんか可愛いよ」
「可愛いって言うな!」
「俺は兄だぞ!」
「はいはい、お兄ちゃんね」
笑いながら。
碧純はスマートフォンを手に取る。
画面をスワイプ。
「お兄ちゃん、私、クラスで『茨城基氏のファン』って子に会ったよ」
「『妹のためなら』が好きだって」
「そうか」
「感想はどうだった?」
「『お兄ちゃんが素敵』だって」
「私、ちょっと嫉妬しちゃった」
「嫉妬?」
「何だよそれ」
「お兄ちゃん、私だけの兄でいいよね?」
無垢な瞳で見つめる碧純。
基氏は言葉に詰まる。
喉が詰まる。
「……お前は特別だよ」
「妹なんだから」
「うん、それでいいよ」
その言葉に。
基氏の胸が締め付けられた。
特別だからこそ。
欲望を抑えなければ。
拳を握る。
その夜。
碧純はベッドに潜る。
スマートフォンを手に。
『お兄ちゃんのためならパンツもあげるよ』を読み始めた。
ギャグ調の軽い文体。
笑いがこみ上げる。
だが、兄妹の距離感。
どこか自分たちと重なる。
胸がざわつく。
「お兄ちゃん、これも私っぽいよね?」
ベッドで呟く。
その言葉は基氏に届かない。
静かな部屋。
自分の息遣いだけ。
一方、基氏は原稿を進める。
キーボードの音。
過去を思い出す。
碧純が生まれた時。
6歳の基氏。
叔母夫婦に連れられて病院へ。
小さな赤ちゃんを抱く。
「ずっと一緒のお兄ちゃんだぞ」
そう約束した。
その約束を守るため。
欲望を封印したはず。
心に重い石を置いた。
だが、碧純が近くにいる今。
その封印が揺らぐ。
石にヒビが入る。
抑えきれぬ疼き。
翌朝。
碧純は学校へ。
教室でクラスメイトと話す。
本棚の前。
「ねえ、真壁さん」
「『茨城基氏』の新作読んだ?」
「う、うん、読んでるよ」
「やっぱり妹物最高だよね」
「お兄ちゃん欲しいなぁ」
「そ、そうだね……」
笑顔で返す碧純。
だが、心の中は複雑。
兄の作品が話題になるたび。
自分の存在がちらつく。
「お兄ちゃん、私のことどう思ってるんだろう」
帰宅後。
アパートの玄関を開ける。
基氏がキーボードを叩く音。
リビングに響く。
「お兄ちゃん、ただいま」
「お帰り」
「今日も疲れたか?」
「うん、ちょっとね」
「お兄ちゃん、新作どう?」
「順調だよ」
「完成したら読ませてやる」
「私、出てくる?」
「……出てこねえよ」
「ほんとかなぁ~」
からかう碧純。
基氏は苦笑。
だが、新作の妹キャラ。
確かに碧純の影を帯びていた。
その夜。
基氏は原稿を書きながら。
碧純の笑顔を思い出す。
無邪気な声。
ポニーテールの揺れ。
「あと3年」
「我慢すればいい」
そう言い聞かせる。
だが、心は静まらない。
欲望が疼く。
一方、碧純はベッドで。
電子書籍を読み返す。
物語の妹。
自分の幼い頃と重なる。
「お兄ちゃん、私のことモデルにしてるよね」
確信が強まる。
だが、その先を考えると。
不安が広がる。
「もしそうなら、どうしよう」
二人の距離は近づく。
基氏の心の要石。
まだ持ちこたえている。
ただ、その揺れは日に日に大きく。
共同生活の中で。
封印された思いが解ける日。
近づいているのかもしれなかった。