導き
昼の空はのどかでゆったりと流れる雲は鈴香のよう、授業の合間の休憩時間の中でふたり優しい時間を過ごしていた。
雪時の中に閉じ込められた想い、本人でさえそれには気付くこともなく、とは言えそれを見ることの出来る貴重な他人のひとりである鈴香の目は心はあまりにも弱すぎて。
「雪時くん、私、雪時くんと……一緒に、居られて……とっても嬉しい」
「お、俺も。俺だって鈴香といられるの、嬉しいよ」
その目は正面を向かない。鈴香の目を覗き込むには相当の勇気が必要に感じられた。
やがて時は授業の時間を運んで来る。
「これ、終わったら」
「帰りだな」
座っていた席から立ち上がり、大きく腕を伸ばして欠伸を喉元で押さえつけながら雪時は自分の席を目指してふらふらと歩いて行った。あまりにも平和な様は雪時が鈴香を守る日など来るという話をしっかりと覆い隠してしまっていた。
ざわざわと騒がしい教室の中で、休憩時間の気分が抜けない生徒たちに向かって授業の開始を大きな声で伝えながら教師が入って来る姿をただ見ていることしか出来なかった。
それから進められる授業もそこで挙手して積極性を見せる時間も、鈴香にとっては憂鬱なひと時でしかなかった。
そんな苦痛にまみれた見えない壁が立ちはだかる授業が、もっとも居心地の悪い時間が幕を閉じる。降りた幕が再び上がることなどなくなってようやく今日の授業は終わりを迎えた。
帰りの際、ふたりで過ごす時間、そこで雪時に向かって二人組の女子が声を掛けていた。
「雪時くんっていつも鈴香ちゃんのこと構ってあげてるよね」
「構ってあげてなんかねえよ、自分から構いに行ってるんだ」
むき出しの親切心を思わせる言葉が余程気に障ったのだろうか、雪時の表情は硬くて険しいものとなっていた。
「あっ分かった。もしかして雪時くん鈴香ちゃんのこと好きなんでしょ」
途端に鈴香の全身に恐ろしい程の臨場感を纏った熱が走ってきた。駆け巡り頭にまで昇ってくるそれは抑えることも叶わず、茹で上がってしまいそう。恥ずかしさの中にほんの少しの柔らかな感情の味を見つけて鈴香はひとり噛み締めていた。
隣で雪時もまた顔を赤くして目を大きく広げていた。沈黙の三秒を経たあとで飛び出してきた言葉はあまりにも大きくて鈴香の身を震わせて縮み上がらせるものだった。
「す……好きじゃねえ! 俺は鈴香のこと……なんて」
尻すぼみ、そんな言葉が当てはまってしまうその言葉は雪時の返した言葉が嘘なのだと語ってしまっていた。
「何でも……いいよ、帰ろ」
鈴香の言葉に導かれるままに雪時は歩き出した。その手をしっかりとつかんで素直について行く姿に加えてこれまでの流れが鈴香の口からある言葉を引き出していた。
「雪時くん、カワイイね」
その微笑みはあまりにも眩しくて雪時が直視することなど叶わない、その眼は輝きに適わない。
「カッコよく、なりたいんだけどな。やっぱ俺にはムリか?」
鈴香は首を横に振って見せるものの、ゆっくりと反応を示して雪時を励ますものの、それは全く信用にまで届いていなかった。
☆
夕空はどうして焼けないのだろう。赤くて美しい空のヴェールが飾られるその時が愛おしい。しかしそれは今の空は持ち合わせていないのだろうか。ゆったりと過ごす雪時が覗き込む窓の向こうの世界、その地上で動く人々の波が雪時に押し寄せた。
呼び鈴が何度も鳴り響いていた。
雪時は狭いアパートの一室を出て、親が帰ってくるような時間ではないことを確かめながらドアを開く。
雪時を出迎えた人物、それは鋭い目がカッコよさを着たオトナを想わせる男、雪時が目指したいと思っている男、怜だった。焦りが露わとなった男だったものの、言葉に想いをしっかりと織り込んで贈って行く。
「時が来た、鈴香のこと、ちゃんと守ってやってくれ」
鈴香が兄を救いたい、そう思っていることはしっかりと理解していた。口から順調に流れ落ちる言葉、それこそが雪時の意思を語っていた。
「鈴香が無事にたどり着けるよう、安全な道へ導くよ」
