涙
そこに広がるは人と人が繋がり合う広々とした屋根の下。授業、学問を主体にと言っているように見えて本当に大切なことは多くの人と関わることで人間同士の接し方や距離感を覚えること。
鈴香はその事実に当然のように気が付いていなかった。
鈴香はただただひとりだけそこに立っていて、周りからは相手にもされないという事実だけを噛み締めながら生き続ける。どうしてこのようなことになってしまったのだろう、どうすれば少しでも相手にしてもらえるものだろう。鈴香にはそれすら分からなかった。
孤独の道をこれからも歩き続けるのだろうか、周囲の明るさから見えない壁で隔てられて湿っぽい埃が積もって誇りになることもない。
ただただ寂しい、それだけしか感情を見て取ることができなかった。
小学四年生に上がって一か月以上は経って五月の中旬、前から関わっていた人物は学年の始まりから分かっていて当然。同じクラスに割り当てられて共に過ごす児童も鈴香に対する扱いなど理解し始める頃だった。
無視だ、初めから居ないことにしてしまえば関わる必要すらなくなる。たどたどしさもどんくさい様子も控えめな態度も消え入りそうな声も何もかもが面白くなくてイジメる意味さえ感じられない、かといって話すだけでも苛立ちを起こしてしまう、ならば要らない。それがクラスメイト達の出した結論。
そんな中で昨日の家庭科室で触れた初めての親切。雪時の差し出したハンバーグと照れ臭そうに顔を背ける様子が未だに脳裏に焼き付いて離れない。その余韻は未だに残っていた。ほんのりと甘い感情はハンバーグの味の外。入れてもいないはずの隠し味は輝かしい美味だった。
「雪時くん……うふふ」
思わずこみ上げてくる笑みと湧いて来る甘くて弾ける感情で胸を充たし、表情の崩れは止まらない。そんな揺れる想いを見つめながら水筒を口に当て麦茶と共に流し込む。
視線を心の中から目の前へと、運んだ先には瞳いっぱいに広がる笑顔があった。それが鈴香の想いに更に火を点けて、顔が身体が火照って仕方がなかった。
「ゆ、ゆゆゆ、雪時……くん」
「なんだよ、さっき呼んだだろ」
不意に現れた彼があまりにも眩しくて、鈴香の目には季節外れのヒマワリが咲いていた。
「なんでも……ない」
「嘘つけ、なんでもないことないだろ」
想いがこぼれてきただけ、そんなこと口が裂けても言えない。雪時のことをただのクラスメイトだとしか思ってない。隠して、そうでなければきっととてもでないが耐えられない。
そうした感情の名も知らずに、どうしてそう動いてしまうのか、判らないままに鈴香は言葉をこぼした。
「別に……なんでも! ないって!」
雪時は一歩後ずさりして、顔を引き攣らせていた。鈴香が大きな声を出すところを初めて見た。引き出してしまったのは他でもない雪時本人で、同時に鈴香本人で。
「ごめん、何でもないんだよな」
顔を逸らし、頭の後ろを押さえて雪時は席へと戻って行った。
ただひとり残された鈴香。彼女の取り残された世界、そこには深い孤独が蠢いていた。その真ん中でひとり揺れていた。
――何でもないわけ……ないんだよ
鈴香の心に生まれたそれはいつもの寂しさとは違ってどうすればいいのか分からないものだった。受け入れたくてでも受け入れられなくて、拒みたくなって、でも拒もうとすると心がそれを咎める。どう動いたとしても自分を傷つけるだけの感情は鈴香があまりにも無力なのだと語っているよう。
どうしようもなくてどうにでも出来て、全ての結果に納得がいかなくて。
その想いは鈴香の胸を締め付けて、鈴香を苦しめては嗤っているよう。幼いひとりの女の子を惑わしておかしく仕立て上げていた。
