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怒り

 太陽は明るくて、普段であれば気分を低迷させる靄をも吹き飛ばして強引にでも晴れやかな心地を届けてくれるだろう。地上に留まることなく心にまで差し込む強い輝き。大きな太陽は心の余裕まで広げてくれるはずだった。

 しかしながら今の雪時の心にまでは届かない、彼の想いは完全に分厚い雲に覆われていた。

「俺、どうして逃げちゃったんだろ」

 昨日のこと、鈴香の笑顔を思い出すだけで心は暗闇の底へと突き落とされる。あの笑顔を曇らせてしまったかも知れない、あの輝きをこの手で打ち砕いてしまったかも知れない。

 鈴香に喜んで欲しいが為に見舞いに行って鈴香を悲しませる為の行動を取ってしまった。

 それは滑稽なことこの上なかった。

 人々が同じ服を着て赤と白の帽子それぞれに分かれてひとつの球を追いかける。そんな時間の中で雪時はただひとり授業の中に入り込むことが出来ず心はふわふわと漂い陽の光に焦がされ輝かない雲となっていた。

 鈴香に謝りたくてたまらなくて、不穏な広がり方をしながら肺腑を充たす感情に胸を焼かれて、鈴香に対する罪悪感を抑えることが出来なくて。

「そうだな、学校終わったら謝りに行こう」

 心に誓って時を経て、ランドセルを背負って進んでいる途中のこと。髪を真ん中で分けた目つきの鋭い男がゆっくりと歩み寄ってきた。

「ああ、怜さん」

「よっ、少年。どうしたんだ目に元気宿ってねえけど」

 その目は微かな輝きを宿しながら、雪時の薄水色の髪の色を混ぜながら幼い瞳を確実に捉えていた。

「学校で疲れたのか、だとしたらいけねえな、これから近いうちに鈴香の助けにならなきゃってのに役不足は勘弁してほしいな」

 雪時の目は伏せられる。役不足以外の何者でもない、笑顔を奪ってしまったかもしれない、そんな人物が助けになるなど言えたものではなかった。

「んだよ、元気ねえな、オンナノコに振られでもしたのか」

「そうじゃ……ないけど」

 その言葉を皮切りに罪悪感は怜に暴露されていった。鈴香にプリントとプリンを手渡して、明るい笑顔を、太陽よりも余程眩しい笑顔の照り付けに恥じらいを覚えて逃げ出してしまったことを。

 怜は目を閉じ頷き話をその手で弄び聞き続け、やがて軽い笑い声を空気に薄く舞わせた。

「なんだ、今日謝りに行くんだろ。わりいって思ってんならまだ大丈夫だ」

 少ない言葉は的確過ぎて雪時にも分かっていることだった。怜の言葉はそれだけで留まることなく雪時に与えられ続けた。

「大丈夫だ、鈴香は俺の友だちの妹だがあの子は優しいから。なんなら甘えん坊らしいしすぐ雪時の手を握りながら許してくれるだろうな」

 雪時は目を見開いた。突然頭の中へと訪問してきた情報に心は思い切り揺らされていた。まさか大切なキミと遠くあれども繋がっていたのだという事実。それを知って驚きが隠せない程に膨らんで破裂を待っていた。

 そんな雪時の心情を置いてけぼりにして話題は別の方角へと向けられて会話は進められる。

「そうだ、その内だ、鈴香が大きな役割を背負うと思うんだ。学校の課題でも何でもなく、大きな役目」

 いったいどのようなことがこの街の隅で行なわれるのだろう、見えない色をした影に覆われた世界の話など全くもって想像も付かせない。それでもそうしたセカイの中に一歩を踏み出すようここで促されているという事実だけは変わりなかった。

「いいよ、やってやる」

 雪時は頷いて見せた。答えてみせた。その勇気が心に澄んだ空を見せてくれた。今日はきっと謝りにいけるだろう。

「よし、だったら話は早いな。武器を渡すとしよう、手を伸ばすんだ」

 怜の手は伸ばされて雪時へと向かって行く。対して雪時もまた手を伸ばして、隙間の空いた橋は出来上がった。

 そこを一瞬影が通り抜けたような気がした。眼は影を微かに捉えた。

「えっ、今……うわっくすぐったい」

 雪時の腕を歩き渡って袖から入って首へと上がり肩に乗る。そこまでの流れはあまりにも強いくすぐったさを与えて雪時は思わず笑いと震えに身を打ってしまっていた。

「そいつこれから雪時の協力者だし役目終わっても残るから仲良くしてやってくれよ」

 姿さえその目に見ることは叶わない。肩を見つめようとすれば背中に回って姿を隠してしまう。

「見て驚くなよ」

 背中に手を伸ばしてそれを手にした。毛に覆われた柔らかな身体は心地よくていつまでも触れていたいという欲望を沸き上がらせてくれる。身体を這うように動く感触のなかに足跡を感じた辺り犬か猫、正しくはリス辺りだろうか。手のひらに収まるそれを目にした時、雪時の表情は氷のように落ち着き、更に落下して。

