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風邪

 いいか少年。そうした出だしで男は語りの包みを広げ始める。雪時はよく髪形を変えている男を見つめる。今日は右側だけ髪を上げ、左側は伸ばしっ放しに見えたものの、その伸び放題に見える髪はしっかりと纏まっていて申し訳程度に努力の痕跡を残していた。

「本当の強さってのは分かるか」

 本当の、それはどういったことだろうか。雪時には強さは強さでしかなくてこの前の鈴香に対して取られた優しさは自身の心の弱さが招いたものだと思い込んでしまっていた。

「その顔は分かってねえな」

 見透かされていた、歳の差はいくつだろう。今は高校三年生だと主張を繰り広げる姿を目にしたことはあったものの、実際のところはつかめない。

「いいか、強さってのはな、ひとつだけじゃねえんだ、力だけじゃねえ、人に優しくすること、人の話を聞いてあげること、それに受け入れてあげることと本音で語ることだ」

 どれもこれもが子どもの目線からすれば弱々しい者が行なうことのように想えた。雪時は、自覚もないままに強さのひとつを引き出していたのだった。

「不思議だよな、ひとりで全て出来るやつ、ただ単にチカラが強いやつが強く映っちまうんだからよ」

 そう、まさに雪時が想像していた強さ、それもまた強さであることには違いはなかったものの、また違った強さもあるのだと人生の先輩が経験を共有してくれた。


 時は流れて次の日の朝のこと。鈴香はいつものようにぼんやりと教室を眺めていた。表情の動きは緩やかで、和んでいる様を見て取ることが出来た。

 そこに声の色合いを斜めから挟み、微笑みを投げかける男の子がいた。

「おはよう、鈴香」

「おはあ……雪時くん。今日も……ふふ、元気だよね」

 その目は穏やかでのんびりとした様子を見て取ることが出来るものだった。そこに愛しくて可愛らしい感情が流れてきて、雪時の心に暖かで心地よい風を流し込んでいた。言葉は、優しい声は見かけによらない濃い色彩を霧に変えて吹き込んでいた。

「鈴香って話すの遅いよな、俺はそこも好きだけど」

「す、す、へ……私」

 戸惑いは更に言葉を遅らせる。その感情に浸り続けることの心地よさに完全に取りつかれていた。鈴香は雪時に対して抱く想いに漬けられて淡い味わいを染み込ませていた。

 雪時は机に手を着いて昨日やっていたであろうテレビ番組の話を始めた。毎週やっているそれは鈴香でもタイトルくらいは記憶の端から引き出すことが出来た。昔少しだけ観た事があることを覚えていた。

「でさ、奇跡的な再会果たしたんだよ。すっげーよな」

 目を輝かせて語る様があまりにも柔らかで、鈴香の中にひとつの感情を生んだ。名前も知らない、言葉に表すことも出来ないその感情、得体の知れないモノではあっただろう。しかしそれにいつまでも浸っていたい、そう思えて仕方がなかった。

「えへ、かわいい……ね。雪時くん」

 沈黙はふたりの間に流れては空気を充たす。ふたりの外側でざわめく声など何ひとつ届くことなくただただ共に甘い想いを抱いては噛み締めて、目を合わせることも叶わず共に逸れてしまう。

「なんだろ、ありがと」

 どういえばいいのか分からない。漂う感情が考えもなしに選び抜いた言葉はあまりにも無難な回答。

 照れ恥ずかしさを耳に掛けながら身に塗り付けていた。

「……雪時くん……雪時……くん」

 名前を呼ぶ度に微笑みは大きくなり雪時の顔いっぱいに流れるそれは言葉に代え難い。声に変えられない想いは吐き出されることなく心の中へと帰って行った。

 鈴香はと言えば感謝の想いに充たされていた。雪時が傍にいてくれる、ただそれだけで孤独ではなくなっていて、どこにでもあるひと時が大切な時間の宝石箱のように想えていた。

 恥じらいと嬉しさと見つめて欲しくない気持ちともっと見て欲しいという欲望。そうした想いが色とりどりの生活を生んでいた。なにも変わりのない鈍色の行動が虹色のものとなっていた。