そうして外へ出た瞬間、茶色混じりの金髪が特徴的な幼い女の子が出てきた。髪の色はかけ離れていたものの、子どものまま変わらなそうな顔、赤みがかった茶色の瞳、それは紛れもなく雪時の大切な人だった。
「鈴香、俺たちが絶対安全な道を作るから」
肩に乗っている小さな犬のような生き物が立ち上がり、少年の身体を離れて宙をかけ始めた。それはやがて大きくなり、ライオンや虎を思わせる威厳を放つ姿へと変わって行った。
「これが、氷の精霊」
冷ややかな色をした毛は温かく、冷たい色をした瞳は何故だか優しさを感じさせた。そんな立派な獣は雪時と鈴香を乗せて一度立派な雄たけびを上げながら走り始めた。
「行くよフェンリル」
犬のような顔をした獣は一度頷きコンクリートに覆われた地を一度強く蹴って構える。削れた地面に残された爪跡から白い煙が、濃縮された冷気が上がってきた。
そのままフェンリルは目にも止まらない速さで走り始めた。過ぎ去って行く木造住宅、建ち並ぶアパート、電柱に街灯のひとつひとつ、見慣れているはずのそれらの何もかもが初めて見る光景だった。人々の生活をしっかりと守り抜く建物たちは掠れてぼやけて映る。その様子が雪時にとってはこの上なく新鮮なものだった。
そうして過ごした数秒間に鈴香は目を見開いて、雪時の身体をしっかりと抱き締めながら景色に目を奪われていた。
雪時は鈴香に抱き締められている、それだけのことで顔を赤くしてフェンリルのふさふさと生い茂る白い体毛に心を隠す。
鈴香は雪時の細くて頼りのない身体に頼り切り、必要以上に強く抱き締めて表情を崩していた。
フェンリルの足元をよく視てみると湯気を思わせる薄水色の冷気が現れていた。それが尾を引いて、この精霊の疾走の轍となっている。
幸せに逃げたような数秒間、しかしその時間すら気を抜いてはならない、それは鈴香が兄を救うための戦いへの導きなのだから。
数秒間の後にフェンリルは速度を落とし、見回しながら進む。雪時は目を疑うような光景を目に焼き付けていた。青くて深い空を舞う幾つもの羽根、あまりの数に景色は潰されてしまっていた。
「さっきまで、なかったよな」
羽根の雨、それは地に落ちることもなく空に落ち、再び地へと向かって落ちようとしては地表が目と鼻の先と言える距離でまた浮かび上がっていつまでも消えようとはしない。
そうした羽根を短い何かを持って切り裂く女の姿があった。
「あっ……刹菜、さん」
鈴香の声は空気を揺らすにも満たない小さなもので、きっと密着している雪時にさえ聞こえていないだろう。
そんな声に反応してなのだろうか、刹菜はその刹那に武器を、万年筆を振り回すように振り返って鈴香に向けてとびっきりのニヤけ面を贈ってみせた。
その様子についつい軽い笑い声をこぼしては雪時に悟らせないよう背に身体を預けてはもぞもぞと動いていた。
そんな鈴香が更に目にしたもの、地上にて堂々と佇む背の高い女。灰色のローブを纏って一歩たりとも動くことがないその女は世界を力強い三白眼で見下ろしていた。自分よりも高い位置でさえしたから見下ろしていた。水色がかったねずみ色の瞳で捉えた世界はいったいどのように映されているのだろう。それはすぐさま語られた。透き通った声を奏でながら、この世界に立つ存在とはあまりにもかけ離れた響きと雰囲気を辺りに漂わせながら。
「穢れた世界、ここに光を注いで満たす。人類などと言う醜いモノが生きているということそのものが間違えているのだ」
全てが否定、感情のひとつも見えない声が世界をも揺らすように響いては鈴香の耳に身k事な存在感を保って届いていた。
刹菜に関しては未だに余裕を持っているのかニヤけ面を崩さないままひび割れを思わせる響きを持った声を奏でながら女を睨んでいた。
「天使め、人類様なめてんじゃないよ。私たちだって立派に地球に住む生物なんだ、お前ら高尚な生き物とは違ってな」
言葉を聞いているのかいないのか、天使はその目を刹菜には向けていなかった。視線をずらす、そうして向けられた先は、鈴香だった。
――え?
