プロローグ:「二次元の嫁と妹の共存は可能ですか?」
「――キモい。この二次元美少女たち、全部、捨てていいよね?」
その第一声が、薄暗い部屋に鋭く響いた。
兄妹の再会を、一瞬にして切り裂く音だった。
茨城県つくば市の片隅。
築十数年のワンルームアパート。
コンクリートの外壁には苔がうっすら這い、窓のサッシには錆が浮かんでいる。
玄関のドアが軋みながら開いた瞬間。
妹・碧純かすみの顔に浮かんだのは、複雑な表情。
驚愕と侮蔑。
そして、ほのかな恐怖が混じっていた。
彼女の瞳は大きく見開かれていた。
唇はわずかに震えている。
部屋の中は、まるで異世界への入り口だ。
壁一面を埋め尽くすポスター。
胸元を強調した制服姿の美少女たちがウィンクを投げかける。
過剰な色彩が目に刺さった。
四隅にはアクリルケース。
フィギュアが所狭しと並んでいる。
埃をかぶった表情は、無機質で不気味だ。
ベッドの上には、三体の抱き枕。
堂々と存在感を放っている。
不自然に膨らんだ胸部が、薄暗い蛍光灯に照らされて影を落とす。
床には乱雑に積まれた段ボール。
中からは“成年向け”と書かれた同人誌が覗く。
微妙に掠れたフォント。
湿った空気の中で、かすかに紙の匂いが漂っていた。
「ここ、ホントに私が住むとこ……?」
碧純は両手に荷物を抱えたまま。
呆然と立ち尽くした。
その後ろで、引っ越し業者の若いスタッフ。
気まずそうに口角を引きつらせている。
苦笑いを浮かべていた。
無言で荷物の段ボールを床に置く。
まるで逃げるように踵を返し、ドアへと急いだ。
ドアが閉まる音が鈍く響く。
部屋に重い静寂が戻った。
「え、ちょ、お前……! 午後に来るって言ってただろ!?」
「早すぎない!? 心の準備が――」
兄・基氏もとうじが慌てて声を上げた。
その手にはフィギュアが握られている。
動揺のあまり後退りした拍子に、スリッパが脱げる。
すねを机の角に強打。
「痛ぇえええッ!」と叫びながら顔を歪めた。
よろめきつつ机にしがみつく。
すねをさする仕草は、どこか滑稽で情けない。
「準備って何?」
「どうせ部屋掃除すらしてなかったでしょ!?」
「てか、これ、人が住む空間じゃないよね!?」
「ねえ!?」
碧純の声は鋭い。
怒りに満ちていた。
彼女の視線が部屋中を切り裂く。
ポスター、フィギュア、同人誌。
そして抱き枕へと、次々に突き刺さる。
基氏はまるで追い詰められた小動物だ。
縮こまり、目を泳がせる。
弁解の言葉を探しているようだった。
「痛ぇえええッ! くっそ……」
「これだからリアルは嫌なんだよ……!」
彼の呻き声が響く。
どこか自虐的な響きを帯びていた。
額には冷や汗が滲み、痛みを堪える表情。
苛立ちと諦めが混じっている。
「はあああああ!?」
「何その名言!?」
「逃げるな現実から!!」
碧純は一歩踏み出した。
肩を怒らせ、兄を睨みつける。
その足音は重々しい。
まるで重戦車が地を踏みしめるようだ。
床の古いフローリングが微かに軋んだ。
長い黒髪が肩に揺れる。
その端が、怒りに震えているように見えた。
「うるせぇ!」
「二次元のほうが癒されるんだよ!」
「優しいし、裏切らないし!」
基氏は声を張り上げた。
半ばやけくそで反論する。
だがその声は頼りない。
言い訳じみていた。
「癒される?」
「この空間、正直ホラーだよ!?」
「精神的ダメージの暴力だよ!?」
碧純はさらに一歩近づく。
抱き枕を指差して叫んだ。