「そうだ、鈴香は暇な日ある?」

 それはありったけの勇気が詰め込まれた幼い言葉、繋がりたい、そんな純粋な想いから出た言葉だった。

「う……うん。いつも」

 実際鈴香はいつも暇を見つめながら過ごしていた。孤独のセカイではひとり、兄がいる時でもふたりからどこまで増えても四人が限界だった。

「じゃあさ、次の休日一緒に出掛けようよ、近くでも良かったら」

 雪時からの誘い、それは甘美な言葉。今までの生き様からは考えられない出来事に対し当然のように慌てふためくばかりだった。

――ええ……ええええええぇぇぇ!!!! 男の子と……それもこんなにかわいい子と、お出かけ

 鈴香の顔が熱くてたまらない、覆い被さるような熱は背筋を伝う汗に変わって流れ続ける。

「予定入ってるかな」

 断ってはならない、これは意地でもつかみたい。鈴香の内に生まれた舞い上がる想いは触れる勇気を、行動しようという想いを突き抜けて先走って言葉を持ち込んだ。

「よろこんで」

 そうして結ばれたひとつの約束を大事そうに抱えながら幸せな時間に身を浸した。


 ここにはどのような空が広がっているだろう。この視界の上にはなにが居座っているものだろう。真っ白な輝きの空に朱い彩の布地か青々とした天の海か、はたまた既に深淵の暗黒だろうか。

 鈴香が見つめているものは天上を塞ぎ切った天井だった。真っ白なものでシミもなく穢れを知らない幼い少女の心のよう。

 視界いっぱいに映り込む純白の空が揺らぐ。頭の重さ、身体の気怠さに身を揺らし続けながら鈴香は寒さに身を縮めていた。それは明らかに五月の気温の為す業ではない、気が付いていた。

――どうして、こんなに……寒いの

 きっと気温は穏やかな温かさに身を包み静かに確かに微笑んでいるところだろう。鈴香は身体を起こす。動くと共に視界の端に普段はみない影を目にした。それは何者なのか確認できない。頭の回りが時計の針に追いつかない。

 そこに居座るモノはニヤニヤと機嫌いっぱいの貌を見せつけているようにも思えた。

「刹菜……さん」

 影は窓ガラスから離れて近づくことで逆光のセカイから解き放たれた。

「やっほー鈴香ちゃん。しっかり真面目に儀式進めてるね。やっぱお兄ちゃんにはいつまでも甘えていたいかな」

「そんな……事、ない」

 鈴香は頬を膨らませてそっぽを向いていた。赤い頬は見るからに熱がこもっていそうでそれが彼女の状態を語っていた。

「風邪か……いやだね、身近な人に近付くしかないんだろ。つまり、好きな人に風邪を菌をばら撒いてるんだろおっそろしい恩知らず」

 冗談の多い彼女だからこそすぐにそうだと判別がついたものの、きっと今の状態では勇人や怜の冗談など一切分かること、真実を手に取ることが出来ないだろう。鈴香は部屋を出て家族に話してすぐさま戻って辺りを見回した。そこには刹菜の姿など見当たらなかった。あのニヤけ面も声も香りも温度も残すことなく、まるで何処かへと立ち去った幽霊のように跡形も残さない。

 窓の向こうに広がる空の白を見つめて柔らかな朝なのだと知った。

 鈴香は身体の奥から湧き出る感覚に身を竦めながら力を込める。

 無理やり結んで閉じた口は耐えることも出来ずに大きく開いて鈴香は盛大なくしゃみを放り込んだ。どこの誰もいないこの空虚の中に大きく投げ込んだ。

――治るの……かな

 思わず抱いてしまった不安に襲われて朝の優しさに似合わない感情に浸り続けていた。

 そんな中に突如浮かび上がったあの笑顔、幼く可愛く元気いっぱいなその表情の味わいは何処までも甘美なもので鈴香は思い出すと共に会えないという現実に身を沈めていた。

――やっぱり、私

 雪時のことが触れたくて堪らなかった、あの笑顔で語りかけて欲しかった、あの目で今日こそはしっかりと見つめて欲しかった。浮かび上がる欲望の数々が揺りかごとなりながらも激しく揺らされて空気をも破ってしまう。

 愛しくて会いたくて。

――雪時くん、会いたい……よ

 鈴香は思う。果たして欲望は醜い感情なのだろうか。美しくはなくとも見苦しかったとしても、そうした妙な彩りさえもが美しくあった。


 そうして回るように揺れる頭と視界に縮こまって過ごした朝は過ぎ去って、誰もが明るさを、太陽の煌めきの暴走に何かしらの想いを走らせる昼は訪れた。

 そこには勇人の姿も無ければ両親の世話もない。祖父が電子レンジで温めた鶏肉とごはん、インスタントのわかめスープを食べるだけ。

「風邪とはな……もしかして勇人がなにかしただろうか」

 耳を疑った。この男はよりにもよって孫を悪人に仕立て上げようとしていた。鈴香は大好きな勇人が悪く言われて身体のふらつきに迷い込んでいた。心は現世と鈴香の内を行き来して移ろい続けて、起きながらにして微睡みに揺れる様を想っていた。