鈴香の身体は震えを持って今の感情を訴えていた。必死になって恐怖を身体で叫び散らしていた。
「大丈夫、俺が守るから、掴まって」
雪時の言葉がどれだけ心強く聞こえたものだろう。しかしながら天使は強大なる輝きを纏いながら一歩、また一歩、鈴香の方へと歩み寄って行く。この時間を鈴香は恐怖感と同居しながら見つめることしか出来ないでいた。
「フェンリル」
雪時が力を込めて伝えようとした瞬間だった。天使は足を止めた。その首元には刹菜が握りしめる万年筆の鋭い輝きが向かっていた。
「ふたりとも、相手を間違えるな、鈴香が目指すものはこんな敵なのか? 大きくありながらもちっぽけな敵なんかを相手にしてる暇、あるか」
途端にハッとした。鈴香が目指すべきところなどただひとつ。高校で待っているはずの勇人、鈴香を守ろうとして世界を壊そうとしてしまっているあの兄。
こんな所で立ち止まってなどいられない。雪時は柔らかな毛を握りフェンリルに指示を出した。それと共にフェンリルは地を蹴る。
途端にそこから生えるように氷が伸びて天使の羽根を貫き、羽根が輝きながら爆発する。その衝撃に鈍い悲鳴を叩きつけながら立派な身体を保っては羽根の輝きを受けてきらめいていた。
更に羽根が氷に触れて眩い輝きと共に爆発をもたらす姿を合図にフェンリルは跳ぶように駆け始めた。景色が襲いかかって来るように通り過ぎていく。彼らが前から後ろへと下がってきては流れ去って行くように見える。眼で追ったところで追いつくことも出来ずに激しいブレを発しながら消えて行く。こうしたモノを雪時はただ見ていることしか出来ない。あまりの無力に自身が情けなく見えて仕方がなかった。
フェンリルは前へと進みながら横を過ぎていくモノに目をチラリと向けた。
そこにいるのは輝く羽根、追いついてきたようだった。
「あのスピードでもダメなのか」
雪時が見開いた眼の先、その景色は羽根で覆われてしまっていた。
フェンリルは吠えながら冷気をまき散らし、羽根をその温度で焼き切りながら止まり、ふたりを降ろす。それから鈴香に対して優しい目を向けながら顔を学校の方へと向け、勢いよく振るように一度動かす。
「行って……いいの?」
雪時はフェンリルの冷気によって創り上げられたこの世で最も純度の高い透明感をもったつららを握りしめ、羽根を叩き斬って鈴香に顔を向ける。
「羽根は俺たちで食い止めるから、鈴香は早く」
空間は羽根によって輝き色に染め上げられて、絶望の光に染め上げられて行く。
「雪時くん、絶対……生きて」
鈴香の手を一度握りしめ、温かで大きな存在感を弱々しい心の中に宿し、言葉で雪色の炎を灯す。
「分かってる、まだふたりでプリン食べてないだろ」
一度頷く鈴香の姿を瞳に収めて微笑んで、その手は離された。
羽根を相手にする少年を想いながら駆けて行く。彼との距離はどれだけ離れようとも、目に見える距離が開こうとも、決して離れたわけではない。そう信じて、雪時を信じて、走り続ける。
息は切れ切れで、空気を吸っては勝手に出て行くような感覚と共に痛みを得ていた。脚は痛みを訴えていて、頭に血が昇るような感覚と共に目の前のぼやけたようで鮮明で独特な景色を瞳に収めていた。
日頃の運動不足が身体を蝕む。心は音を上げ、それでもどうにか走り続けている現状はあまりにも空しくて惨め。
息が切れては言葉のひとつも出てこない。
通り過ぎる建物たち、そこに多くの生命が収められているという事実、しかしながらその実感は一切湧いては来ない。
鈴香の口から浅い呼吸が鼓動を奏でて擦り切れたような声が零れ落ちては言葉にもならずに消えて行く。
無機質なコンクリート、そこから分けられた地面から不自然な生え方をした街路の緑、車が走り続ける道路、信号は青を示しては鈴香の足がシマウマ模様の地面を踏むことを許していた。
横断歩道を渡り切って遂に出迎えた校門、空は未だに青々としていて夕方を感じさせない。天使がまき散らす羽根のひとつも見当たらないそこは不自然なまでに穏やかな日常を営んでいた。
ここが本来鈴香がまだ入ることの無い校舎、それを見渡しながら歩くという様子は不思議なモノだと鈴香自身も感じていた。学校は何処であっても西洋の城のような大きさを思わせつつ、その実現実というモノを叩き込む施設なのだと改めて実感しながら歩く。
