追憶
その夜、アグノリカは自室のベッドに横たわりながら、遠い日の記憶を反芻していた。
冷たい雨が降り注ぐ森の中、幼いアグノリカは必死で走っていた。背後からは狼たちの唸り声が迫っていく。好奇心からここに入ったことを、この時ほど後悔したことはなかった。
「誰か...誰か助けて...」
か細い声が、雨音に飲み込まれていく。足元の枝に躓き、アグノリカは泥濘の中に倒れ込んだ。振り返ると、黄色い眼を光らせた狼たちが、彼女を取り囲むように近づいてきていた。
その時だった。
「退け!」
雨を切り裂くような声とともに、一筋の光が走った。アグノリカの目の前で、狼たちが弾き飛ばされていく。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。漆黒の外套を翻し、手にした剣から青白い光を放っている。その姿は、幼いアグノリカの目には、まるで伝説の英雄のように映った。
「大丈夫か、小さな姫君」
優しく微笑みながら差し出された手。それを取った瞬間、アグノリカの人生は大きく変わることとなる。
「シュタイン様...」
現在のアグノリカは、天井を見つめながら、その名を囁いた。あの日、彼が自分のことを「姫君」と呼んだのは、きっと幼い女の子を安心させるための言葉だったのだろう。でも、その言葉は確かに、傷ついた少女の心を温めた。
(あの時の私は、本当に弱かった...)
ベッドから身を起こし、窓際に歩み寄る。月明かりに照らされた訓練場が、静かに佇んでいた。
思えば、あの日以来、アグノリカは剣術の修行に打ち込んできた。最初は剣さえまともに振れなかった。でも、いつか必ずシュタインの隣に立てる強さを手に入れたいという想いが、彼女を支え続けてきた。
「私、まだまだ強くならないと」
月に向かって呟きながら、アグノリカは決意を新たにする。明日からの訓練も、また一歩、夢に近づくための階段となるはずだ。
そうして彼女は、かつての弱さを抱きしめながら、未来への強さを誓うのだった。窓の外では、あの日と同じような雨が、静かに降り始めていた。
明日は、ミーシャの特訓も控えている。後輩の成長を支えながら、自分も成長していく。それが、かつて助けられた者としての、最高の恩返しなのかもしれない。
アグノリカは、もう一度ベッドに横たわった。瞼を閉じると、あの日の記憶が、懐かしい物語のように心に広がっていく。
「お休みなさい、シュタイン様」
囁きは、夜の闇の中へと溶けていった。