「どうして……勇人のせいに、するの? 家族……だよ、ね」

 祖父は大きなため息をつきながら米を口に入れたまま語る。

「知らないのか、それでいい。だがひとつだけ言う。アレは家族としては扱えない。きっとその内いなくなってしまうだろう。それまで家の役割を果たしてもらおうと思っていてな」

 つまるところ、利用するに過ぎない、彼にとっては血のつながりなど言葉の世界のものでしかなくて勇人のことなど大切な家族の中には入ってすらいないのだろう。

 祖父がそれであるならば、両親はどうなのだろう。父は常に恐ろしい形相を、顔のカタチからしておぞましいために話しかける気持ちさえ湧いてはくれないものの、幼い顔をした優しくて可愛らしい母についてはどうだろう。あの優しそうな貌の裏に無の感情を隠しているのだろうか。身体を痛めてまで生んだ子に対して存在すら無視することは出来るのだろうか。苦しみながらも生命を生む痛みに耐えながらも嬉しさに浸っていたはずの母は違う、そう信じて祖父に顔すら向けずに食事を済ませて完食の挨拶も無しに部屋へと戻る。

 これから再びベッドに横になって想いを馳せる。

 鳥の高くて優しい鳴き声が心を癒す。結局のところ人の最大の敵はヒトで、体と心、動きと心、心と心、そうしたものがぶつかり合って醜い色をした火花を散らす。

 日差しが窓を叩く。光を運び込み、包み込んで世界を変えて。

 鈴香は揺れる頭で、覚束ない足取り、感覚の浮遊に任せて歩みを進めてカーテンを締める。

――風邪……治らない、かな。雪時くんと……出かけたい

 願いは果たして届くものだろうか。つかめない、想像のひとつさえも分からない。せっかくの休日の充実が約束された約束を果たすことが出来なくなってしまうのだろうか。

 将来の想いを乗せてベッドに身を預ける。熱の高い風邪。鈴香は想う。

――なんで……私、風邪引いたら…………熱すごく上がるん、だろ

 三十八度二分、ごくごく普通の風邪さえもがしんどくて苦しくて我慢が出来ないだの言っている余裕さえなかった。もしかすると勇人から今日の出来事を聞かされても、想い出のページを捲り進められたとしてもその口は浅い返事すらひねり出せないかも知れない。

 それからどれだけの時間が経っただろう。鈴香の内側では雲のように綿のように膨らむ想いが無機質を帯びた墨色に染まりながら育ちあがり始めていた。

 本当に治るのだろうか。

 一度や二度ではない経験、しかしながらその体験を繰り返す度に毎度のように巡って来ては鈴香の心の空を漂う雲となり影を映し込んでしまう。

 軽く揺れて痛みを強める頭は容赦を知らず学ぶこともない。ただただ暴れ狂う地上の熱波と身体を実体無く揺らす波となって幼子の足取りを不確かなものに変える。歩くこともままならずなにもしないままに寝転がっているのが一番だと諦めたその時、呼び鈴が鳴った。

 鈴香の部屋にまで伝わる音は覚束ない頭に鋭く響いた。

 そこからドアの開く音を聞いて祖父が対応しているのだろうと理解して、再び鎮まり静まって。

 長々と話している相手の声は妙に幼くて鈴香はベッドに頭をこすり付けるように首を傾げた。

――学校だよりでも、届けに?

 想像をゆっくりと回している内にも世界は進み変わり居るものだと思っていた時間は過去となって割れて行く。

 足音が近付いて来るのを耳で取って耳で追い続け、祖父が来たのかと考えつつも違うと気付かされた。

 足音が妙に軽いのだ。

 軽すぎて勇人よりもさらに幼いだろうと曖昧な頭の動きで直感を直視して、やがて訪れたその姿に鈴香の顔は更に熱を感じていた。

「ゆ……雪時くん」

「よっ、先生に言われて届けに来た、ウチ近所だし」

 表情は明らかな嘘だと語っていた。しかしながら鈴香には何が嘘なのか、どのような嘘なのか、どうしてその嘘はここまで雪時に明るい表情を咲かせているのか、鈴香の暗闇を叩いて顔を覗こうとするのか、全くもって分からなかった。