グラウンドの真ん中で、その真上、立派な青空の中に変わり果てた兄の姿があった。獣のような毛に覆われて、赤茶色の瞳に常に宿っていた優しさなど何処へと消え果ててしまったものだろうか。あまりにも無機質、薄塗りされた味気なさはあまりにも濃くて鈴香の背筋を走る嫌な寒気を誘いだしてしまう。
「あれが……勇人」
その姿を、見慣れた顔を目にしてもなお素直に信じることが出来なかった。普段の温かな貌はどこまで探っても見当たらない。さめ切ってしまって鈴香の薄肌を切り裂いてしまいそうな鋭さを感じさせた。
それを目にして、湧いて来る情、這って昇り出て来る感情、目も当てたくない色の想いと向き合いながら鈴香は手を突き出して空虚より杖を取った。
『神聖なる道しるべよ 私に仲間に人々に 正しき導きを与えたまえ』
輝きのセカイ、破滅のひとつとなりの世界の中で鈴香は輝く杖をより強く、救いの意思を込めて握りしめた。
カドゥケウスの杖はその姿を変える。白くて短い棒の先に着いた珠は透き通ったピンクに染まり翼は純白の天使へと昇華されて珠の翼を成す。互いに見つめ合っていた二匹の蛇は桃色のリボンへと姿を変えた。輝きはさらに増して鈴香のセカイを照らして、眩しさで彩り飾り付けていた。昼の輝きの延長線上で日差しに覆い尽くされた煌びやかな絶望の中、鈴香は舞う。気が付けば身を包んでいる衣は受け入れの儀式の正装へと差し替えられていた。
純白のドレスに身を包み、薄桃色のリボンが胸元を交差してしっかりと締め、仄かなくびれを持つウエストラインにリボンは巻き付く。左端に結ばれたそれは大きな蝶のようにひらひらと優雅に舞っていた。膝から足を覆う白いソックスは穢れのひとつも知らずに清潔の象徴、小さな足を覆う皮の靴は薄桃色の弱々しい輝きを放っていた。
前髪の左端にリボンが結ばれると共に鈴香は凛とした微笑みを浮かべて杖を構えた。
目の前にて力強く佇んでいる激しい感情、優しさを守り優しさと共に生きるための怒りに目を向け同じ色に染まり同じ情を抱いて熱を帯びる瞳でしっかりと見通した。やがて口は自然と動き言の葉を心の内で響かせる。受け入れる心を杖と共に輝かせて、決められた言葉を唱え輝きを示して世界を照らす。
『光の導きは 正しき道へ 希望への道しるべを示したまえ』
詠唱は杖の輝きを呼び起こし、世界の何者にも負けない程の希望を放つ。鈴香は紛れもなく強い心を持っていた。地上の太陽となって想いを輝きに変えて塗り付けていた。
『LIGHT READ RIGHT LOAD』
輝きは空をも包んで薄桃色のカーテンを広げ始めた。
優しくて仄かな輝きが辺り一帯を包み込む。空の色を変えてはそれを見る人の心をも変えて、ほんのりとした甘みを持ち込んで。
獣のような姿を取った禍々しい勇人を包んで行った。
「勇人……勇人…………帰って、来て」
その言葉に反応するように勇人の首は傾けられて鈴香を捉える。固められた表情は緩んで優しさを取り戻して、柔らかな表情を取り戻して行った。
身体を覆う黒々とした毛も光に透けて砕けて、埃となって世界の隅に散る。
やがてその場に残された勇人は空の手を離れてそっと地面に置かれた。駆け寄って、背に手を回して顔を覗き込む。
「鈴香」
声は無意識に出たものだろうか、虚ろな目が開かれて鈴香を捉える。目には微かな輝きだけが残されていた。
☆
それは次の日のこと、勇人が洋子と共に出かける一方で鈴香は幼い男の子を、同い年の少年の手を握りしめて喫茶店へと歩いて行った。
ドアを開けた途端、コーヒーの香ばしい香りと棚に積まれたティーカップや小さく尖った葉の集まりで飾られた鉢が目に入り、まさに喫茶店の独特な世界への入り口なのだと思い知らされた。
若い女が出迎え席へと案内される。
「小さなお客様、可愛らしいですね」
そう語る女の顔は今にも零れ落ちてしまいそうな温もりに充たされていた。
雪時はカプチーノを、鈴香はココアを、ふたり揃って約束のプリンを頼み、笑顔の花を咲かせて見つめ合う。
「雪時くんも……好きなんだね。プリン」
「あれ嫌いな人なかなかいないぞ」
そうした会話を口にしながらやがて運ばれてきたプリンを口にして、頬を抑えながら甘さを堪能する鈴香とカラメルの焦げ付いたほろ苦さを舌に絡める雪時。
それから語り合うふたりの目の付け所の差を認め合いふたり笑い合う。
喫茶店の穏やかな雰囲気、それに上塗りされた笑い声は明るくありながらどこか落ち着いた雰囲気を見せていた。