 無言の示す感情は唖然に変わっていた。

「犬……だよな」

 小さな犬のような生き物は雪時の髪や目と同じ色を持っていて、ただそれ以外には何ひとつ変わったところの見当たらない小動物でしかなかった。

「オオカミだぞ、フェンリルっていうんだ」

「神話の生き物か、うんそれだけ?」

「ああそれだけ」

 雪時はオオカミを目にするということの価値を知らなかった。日本に住まうオオカミはとっくに絶滅しているということなど、頭の片隅にすらなかった。



  ☆



 日差しがしんどい、明るさがしんどい、夕暮れの空がしんどい、夜闇がしんどい。何もかもが嫌になってしまいそうな頭痛と香りのしない世界。そんな味気ない上に頭の中にておもりを抱えているような生き様にうんざりしているだけの時間も過ぎ去って、身体全体を覆う気怠さだけが取り残されていた。

 鈴香は目を擦りながら体を起こし、カーテンを開いて今日の空に昨日の雪時と過ごした時間を描いて行く。蒼の布地にサーモンピンクの絵の具を混ぜるようなその感覚は愛しくて、大事なあの子と過ごす時間はあまりにも貴重で大切なもののように思えていた。

「だめ……早く、治ってよ」

 頬は熱を帯びて通り過ぎていく風邪が回れ右をして戻ってくるように思えた。違う感覚の熱だということに、気が付いているのかいないのか。

 鈴香は多少のふらつきを残した足で、地を捉えきれていない感覚で進む。

 床は不安定で踏み出すごとに揺れている。実際に揺れているのは鈴香の感覚の方で、安定の取れないその足が鈴香の調子は全快には届いていない、元気は全開ではない、そう告げていた。

 ドアを開いてその目に映る祖父の姿。鈴香は微かな声で顔を合わせて初めの言葉を告げていた。自然と出て来るように、心のひとつも込められていないように。

「おはよ」

 皺だらけの顔をした男、生気が皮膚から抜け落ちて萎んでしまったのだろうか。生きた心地はその目にしか残されていなかった。

「ああ、おはよう。しっかりと眠れたかな」

 頷くこと、取れる行ないはただそれひとつ。

「そうか、よかった。健康が一番だからな」

 一拍置いて、呼吸が肺をすり抜ける音が微かに届いて来た。話題の色は塗り替えられ、それが鈴香の空を曇らせて行った。

「今思えば昨日上げたクソガキ、あれはもう上げない方がいいか。どうせしょうもないやつなのだろう。逃げるように帰って挨拶も出来ないガキはな」

「……やめ……て。雪時くんを……悪く、言わない……で」

 鈴香の目はいつにない熱を帯びていた。今にも泣きだしそうな弱々しくもはっきりとした赤にくっきりとした熱の赤が混ざり合って、感情はあらぬ方向へと、必然の天へと上がり続ける。

「雪時くんは! 私の、こんな誰も相手してくれない私のこと……ちゃんと見てくれたの! 雪時くんのこと……悪く…………言わないでっ!」

 祖父はのけぞった。一歩下がるほどの勢いは鈴香が決して弱いだけの女の子ではないのだと語っていた。

 迫力は言葉も無しに叫び散らす。炎のような揺らめきは影をも震えさせていて、いかに鈴香の耳に届けてはならない言葉を贈ってしまったのかが窺えた。

 それでもなお耄碌して人生の波に擦れて削れた瞳には映らないのだろうか。祖父は鈴香を睨み返した。

「あんな礼儀知らず要らぬわ! 所詮は誰でもいいとほざく雑魚風情だろう。どうせいい女見つけたらお前のことなどいなかったものとして扱うぞ。この世に居ても居なくても変わらないようなゴミなどと関わるのはやめるのだ」