「ありがと」

 鈴香に出来ることは礼を言って頭を下げる、ただそれだけ。

「別にいいって、それよりプリンあげるからその、元気出せよな」

 渡されたものはきっと帰り道に通りかかったコンビニに寄って買って来たものだろう。この訪問のひとつ、ただそれだけで鈴香の心の霧は晴れていった。

「……ありがと、雪時くん」

 そこから沈黙は流れ、鈴香の空気感は雪時にも伝わって。ぬるい空気は五月とはとても思えない春の心地を与えてくれた。

 鈴香は早速プリンの蓋を開けスプーンを黄色の身に滑り込ませ掬い上げる。少しだけ片目のそれを口に入れ、鈴香は微笑んで見せた。

「美味しいね。風邪が治ったらもっと美味しいかも」

 雪時の目に映る少しだけ弱った柔らかな笑顔はきらめいて、雪時の頬を温める。澄んだ想いの心地の味は雪時の中に恥ずかしさと震える感情と激しい熱を生んでいた。顔を逸らしたくなってしまうものの、いつまでも見つめていたくもあってどうすればいいのかも分からないまま薄桃色の霧の中に迷い込んでいた。

「雪時くん……顔、赤い」

 微笑みはただ余裕がないだけではなく雪時の顔をしっかりと見ていた。

「もしか……して、風邪、移しちゃった?」

「いやいやいやいやそんなことないって。別になんでもないから!」

 言葉だけ残して走り去っていく。背中を見せて素早く消え行く。

 優しい同級生の姿を見て鈴香は口の中に残る淡い味をただただ噛み締める。

 プリンに混ざるその味はこれまで触れてきたどのような味わいとも異なって、鈴香の中では特別な味をしていた。


 鈴香は淡い甘みをいつまでも抱いていた。いつまでも抱き続けていたかった。



  ☆



 走る。お邪魔しましたのひと言を辛うじて残して家の外へと出て走り続ける。風を切って駆け抜ける。学校の中では味わったことの無い感情に頭はかき乱されていた。もしかすると喧騒や空気感のおかげでここまで濃い味を見て来なかっただけなのかもしれない。

 外はまだ明るくて空はいつも通りの笑顔を見せていた。

 そんな明るみのたまり場の中で大きく息を吸って澄んだ想いだけを残して吐き出す。そこで雪時はひとつ、大きな後悔を見つけてしまった。あの笑顔をもっと味わっていたいと思うのはもちろんのこと、もっと大きくて深い後悔の渦を。

「今度一緒にプリン食べに行こうって、誘えたのに」

 そうして気づきをもらっては感情が運び込んだ汗を拭って大きなため息をついて、空気に溶かした。



  ☆



 太陽はさよならの余韻を、後の影を引きながら落ちて行く。きっとこれから他の場所に顔を出して肌の色も言葉も異なる人々の世界を照らすのだろう。どのように太陽が動こうともそれは太陽の勝手で他の誰にも物を言う権利などなかった。鈴香は次の日が恋しくてたまらなかった。風邪が早く治ればそれだけ早く学校に行くことが出来る。雪時と会うことが出来る。

「こんな……こと、初めて」

 鈴香の中では初めてのこと。学校に行きたいなどと思えたのはこれまでなかったことだった。あまりにも鮮度の高い感情に心を揺さぶられて欲望は綺麗な想いの色を奏でてみせた。

 それからベッドへと潜り込み、闇の中に光を描く。今ごろ怜はどのように生きているのだろう。洋子はきっと今日も可愛いのだろう。何をしているのだろうか気になって仕方がなかった。あの可愛さに一歩でも近づきたくて、鈴香の胸は溢れ出る想いを抱えきれなくてそのまま情緒を乱してしまっていた。

 雪時は今何をしているのだろう、今何を、今という時間の中で誰を想っているだろう。鈴香のことを考えてくれているだろうか。

 そうして想いをふらつきの勢いに任せて回しては鈴香の意識は順調に眠りへと向かって行った。

 闇は鈴香が見ていない内にどこかへと消え去ってしまったようで何事もなく訪れた朝。キジバトの鳴き声に癒しを覚えながら、目の前に立つ癒しに甘えようとして。それさえ鈴香の頬を熱くしてしまうように思えた。