そうした想いを痛みとして感じて今にもあふれ出してしまいそうな涙を飲んでただ堪える。泣いてはいけない、周りの迷惑でしかない。邪魔者は何をしても邪魔者なのだから。
眩しい日差しは鈴香をどのような想いで見ているのだろう。何を抱いて空の上で堂々としているのだろう。どのような時間を過ごしているのだろう。そうしたものの何もかもが必要もなく悲しいものに思えていた。
鈴香の心は中身の分からない悲しみを覚えていた。
大きくなれば理由が分かるものだろうか、大人になるということは、勇人や怜、洋子のように自分のことを知って、周りの人々が持ち込んだ運命を見つめながらそれに合わせた道を歩み続けることなのだろうか。
鈴香の胸の中に生まれた虚しさ、それが鈴香の成長のひとつの大きな通過点なのだということに気が付くのは、彼女の中に芽生えた想いが目に見える色を持つまでもっとずっと未来の話で、そう遠くない道の先の話。矛盾していながらにどちらとも持ち合わせていて共に背中合わせで待っている、それを知ることさえ未だ来ていない時のことだった。
鈴香は孤独の苦みを噛み締めながらも目の前の運命をただひたすら真っ直ぐ突き進んで行くことに決めた。今はただそうすることしか出来なかった。
☆
鈴香の空に映る空、一日にお別れを告げる陽が降りる空は美しい夕日とは程遠い。ただでさえ昏めの蒼い夕空は闇を飲んで更に昏くなっていた。そんな空を瞳に映しては一日の終わりを見つめてしまう。今日一日の何もかもが無駄でもったいないように思えて、そんな無駄で塗りつぶしてしまった時間を惜しむ想いに塗れた空。それを目にしていったい何を見ているのだろう。過去なのか想いなのか事実なのか。鈴香の中にはいったい何が残されているのだろう。
想いを目で探り言葉を手で探り。時間が過ぎていく中で鈴香の中に蔓延るものは沈黙のみ。言葉にできない想いはもどかしさを生んで飲みたくもない靄を広げる。
胸の中を泳ぐ想い、その名を知るには鈴香はあまりにも幼過ぎた。
これから訪れる夜、その中で勇人はいつもの通りに戦いに出るのだろうか。魔法の扱いに慣れて鈴香を狙う魔女を全て存在の根まで絶やしてしまうその日まで、永遠に命を運命を、心をも燃やしてしまうのだろうか。
学校の帰り道、いつもなら草木の青々とした匂いやアスファルトを踏む感触を、寄り道しながらのんびりと帰る中での、誰も知らないこの人生の一端を愉しみ尽くすものの、今日はどうしてもそのような気分になどなれなかった。
勇人が遠くへ行ってしまう。それがあまりにも心苦しくて寂しくて。空を見上げて想うことは口にも出すことが出来ない。言葉にしても想いの色は薄く空気に透けて消えてしまいそうだった。
家に帰り、待ち構える風景は母が食材をフライパンの上で転がしているところだった。日頃なら楽しみにしていただろう晩ごはんも今この気持ちでは味わうことが出来そうにもなかった。時計の針の進みはあまりにも遅くて心臓の動きはあまりにも速い。内で刻まれるカウントはどのような運命を迎えようとしているのだろう。
鈴香はひたすら待ち続けた。勇人を引き留めよう、勇人の戦いは必要ないということを、何か他の方法があるはずだと、考えようと提案するために。
ドアは、開かれた。父も母も祖母も既に家の中、誰が返って来たのかなど手に取るように分かった。今最も会いたいと思っていた人物、高校三年生の兄、年の離れた身内が家の中へと足を踏み入れ戻ってきた。
「ただいまー、母さん、鈴香」
子どもじみた声が、幼さを保ったままの顔立ちが、必要以上に子どもの姿を想わせて微笑ましい。鈴香が駆け寄ろうとしたその時、母が声を張り上げた。
「おかえり、ちょうどごはんできたよ」
はーい、気の抜けた返事を差し出して勇人は上がって行ってしまった。きっと鞄を置いて私服に着替えて戻って来るのだろう。