「最悪! もういい、分からず屋」

 鈴香はそのまま踵を返して勢いよくドアを閉めた。鈴香の怒りとその余韻のドアを閉める音は部屋に漂っていたはずのふんわりとした空気を完全に壊し尽くしていた。

 自分の部屋にこもりっきり、膝を抱えて、大切なあの人のことを想いながら収まらない辛味に熱された感情を滾らせ続けていた。

 祖父はドア越しに叫び続けていた。出てこいと、お前の為を想って言っているのだと、形だけが綺麗な紙細工の言葉を、お茶請けにすらならないつまらない言葉を吐き続ける。

 反省するということなど忘れてしまったのだろうか、そう言った当たり前のことさえ覚えていないのだろうか、そもそも悪いとすら思っていないのだろうか。他人のことを平気で罵って全てを、存在さえも否定してしまうその態度は血のつながりさえ呪ってしまう有り様だった。

 それからしばらくの時を経てドアの向こうは大人しくなった。音が止んだ、意識がその事実を捉えたのはいつだろう。家族と言えば勇人と母親以外の顔など見たくない、そんな気分にまで落とし込まれてしまっていた。

「早く……帰って来て。勇人」

 今朝の行動からの遅刻が決定してしまったらしい彼に会いたくて。

「雪時くんも……今日も、来て」

 昨日の行動は恥ずかしさから来たものだったのだろうか。心から見た景色にははそう映っていた。頭で見る景色はそれを否定していた。

 鈴香は誰でも気軽に話すことは出来そうでも誰も惚れてはくれない、そう思い込んでいた。そんな思い込みを変えることはきっと容易ではないだろう。これまでの経験が答えを示していると思っている限りは変わることもない。鈴香は雪時とのこれまでの思い出を取り出していた。

 家庭科室のことから始まった関係。話しかけてくれてお見舞いにまで来てくれて。

 その関係は鈴香にとっての支えとなっていた。家族以外の人との親しい会話はいつ以来だろう。遠くて見えない記憶の影の中の世界、そう思えた。

 誰にとってどのようなものであろうとも鈴香にとってはティーカップに詰め込まれた宝石仕立てのゼリーのよう。そうした大切なものを軽々と踏みつぶしにかかる祖父の姿が頭を過ぎっては更なる苛立ちを沸き立たせて、感情は湯気となって昇り続ける。思い返して更に苛立ちを呼び起こし、大きく膨れ上がっては頭の中を大きく占め始めて行った。

 今になって思えば勇人に対しても人という扱いをしていないようで、あの男は家に一緒に住んでいながらの敵のように思えて仕方がなかった。

――ねえ、どうして……家族にそんなこと、出来るの?

 問いは言葉にならず、鈴香の中で勝手に溶けては消えゆく。ただそれだけのこと。消えて無くなって気が済んだ、そう思っても再び蘇っては煮えたぎる。どうして収まることが出来ないのだろう、どうして次から次へと注ぎ足されて行くのだろう。継ぎながら接ぎながら延々と伸ばされ続ける。

 この感情は、大切な人を思っての想いの色、そう気が付いた時、鈴香の情に絞られた瞳に写し身の現身が映されていた。それは不機嫌以外の言葉では表すことの出来ない判りやすいもので、くっきりとした色合いで。