彼女の指先は震えている。
瞳には嫌悪と困惑が渦巻いていた。
基氏は反射的に抱き枕を胸に抱え込む。
まるでそれを守るように後ずさる。
「これは資料なんだよ……」
「どこをどう見たら資料なの!?」
「このクッション! おっぱいついてんじゃん!」
「触感リアルすぎて引いたわ!」
碧純が抱き枕を指さす。
その表面に触れた手が、一瞬引っこんだ。
柔らかすぎる感触に、顔がさらに歪む。
「こ、これは桜花ルリ様の抱き枕!」
「限定生産五十体のうちの一つなんだぞ!?」
「その価値、わかるか!?」
「お前にはわからんだろ!!」
基氏は必死に声を張り上げる。
抱き枕を掲げて訴えた。
その目は熱っぽく光る。
まるで信仰を語る信者のような熱量だ。
「わかりたくもないよ!!!」
碧純の叫びがアパート全体に響き渡る。
壁の薄さを物語るように、隣室からかすかな物音。
彼女の声は怒りと絶望が混じり合っていた。
かすかに掠れている。
基氏は21歳。
大学中退後、何の因果かライトノベル作家としてデビュー。
なんとか糊口をしのいでいる男だ。
代表作『恋する戦国†モエ絵巻!』。
昨年、売上五万部を突破した。
一部のマニア層から熱狂的な支持を受けている。
だがその作風。
「ハーレム・パンチラ・爆乳三拍子」が基本構成。
実妹には絶対に読ませたくない内容だ。
彼の顔は丸みを帯びている。
やや伸びた前髪が目にかかり、薄い髭が顎にちらほら。
普段は黒いパーカーとジーンズ。
ラフな格好で、どこか生活感が滲む雰囲気だ。
対する妹・碧純は十五歳。
県立中学を卒業したばかり。
生徒会副会長を務めたしっかり者だ。
夢は建築士。
ショートカットの黒髪。
意志の強そうな瞳が印象的だ。
白いブラウスに紺のスカート。
シンプルな服装だが、立ち姿には凛とした気品がある。
真面目な性格ゆえ。
兄の「堕落」とも言えるオタク趣味を前に。
内心、パニックに近い感情が渦巻いていた。
「で、どういうことなの?」
「大学は? 就職は?」
「家には“東京の大学行った”って言ってたよね?」
「これ、全部嘘だったの?」
碧純の声は低い。
怒りと悲しみと呆れが交錯する。
震えていた。
彼女の手は荷物を握る力が強まる。
白い指先がわずかに赤くなっている。
基氏は無言で棚に手を伸ばす。
一冊の文庫を取り出した。
表紙には桜舞い散る中、剣を構えた美少女たち。
タイトルは――『恋する戦国†モエ絵巻!』。
彼はその本を妹に差し出す。
目を逸らしながら呟いた。
「俺、これで……食ってる」
「…………は?」
碧純の声が一瞬途切れる。
眉が困惑で吊り上がった。
本を手に取る彼女の指先。
わずかに震えている。
表紙を見つめる瞳に、信じられない思いが宿っていた。
「もう五作出してる」
「来月には第六巻」
「トロフィーもあるし、編集部からも評価されてる」
本当にそうだった。
棚の横にはライトノベル大賞の新人賞トロフィー。
埃をかぶったガラスが鈍く光を反射している。
その隣には、自著の既刊たち。
ずらりと並び、まるで努力の証のようだ。
「こんなパンツ丸出しの美少女たちで……?」
碧純の声は呆れを通り越す。
どこか虚ろだ。
視線が表紙の露出度の高いイラストに釘付け。
顔が微かに赤らむ。
「パンツだけじゃない!」
「胸と、太ももと、ついでに心も書いてる!」
基氏は勢いよく反論。
だがその言葉に、妹の表情が硬直した。
「うるさいよ!!」
碧純はとうとう怒鳴る。