「おはよう鈴香、熱はどうかな」

 子どものような顔立ちをした兄が心配を表に出しながら顔を覗き込んできた。

 その顔はいつでも花が咲いている図が浮かんできて鈴香の息を乱す。

 身体の調子と向き合ってみる。起き上がろうとしてうまく体が動かない事。人生を歩むその一歩が覚束ないもので、絶望を抱いた。

「治って……ない」

 お大事に、そう残して立ち去ろうとした彼は違和感を抱くこととなる。

「は、はえ、どうなってんだ」

 勇人の声は焦りの想いを大きく広げて声にしていた。それから少しの間ドアから出ようとして戻るその様を鈴香は思考さえはっきりとしない顔、ただ現実を追いかけ続けるだけのその目で見届け続けた。

「鈴香、分かるよな」

「なんで……出入り、してるの? 何回も」

 もはや奇行の類い。見ているだけでもおかしな動きは勇人の異変よりも現実の異変を思わせる。

「鈴香、何故か部屋から出られないんだけど」

「分かる……私も、出たくないこと……ある」

 はたしてその答えは正しいものだろうか。状況の香りと照らし合わせる余裕もなくてついつい口走ってしまう。

「そうじゃなくて」

 それからのこと、どうにも抜け出せないのは魔法のしわざだろうと鈴香は答えを見つけていた。刹菜のニヤけ面を思い出しながら、初めて自分が行なっている儀式の外側の魔法のセカイの流れに巻き込まれたことを確かめて、勇人が本当に戦っているのだと知った。

 心配は形と成って胸の中を泳ぎ続けるものの、言葉にすることは出来ない、話すことは許されない。鈴香が魔法の存在を知ったとなれば勇人がどのように動くのか、想像も付かなかった。

 しばらくの間部屋から抜け出すことの出来ない勇人を見つめては傍にいるにもかかわらず話すことが出来ない、同じセカイの同じ側面を異なる角度で見ている彼と話すことさえ出来ない。

 だましているような気分だった。

 そうして鈴香が罪悪感に浸っていうその時だった。

――罪悪感、おめでとう。それもまた優しさの証。そんな私のことも受け入れて

 心の中に響く声は告げていた。それもまた感情、儀式の中で受け入れるべきもの。

 鈴香の部屋と外の境界線で手を伸ばしている勇人を傍目に、鈴香は自己の世界の中へと入り込み、そこで杖を手にした。

『神聖なる道しるべよ 私に仲間に人々に 正しき導きを与えたまえ』

 爽やかな朝、キジバトの鳴き声に合わせて一歩踏み出してステップを踏む。鈴香は輝く杖を握る手に力を込めて始まりの合図を送る。

 カドゥケウスの杖はその姿を変える。白くて短い棒の先に着いた珠は透き通ったピンクに染まり翼は純白の天使へと昇華されて珠の翼を成す。互いに見つめ合っていた二匹の蛇は桃色のリボンへと姿を変えた。輝きはさらに増して鈴香のセカイを照らして、眩しさで彩り飾り付けていた。柔らかな朝の日差しに照らされた爽やかな空間の中、鈴香は舞う。気が付けば身を包んでいる衣は受け入れの儀式の正装へと差し替えられていた。

 純白のドレスに身を包み、薄桃色のリボンが胸元を交差してしっかりと締め、仄かなくびれを持つウエストラインにリボンは巻き付く。左端に結ばれたそれは大きな蝶のようにひらひらと優雅に舞っていた。膝から足を覆う白いソックスは穢れのひとつも知らずに清潔の象徴、小さな足を覆う皮の靴は薄桃色の弱々しい輝きを放っていた。

 前髪の左端にリボンが結ばれると共に鈴香は凛とした微笑みを浮かべて杖を構えた。

 空をただ浮いているように力なく漂う感情、優しさがあるからこそ生まれる罪悪感に目を向け同じ色に染まり同じ情を抱く儚い瞳でしっかりと捉える。やがて口は自然と動き言の葉を心の内で響かせる。受け入れる心を杖と共に輝かせて、決められた言葉を唱え輝きを纏めた。

『光の導きは 正しき道へ 希望への道しるべを示したまえ』

 詠唱は星々を集め、鈴香を儀式の主演として大いに輝かせた。

『LIGHT READ RIGHT LOAD』

 それから一瞬のできごと。その情は、一瞬にして鈴香の中にて暗くありながらも彩り溢れる花束へと姿を変えた。

――ありがとう、罪悪感。あなたのおかげでいいことと悪いことが見分けられるの

 儀式は終われども風邪はまた別の原因。鈴香は次の日までベッドの中で頭を抱えながら眠るのみ。

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