 目の前にして鈴香は見てしまった。恐ろしい貌をした彼女の目の端に、微かな柔らかさが、本の少しの優しさが見え隠れしていることに。

 自身の想いは再び味わい返された。果たして鈴香はなに故に怒りを抱いていたのだろう。

 雪時のことを全て否定する祖父、好きな人がそこまで言われてしまっていたから。

 勇人のこともまた、同じように否定していた。優しい彼のことを、あろうことか家族である彼のことを、使い捨てにしてしまおうなどと考える祖父。

 鈴香はようやくこの怒りの理由を全身で浴びて理解した。

「そっか……あなたも、優しさから…………生まれた人だった」

 目の前にて見えもしない相手を睨み続ける鈴香のことをしっかりと抱き締めて、いつもの小さくて通りの悪い声で、彼女を迎え入れた。

「ツラい想いさせて、ゴメン……優しさのために……動いてくれて…………ありがと」

 熱く燃える感情、人々が嫌いがちなそれもまた、人として生きることを貫くための色で、鈴香はこの怒りもまた受け入れるもののひとつだと理解していた。

 黒くて赤く燃える情を受け入れるべく、鈴香は杖を手に取った。

『神聖なる道しるべよ 私に仲間に人々に 正しき導きを与えたまえ』

 灼熱のセカイ、冷たくて熱いこの心の世界で鈴香は輝く杖をより強く、愛を込めて握りしめた。

 カドゥケウスの杖はその姿を変える。白くて短い棒の先に着いた珠は透き通ったピンクに染まり翼は純白の天使へと昇華されて珠の翼を成す。互いに見つめ合っていた二匹の蛇は桃色のリボンへと姿を変えた。輝きはさらに増して鈴香のセカイを照らして、眩しさで彩り飾り付けていた。昼を手前にした容赦のない日差しに覆い尽くされた煌びやかな空間の中、鈴香は舞う。気が付けば身を包んでいる衣は受け入れの儀式の正装へと差し替えられていた。

 純白のドレスに身を包み、薄桃色のリボンが胸元を交差してしっかりと締め、仄かなくびれを持つウエストラインにリボンは巻き付く。左端に結ばれたそれは大きな蝶のようにひらひらと優雅に舞っていた。膝から足を覆う白いソックスは穢れのひとつも知らずに清潔の象徴、小さな足を覆う皮の靴は薄桃色の弱々しい輝きを放っていた。

 前髪の左端にリボンが結ばれると共に鈴香は凛とした微笑みを浮かべて杖を構えた。

 目の前にて力強く佇んでいる激しい感情、優しさを守り優しさと共に生きるための怒りに目を向け同じ色に染まり同じ情を抱いて熱を帯びる瞳でしっかりと見通した。やがて口は自然と動き言の葉を心の内で響かせる。受け入れる心を杖と共に輝かせて、決められた言葉を唱え輝きを纏めた。

『光の導きは 正しき道へ 希望への道しるべを示したまえ』

 詠唱は杖の輝きを呼び起こし、真昼のステージにも負けない程の眩しさを放つ。それは鈴香を地上の太陽として力強い演出で飾っていた。

『LIGHT READ RIGHT LOAD』

 輝きは目の前の感情を包んで燃え上がり、より一層激しく燃え上がる。

 鈴香の持つ感情、様々な感情たちが光に透ける儚い姿を持って希薄な色を付けて出迎える。

 怒りの情もまた、鈴香と重なることで色を落として薄赤い薄明りとなって他の感情たちと共に鈴香の心の中で泳ぎ始め、儀式は無事に終わりを迎えた。

 自身の感情の受け入れ、自らを顧みることで、自分の感覚を知ることで人をも知る。そのような簡単な言葉で締められるほど人というモノは簡単ではないものの、自身すら分からないままでは人を知ることなど出来ないだろう。導く為に伸ばすその手が届かないだろう。


 鈴香は身体が軽くなっていることに気が付いた。

「風邪……治った、みたい……だね」

 微笑みながら気怠さの余韻に頭を揺らしつつも昼ごはんを食べに部屋を出る。

 きっと今日の夕方にも雪時は来てくれるのだろう。

 その予想はしっかりと当たっていた。呼び鈴が響いたその時、答えが告げられた。

 鈴香はドアを開いて笑顔の儚い花を咲かせながら出迎える。

「はい、今日も……来てくれたん、だね……ありがと」

「あ、その」

 雪時は顔を背けつつ、言葉を詰まらせながら目で何かを探っているようだった。

「どうしたの?」

 答えは勢いよく、思いもよらない声量と速さで飛んできた。

「昨日はごめん。逃げ出しちゃって。もう、勇気は無くさないから」

「いいよ。それより、今日も……来てくれたの、とっても」

 嬉しい、そのひと言、たったそれだけの言葉がうまく出てこない。雪時が感じている熱が鈴香にも移ってしまったようで。風は治ったはずなのに、身体は不調を訴えているようだった。

 雪時は大きく息を吸う。鈴香の方へと顔を向け、目でしっかりと鈴香をつかみ、言ってみせた。

「鈴香、もしよかったら次の休みにさ、もっと美味しいプリン食べに行こう」

 流れる沈黙。漂う香りは季節外れの甘酸っぱさを、春の香りを運んでいた。溢れ出る想いに浸りながら鈴香は笑顔の重みに顔を傾けて口を緩やかに開いた。

「うん、ありがと……約束だよ」

 まだ沈まない日差しはふたりに喜びと祝福の笑顔を注いでいた。

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