震える声で叫びながら、涙をこらえた。
瞳が潤む。
こみ上げる感情を抑えきれず、唇を噛んでいる。
「お兄ちゃん、何で……」
「何でこんな風になっちゃったの……?」
「昔は、もっと……まともだったのに……!」
その言葉に、基氏の表情が一瞬曇る。
目が遠くを見つめた。
過去の記憶が脳裏をよぎるようだ。
「……高校のとき、いろいろあったんだよ」
静かに、彼は話し始めた。
孤独だった大学生活。
友人もできず、講義にも馴染めなかった日々。
自分の居場所を探して彷徨った。
偶然手にした一本のラノベに救われる。
何かを作りたいと強く願った。
夜通し書き続けた。
そして、ようやく認められた喜び。
「俺にとって、この子たちは……希望なんだ」
「夢なんだよ」
「現実はつらいけど、二次元には優しさがあった」
彼の声は低く、切実だった。
指先で抱き枕の端をそっと撫でる。
深い愛着が滲んでいる。
碧純はしばらく無言だ。
瞳には複雑な感情が揺れる。
兄を見つめる視線が、一瞬柔らかくなった。
やがて、荷物を持ち直す。
ポツリと呟いた。
「とりあえず、私のスペース……作ってよね」
基氏は安堵の息を吐く。
まだ怒っているのは明白だ。
だが、「出て行け」とは言われなかった。
肩がわずかに緩む。
緊張が解けた。
「ベッドの下、空いてる」
「段ボールどければ、クローゼットも半分使っていい」
「私、女の子だよ?」
「着替えとかもあるんだけど?」
碧純が眉を上げて睨む。
基氏は一瞬言葉に詰まった。
「う……そ、それは……」
「カーテンで仕切るか?」
「もっとちゃんと考えて!!」
彼女の声が再び鋭く響く。
兄妹のやり取りが部屋にこだました。
こうして始まった、兄妹の奇妙な同居生活。
だが、これはまだほんの序章だ。
次の日。
碧純が通う高校の制服姿を見た基氏。
目を輝かせてこう呟いた。
「その制服、やばいな……ヒロインみたいだ……」
その瞬間、碧純の顔が真っ赤に染まる。
新たな悲鳴が部屋に響き渡った。
「通報するからね、マジで!!!」
その夜。
アパートの電気は深夜になっても灯り続けていた。
基氏はパソコンの青白い光に照らされる。
黙々とキーボードを叩いている。
隣のベッドでは、碧純が寝息を立てていた。
寝顔は穏やかだ。
昼間の怒りが嘘のように静かだった。
「……ったく」
「あんなに文句言ってたくせに、寝るの早ぇな」
基氏は苦笑する。
画面に視線を戻した。
ラノベの最新原稿。
ヒロインの台詞が決まらない。
何度も書き直していた。
指が一瞬止まる。
ふと隣の妹に目をやる。
(……言えないよな)
(妹の一言が、ヒントになったなんて)
まるで実生活がネタ帳のようだ。
兄妹のドタバタ同居生活。
今日もまた、新たな物語を生み出していく。
一方、眠る碧純は几帳面そのものだ。
寝る前に水を一杯飲む。
スマホの目覚ましを三重にセット。
ハンドクリームを丁寧に塗ってからベッドに入る。
自分ルールを律儀に守る姿。
彼女の真面目さを象徴していた。
「電源コードを足で引っかけると危ないから」
兄の配線を勝手に整える。
「お風呂出たらすぐ髪乾かさないと風邪引くでしょ!」
生活改善にも口を出す。
翌朝6時。
自分で起きる。
弁当の中身を確認。
もし兄がコンビニ飯で済ませようとしたら。
「栄養バランスゼロじゃん」
真顔で説教するのだ。
ただ、お化けと虫が苦手。
夜のトイレには決して一人で行かない。
そんな可愛い弱点も。
彼女の人間らしい一面だった。