今日の晩ごはんはエビチリと棒棒鶏、わかめスープに溶き卵を入れた簡単なもの。きっと今夜も勇人を素早く戦場へと送るため、動きやすいように軽めのメニューにしたのだろう。
刹菜の説明によれば祖父が勇人を現状へと陥れた、それならば家族の全員、鈴香を除いてみんなが知っていてもおかしくはないだろう。ひとりだけ知らされない。家族のみんなが見ているセカイにひとりだけ入り込むことが許されない。仲間外れにされているような気分だった。渦巻く想いは濁り切っていて、小汚い泡が表面に張って薄汚い澱の水面を這っていた。
このような心情で果たして美味しい食事を美味しく味わうことなど出来るものだろうか。その答えは鈴香の舌に広がる緊張の味が語っていた。
味のない食事、それを勇人はいつも味わっているのだろうか。自身を犠牲にして全てを捨て去って、なにもかもを身内とは言えども他の人の為に捧げる。命をゴミ箱に放り込むような真似などして欲しくない。鈴香の中で渦巻く想いが膨らんで今にも破裂してしまいそうだった。
――いつも、こんな……ツラいごはん。嫌……だよ、勇人
食べ物を口から体内へと入れ込むだけの行為の先、待っていた瞬間は訪れる。
鈴香が廊下に出て視界が暗闇に覆われたその中で、ある影が動く姿を目にして。視界すら覆い隠す闇、何もかもが見えない暗黒の中、わずかに差し込むドアの向こう、リビングから差し込む光が勇人の動きを影にして映していた。
「勇人……勇人!」
鈴香の呼びかけは果たして届いただろうか、勇人がこれから靴を履こうとつま先を通した途端、鈴香の声が届いて二秒後のこと。振り向いて鈴香の潤んだ瞳を見つめて首を傾げた。
「どうしたの、鈴香」
勇人のいつも通りの優しい声は本音を隠し通しているようでどこか不気味でありながらも優しさは優しさ、本音なのだときっちりと感じさせた。
――行かないで
言いたいこと、その手を掴んででも伝えたいこと。向こう側へ、見えない闇の向こう側へと進んで欲しくない。想ってはいてもとても言葉にできた事ではなかった。想いは喉元に閉じこもり、ただ凝り固まって緊張へと変わる。震える指先、頭を揺らす感情、本心については何も出すことが出来ない。本音の代わりに言葉は変わり、ひとつ下、抑えられた言葉が吐息と共に出てきた。
「絶対に……帰って、きて」
勇人はただ一度微笑み言葉を残してドアの向こうへと身を投じた。
「大丈夫、分かってる」
消えた。いなくなってしまった。
――言いたい、こと……これじゃ……ないよ
行かないで、自分を大切にして、自分のために生きて。言いたいことは次から次へと心の中を駆け巡り、欲望は星となって目の前の夜空と重なった。
目の前に広がる夜空は勇人を飲み込み包み隠し、今何をしているのか、これからどのような戦いをするのか、全くもって想像も付かせない。
「生きて……帰ってくる、よね」
その中でもせめてもの願い。それはただひとつ星空の水面を滑って零れ落ちた。夜空は動き、流れ星という涙となって。
気が付けば鈴香の頬を暖かな一筋の想いがなぞっていた。
「いや、だ。勇人……戦わない……で」
鈴香の流れ星は願いをどこへと運んでくれるだろう。果たしてどこに持ってきてくれるだろう。どこに落ちてどうすれば拾い上げることが出来るだろう。どこまでこの闇を歩き続ければいいだろう。
鈴香には想像も付かせない。子どもの想いは決してただ単純なだけでない。分からないだけ、考える角度が少ないだけ、想いの色をなぞるだけの経験が足りないだけ。
夜空を彩る星々も、地球の周りを巡り続けては今そこに堂々と浮いている月だって、鈴香を正しい場所へと案内してくれるわけではない。
鈴香の胸を充たす息苦しさとそこに居座る願い。手は届かなくてただ身を震わせる涙となって、願いを空に運んではくれない小さな流れ星になって、幾度となく流れ続けるだけだった。
そんなひとりの少女の想いが身体から染み出て滲んで透ける幽霊のような姿となって鈴香の星空を漂い始めた。それはどのような感情の色をしていただろう。欲しがりの星であり、悲しみの流星でもあり、色はひとつではなかった。
その姿を目にした鈴香は心に溶け込んだ杖を形作り、呪文と共にこの世界へと解き放った。
『神聖なる道しるべよ 私に仲間に人々に 正しき導きを与えたまえ』
暗闇のセカイ、広くて果てどころか足元さえ見えない星空の下で鈴香は輝く杖を強く握りしめた。
カドゥケウスの杖はその姿を変える。白くて短い棒の先に着いた珠は透き通ったピンクに染まり翼は純白の天使へと昇華されて珠の翼を成す。互いに見つめ合っていた二匹の蛇は桃色のリボンへと姿を変えた。輝きはさらに増して鈴香のセカイを照らして、眩しさで彩り飾り付けていた。星空の下のちっぽけな舞台を舞う鈴香の衣装は受け入れの儀式の正装へと差し替えられる。
純白のドレスに身を包み、薄桃色のリボンが胸元を交差してしっかりと締め、仄かなくびれを持つウエストラインにリボンは巻き付く。左端に結ばれたそれは大きな蝶のようにひらひらと優雅に舞っていた。膝から足を覆う白いソックスは穢れのひとつも知らずに清潔の象徴、小さな足を覆う皮の靴は薄桃色の弱々しい輝きを放っていた。
前髪の左端にリボンが結ばれると共に鈴香は凛とした微笑みを浮かべて杖を構えた。
空を自由に舞う涙に目を向け世界の一端の更に一端しか見ていないその瞳でしっかりと捉えて口を動かした。
受け入れるために必要な言葉を、受け入れる心を、杖と共に輝かせて決められた言葉を唱え輝きを纏めた。
『光の導きは 正しき道へ 希望への道しるべを示したまえ』
詠唱は星々を集め、鈴香を儀式の主演として大いに輝かせた。
『LIGHT READ RIGHT LOAD』
それは鈴香の涙、一括りに出来ない感情の波の全てを受け入れる温かな光。
ヒトの想いは此の世の全て何もかもを探っても敵わない程に大きな星となる。
夜空を舞う透き通る鈴香と地を飛び回る魔法少女の鈴香、ふたりは遠く離れたその場で重なり纏め上げられた。鈴香の心の中に宿った悲しみに、心の重さを改めて背負い膝に手を当てる。いつの間に儀式は終わったのだろうか。そこに残されたのは、何処にでもいるひとりの少女だった。
「おかえり……悲しみと、願い」
次の儀式は何処の未来に待っているのだろう。それはきっと感情の延長線上に、人生の地平線のどこかに待っているはず。
鈴香は疲れ果てた身体を引き摺りベッドに預けた。星と月に見守られながら、感情の昂りに揺られながら薄れゆく意識は何処までも心地が良かった。
☆
目を覚ましたそこに待っていたのは明るい空、優しい日差しだった。柔らかな光を浴びながら目を擦る。思わず出てきてしまうあくびは鈴香の身体を心地よく揺らす。カーテンから木漏れ日のように微かに差し込む光、カーテンに遮られることなく透き通る空は何処までも広い。
足に絡み付く感情は学校へ行きたくないと背を向ける想いだろうか。そうした想いが日差しに当てられ後を引く影となる。
そうして妙な感情の手触りを確かめながらも鈴香は空を見る。瞳に映る陰をどかして映り込む光がそこにはあった。
「雪時くん……うん、私、もう……ひとりじゃ、ないんだ」
そう、今の鈴香はひとりではなかった。ほんの少し、軽くとは言えども一緒に話してくれる、そんな仲間がいてくれる。昨日の悲しみは嘘のように消えて、心いっぱいに想いの虹が広がっていた。